奇妙な夢
紗羅の翼を見た時も綺麗だと思った。
あの感動はもちろん今でも忘れていないが、翼を纏った杏子さんにはあれとはまた別の美しさがあった。
気高く、清らかな白。
ふわふわの羽毛が連なり形成された一対の翼――本来人間には備わっていない器官が背中から左右に伸び、全体として大きな存在感を演出している。
天使が今なお絵画や物語で数多く描かれるのも当然だと思える、そんな姿がそこにあった。
「御覧の通り、私は天使の末裔です。そして、世羅も」
「……あ、うん」
杏子さんの視線に促されて世羅ちゃんが立ち上がった。彼女は母親の隣に駆け寄ると、やはり寝間着を脱いで下着を晒した。
一瞬の光の後に現れたのは、杏子さんに比べると小ぶりな、けれどやはりどこまでも白く美しい翼だった。
「……ありがとうございます。こうして見ると実感が湧きます」
感謝しつつ頭を下げると、二人は姿を戻して席に着いた。
と、そこで俺は残されたもう一人の人物に目を向ける。
「ちなみに、凛々子さんは……?」
「私は羽々音の血族ではありませんのでー」
言って凛々子さんは首を振る。じゃあ、前に私を眠らせたのは?
「魔力を利用した暗示の一種ですよー。私も心得はありますので」
それもそうか。訓練すれば魔法が使えるのは俺自身が証明している。この屋敷に仕えるメイドさんなら、そのくらいは必須技能だろう。
「紗羅のお父さんは天使じゃなかったんですよね?」
「ええ。遠縁ではありますが、特別な力は持っていませんでした。……ですから、厳密に言えば紗羅も全く血を引いていないわけではないのですが」
天使の末裔、それも本家の人間と言うにはあまりに血が薄すぎる。その一方でサキュバスの血は色濃く受け継いでいる。
「深香さんが悠奈さんにお話した通り、羽々音家は私とこの屋敷を中心とし、他に多くの分家が存在しています。最終的な決定権は私にあるものの、基本的には合議制を取っているため、当主が思うままに取り仕切れるわけではないんです」
悪魔との因縁については既に聞いた通り。
羽々音の血族の多くは天使としての力と誇りを持っているから、当主である杏子さんの娘ではない紗羅に対しては風当たりが強い。
特に深香さんは限りなく本家に近い立場だったため、思いも強かったのだろう。
「……私が深香様を追い詰めた」
紗羅が小さく呟くと、杏子さんは首を振った。
「紗羅のせいじゃないわ。ままならない思いを募らせ、凶行に走ったのは彼女自身のせい。そして、あなたが危険な目に遭ったのは私のせい」
「お母さま……」
杏子さんの言葉に俺も頷く。
「紗羅は小さい頃から辛い思いをしてきたんでしょ? そのうえ、悪いことをしたわけでもないのに恨まれるのはおかしいと思う」
「……悠奈ちゃん」
納得した様子ではないものの、紗羅は小さく呟いて頷いてくれた。顔を曇らせたままの彼女の肩を世羅ちゃんがそっと抱く。
「お姉ちゃんは私たちの家族だもん。だから、安心してね」
* * *
「悠奈ちゃん、今日はそのまま休む?」
食堂を出て部屋に戻った俺は、同行した紗羅からそう言われた。
儀式を止めておくか、という意味だろうけど。
「いや、大丈夫。別に病気ってわけじゃないし」
痛いし気持ち悪いけど体力は残っているのだ。紗羅もこの前の戦いで消耗してしまったわけだし、なるべく回復させてやりたい。
「あ、でも。吸われる方の体調が味に関係したりする?」
だとしたら止めておいた方がいいような気がする。
なんかイメージ的にエグ味が強そうだし、生理中の精気って。
「ううん、悠奈ちゃんのなら私は平気だけど、でも」
「でも?」
「生理の時ってね、魔力が不安定になりやすくなるの。何か影響が出ないといいな、って」
ああ、なるほど。
とはいえ、魔力は別に持って行って貰ってもいいし。
それに、意図的に紗羅へ魔力を流す方法もわからない。今まで成功した時はどっちも極限状態で、しかも捨て身だったし。
「じゃあ、気持ち軽めってことで」
「ふふ。うん、わかった」
ベッドに座って身を寄せ合い、唇を合わせる。
……精気を吸われる感触にも、もう慣れた。体内の生命エネルギーが奪われるって考えると怖い事なのだが、紗羅が相手だからか不思議とそうは思わない。
むしろ触れ合っている安心感と、奇妙な心地よささえ感じる。
「じゃあ、今日はここまでね」
「……うん」
そうして俺たちは、普段よりも短い時間で口づけを終えた。紗羅が心配していた特別な現象も起こらなかった。
「おやすみ、紗羅」
「おやすみなさい、悠奈ちゃん」
ベッドに倒れこんで意識を落とす。
その夜、俺は夢を見た。
* * *
気づけば暗い空間に一人で漂っている。
上下左右の感覚が無く、何も聞こえず何も見えない。空中か水中、あるいは宇宙空間のようなところに浮いているようなイメージ。
空間の広がりは感じるものの身体の感覚すらも判然とせず、疑似的な圧迫感と閉塞感に襲われる。ただ、明らかに特異な情景であるという認識のおかげで、逆に「現実ではない」と安心することができたが。
そんな俺の前方に光が灯った。
小さな、けれど確かな光。半ば反射的にそちらへ意識を向けると、声が聞こえた。
「御尾悠人、あなたに試練を与えます」
その声は直接頭に響いているようだった。
今いる空間と同様、老若男女の区別もつかない。ただ、重々しい威厳だけがはっきりと伝わってくる。
「試練は全部で三つ。挑む、挑まないはあなたの自由。ただし、全てを達成した暁には、あなたに褒美を与えましょう」
試練に、褒美。
声のイメージと同様、どこか自分より上位の意思を感じる言葉だった。
しかし今はそれが当然のことのように受け入れられる。
「与える褒美は自由と日常。あなたに元の生活に還る権利を」
――え。
待った、それってつまり、元の姿に戻れるってことか?
疑問が浮かぶも返事はなく、ただ声は淡々と俺に語りかけてくる。
「第一の試練は、他者の命を救うこと。期間も対象も方法も問いません。誰かの手を借りても構わない。誰か一人の命を救いなさい」
刹那、光が弾けた。
大きく広がって俺を飲み込み、空間を埋め尽くしていく。闇を払うように、世界を塗り替えるように。
――一体、お前は誰なんだ。
俺の思考もろとも光が溢れ、目が覚めた。
* * *
「……朝か」
目を開けば、ここひと月ほどで見慣れた天井。
カーテンの隙間からは陽光が射し込み、既に夜が明けていることを教えてくれる。
生理の痛みは……まだ治まっていない。
「なんだったんだろう、あの夢」
不思議な夢だった。
具体的な情景は何もないのに、妙にはっきりと頭に残っている。正体不明の声が語った試練と褒美、その内容も。
強いて言えば、しばらく前、真夜に見せられた夢に近いような気がするが。
「……わからん」
俺はふっと息を吐くとベッドを下り、着替えを始めた。
そうして制服への着替えが終わった頃、部屋のドアがノックされた。
入ってきたのは紗羅だった。既に身支度を終えた彼女は、俺と朝の挨拶を交わすなりじっとこちらを見つめてくる。
「ね、悠奈ちゃん。昨夜、夢を見なかった?」
問われた俺の表情は、きっと間の抜けたものになっていたと思う。
洗顔や髪のブラッシングを済ませて食堂へ向かえば、まだ朝食の時間には早いにも関わらず、屋敷の家人が勢ぞろいしていた。
彼女たちは皆、一様に、狐につままれたような表情をしていた。
「皆も、あの夢を見たんですか?」
席に着きつつ尋ねると、杏子さんが代表して「ええ」と答えた。
「凛々子を除いた全員が。……もちろん、悠奈さんのお話を聞かないことには全く同じかどうかわかりませんが。おそらく、大まかな内容は共通しているはずです」
だとしたら、不可解な現象だ。
その割には皆、そこまで動揺はしていないか?
「あれは、何だったんですか?」
「おそらくは啓示です。それも、私たち羽々音と密接な関わりを持ち、かつ私たちよりも上位にいる者。すなわち――純粋なる天使からの」




