プロローグ
「悠奈ちゃん、気分はどう?」
「なんとか。後は帰るだけだし、昨夜よりはマシになったから」
下校途中のバスの中、心配そうに見つめてくる紗羅へにっこりと微笑む。
「テストまでに終わるといいね」
「……本当に」
始まったのが昨日の木曜日。期末テストは来週の火曜からなので、たぶん当日までには間に合う。ただ、試験勉強もしたいのでなるべく早めに収まって欲しい。
明日は半日授業だから、とりあえずそこまで乗り切りたい。
「もう、授業中は地獄だったよ……」
はあ、とため息。
初めて経験した生理の苦しみは想像以上だった。俺の症状は比較的重い方らしく、四六時中続く痛みと吐き気のせいで思考は乱れ、食欲は落ち、ただ生活しているだけで普段よりずっと体力を消耗した。
おかげで授業にも集中できないし、もう散々である。
ぐったりしていたらクラスメートにまで心配されてしまったし。
……これを月に一回って、女子の大変さをあらためて痛感させられる。
「こればっかりは、なかなか慣れてないって聞くものね」
「あれ、紗羅はあんまり経験ないの?」
「あ……うん。私は軽い方なんだ」
と答え、小声で囁いてくれたところによると、サキュバスの場合、普通の人間とは症状の種類が少し異なるらしい。
普段より興奮状態になりやすくなる、というのが主な症状で、代わりに痛みや吐き気といった身体への負担はごく軽い。出血も殆どないらしい。
「なんか、ちょっとずるいような」
「そう言われても……。それはそれで困るんだよ?」
男性の体臭にすらひどく敏感になってしまい、共学にいた頃はかなり辛かったらしい。
「……それに、生理用品が減らないし」
「……あー」
なまじ使わなくても済んでしまうので、その辺りへの配慮が疎かになりがちなのだとか。ずっと減らないまま鞄に入っているのも不審に思われかねないので、定期的に中身を減らしたり。
「だから、悠奈ちゃんがちょっとだけ羨ましいかも」
「紗羅……」
俺は紗羅をじっと見つめ、
「だったら代わって欲しい」
と、割と本気で口にしたところ、困った顔で「無理だよ」と言われてしまった。
……そりゃそうか。
「ただいま戻りました」
やがて最寄りのバス停に着き、俺たちは屋敷に帰り着く。それを凛々子さんが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませー、お嬢様、悠奈さん」
にこにこと会釈をした彼女は、俺たちの脱いだ靴を下駄箱に移動させつつ、俺の体調を尋ねてくる。それには紗羅に答えたのと同じように返した。
「そうですかー。じゃあ、お夕飯の量はどうされますか?」
「えっと、そうですね……」
お腹は空いているが、食欲はやはり減退している。お昼のお弁当も食べきれなかったので、余りはそれとなく紗羅に食べて貰った。
「ちなみに、予告通りお赤飯ですがー」
「いつも通りで。……あ、いや。気持ちだけ少なめで」
「了解しましたー」
くすりと笑って凛々子さんが頷く。ちょっとだけ恥ずかしいけど、しかし赤飯を食べられる機会を逃すわけにもいかない。
羽々音家の食事は洋食中心なので和食は貴重なのだ。
「それではまた後ほどー」
「はい」
凛々子さんにぺこりとお辞儀をして、紗羅と二人廊下を歩く。
メイドさんとはいえ、凛々子さんに鞄を運んでもらったりはしない。ただでさえ忙しい彼女にそこまでさせられない、というのが子供たちの共通見解だ。
「それじゃあ、無理しないでね」
「うん、ありがとう」
部屋に戻ったら、普段は先に宿題を済ませるのだが、今日は少しだけ楽することにした。過ごしやすい服装に着替えてベッドへダイブ。短い昼寝をしたあとでのんびり机に向かう。
……終わらなかったら紗羅に見せてもらえば?
と、一瞬思うも却下。きちんと自分でやらないと意味がない。
結果、なんとか夕食前に宿題を終えた。
* * *
「ところで、悠奈さん。話し方変えました?」
入浴を済ませて夕食の席。
まだ湯気の立つ赤飯に目を輝かせていると、隣の世羅ちゃんがそう尋ねてくる。
「あ、やっぱりわかる?」
「はい。今朝くらいから、ちょっとだけ変えてますよね?」
首を傾げて言う彼女。
その向こうにいる紗羅はどうかと視線を向ければ、「わかってたよ」というような微笑が返ってきた。そりゃ気づいてるか。
「変かな?」
「そんなことないですよ。でも、どうして急に?」
「えっとね」
どうして、と聞かれると微妙に困るが。
きっかけはやっぱり、生理を迎えたことだ。
「なんか、女の子になったんだなってあらためて思って」
学校以外でもなるべく頑張ってみることにした。
だから、言うほど大袈裟な話でもなかったりする。ただまあ、一念発起した結果なのも事実だけど。
すると世羅ちゃんはくすりと笑って頷いた。
「頑張ってくださいね。応援してますから」
「うん、ありがとう」
見れば、杏子さんや凛々子さんもにっこりと微笑んでいた。どうやら皆、概ね問題なく受け入れてくれているらしい。
「……ところで、悠奈さん。体調の方が差し支えなければ、深香さんとの出来事を教えていただけますか?」
「あ、はい」
そこから会話は真面目な方向にシフトした。
先日の深香さんとの一件について、深香さん本人や紗羅からの説明は終わっているものの、俺からの報告はまだだ。生理中とはいえ体力は戻っているので、この機会に報告を済ませる。
深香さんと出会ってからの出来事を、特訓の様子も含めて話し終える頃には食事も終わっていた。凛々子さんがお茶を淹れてくれる中、杏子さんは息を吐く。
「ありがとうございます。深香さんや紗羅から聞いた内容とも一致しています。……それから、特訓は基本的にきちんと行われていたようですね」
「ある感覚を塞げば、他の感覚が鋭敏になる。催眠を利用して体内の魔力に意識を向けさせる……理には適っていると思いますー」
続けて言った凛々子さんの視線は、何やら紗羅の方を向いていた。
……あ。いつの間にか機嫌が微妙に悪くなってる。俺と深香さんの特訓の様子を詳しく聞いたせいだろうか。
思う間にも話は続く。
「特訓自体は遂行しつつ、余計な暗示を仕込んでいた。……魔力を使うのではなく、言葉を利用して」
「それでは悠奈さんが気づかないのも仕方ないですねー」
特訓がおざなりになっていればさすがに俺でも気づくし、屋敷内で魔力を用いた暗示を仕掛ければ杏子さんが感知する。だから遠回りな方法で俺を操ろうとした。
「当主の許可なく勝手な行動を取ったこと。大切な客人に手を挙げたこと……これらはどう言い繕おうと深香さんの過失です。強く主張し、認めさせます」
深香さんを弁護する向きもあるだろうが、否定できない非がある以上、悪い話にはならないだろうという。
――そこで、俺はふと疑問を浮かべた。
「あの。そもそも深香さんの言っていたことは事実だったんですか? この屋敷と親戚との関係とか」
「ええ、事実です。……そうですね、それについてもお話しておきましょう」
そう言うと、杏子さんはティーカップを置いて立ち上がった。
数歩、テーブルから離れると彼女はこちらを振り返り、おもむろに着衣のボタンへ手をかける。
え、と思ううちにボタンが外されていき、白い肌が露わになった。
凛々子さんが背後に回り、杏子さんが脱いだ衣装を受け取る。そして、彼女が脇へと移動すると一瞬、杏子さんの身体が光に包まれ――。
ばさりと。
背中に生まれた白い羽毛の翼が軽く羽ばたいた。
お話でよくあるように、それだけで羽毛が飛び散るようなことはなかったが……しかし、それはとても綺麗な光景だった。




