再び海辺で
静かに玄関まで移動し、靴を持って部屋に戻った。
寝間着から外出着に着替えて赤いコートを羽織ると、着替えを済ませた深香さんが俺を抱き上げる。
「な……っ」
「じっとしていてくださいね」
彼女は窓を開けると、そこから身を躍らせた。
浮遊感の後、とん、と軽い衝撃。人間二人分の重量が落下した割に音は小さかった。
「では、『大声を上げずに付いてきてください』」
深香さんの指示のもと、二人でゆっくりと庭を歩く。
「車は使わないんですか?」
「どうしても音が出ますから。道に出てからタクシーを拾います」
屋敷の外壁を越える時は深香さんに再びお姫様抱っこをされた。女の子扱い、というよりもはや荷物扱いだ。
深香さんは宣言通り、大通りに出るとタクシーを拾った。
運転手に伝えた行き先は……この前行った海か?
「そこで何をするんですか?」
「着いてから話しましょう」
質問に答える気はないようだった。俺は仕方なく黙り込む。
……どうすればいい?
スマホが無い以上、羽々音家に助けを求めることは不可能。深香さんはスマホを持っているだろうが、GPSからの位置特定には期待できない。
騒いでタクシーから降ろしてもらう? ……駄目だ、さっきの指示がまだ効いているから大声は出せない。無言で暴れる手もあるが、それで事故でも起こされたら大変だ。
結局、逃げ道は思いつかない。
観念して車に揺られ、浜辺で降りる。深香さんはタクシーを待たせず、料金を払って帰らせてしまった。
夜、人気のない場所に二人きり。羽々音の屋敷からも遠く離れている。
ピンチ度合で言ったら、真夜との対決時以上かもしれない。もちろん、深香さんが俺を害するつもりなら、だが。
砂音を響かせつつ中程まで歩いたところで、俺は深香さんに尋ねた。
「それで、俺をどうするつもりですか?」
「どうする、なんて人聞きが悪いですね。ただの、散歩がてらのお話ですよ」
そう言って嘯く深香さんの様子は普段とそう変わりない。
ただ、今はそれが逆に恐ろしくも思える。
「………」
「……わかりました。用件を済ませてしまいましょう」
黙って見つめ続けると、彼女はふっと息を吐いた。
「悠奈さん。紗羅さんと一緒に羽々音の屋敷を離れ、お二人で暮らしてください。そして二度と屋敷に戻らないと約束してください」
「っ」
これも暗示なのだろうか。
そう思って身構えるが、幸い強制力が働く様子はなかった。
ならば、と俺は深香さんに尋ねる。
「どうして? 紗羅が天使じゃないからですか?」
「そうです」
意外にもはっきりとした回答が返ってきた。
「悠奈さんの言う通り、わたくしたち羽々音の血族は天使の末裔です」
声と共に深香さんの身体を光が包む。一瞬の後、彼女は白い羽毛の翼を携えた姿へと変わった。
頭に光輪こそ浮かんでいないものの、それは紛れもなく俺が想像する天使の姿だった。
「天使……ってことは、深香さんたちは人間じゃないんですか? 真夜、悪魔と同じように」
「いいえ。わたくしたちは基本的には人間です。紗羅さんたちサキュバスと同様、多少の差異はありますけれど」
あくまでも『末裔』なのだと深香さんは付け加えた。
天使も悪魔も、かつては人ではない『純血』が多く存在した。けれど時と共に、彼らは人と交わり子を成していった。深香さんや杏子さんたち羽々音家はそうやって生まれた「天使と人間の子供の子孫」なのだという。
一方で、真夜は現代では数少ない純血の悪魔。故に深香さんたち末裔とは比較にならない力を持ち、末裔たちからは特に敵視されている。
「そんな中、紗羅さんは天使の血を引いていない。それどころか悪魔に近いサキュバスの血を引いている」
だから、羽々音の関係者たちは紗羅のことを良く思っていない。
「そこで、今のうちに屋敷を出て欲しいのです。そうすれば力ずくで排斥されることにはなりません。承知していただけませんか?」
「……紗羅の気持ちはどうなるんですか?」
こんな大事な話、本人抜きでするべきじゃない。
俺は深香さんの話に乗ってもいいと思う。以前話に聞いた通り、自分から屋敷を出るメリットもわかる。
ただ、それは紗羅が承知したうえでの話だ。今ここでは決められない。
すると深香さんは薄く微笑む。
「大丈夫です。悠奈さんが説得してくだされば、紗羅さんも了承するでしょう」
「な……」
確かに、俺が頼めば紗羅は折れてくれるだろうが、それでは殆ど脅迫じゃないか。
「だって。それで紗羅さんが無駄に苦しい思いをする必要もなくなるんですよ? 悠奈さんだって、気兼ねなく彼女と交際できる方が良くはありませんか?」
要は杏子さんの庇護を抜ける、という意思表示が重要なのだ。それが屋敷を出ることで明確になれば、あとは俺たちの自由。紗羅の行動に逐一が文句をつくこともなく、俺への庇護は変わらず続く。
「別に、わたくしも伯母様も、彼女を酷い目に遭わせたいわけではないのですから」
……話自体は悪くない、のか。
正直、心が揺れた。そうするべきなのか、と思ってしまう。
本当にそれが自分の意思なのか、確信が持てないままに。
そこで、ちりん、と鈴の音がした。
「面倒くさいわね。それが貴女の本音? 違うでしょう?」
「真夜?」
鬱陶しそうな声が浜辺に響き、いつの間にか足元に佇んでいた黒猫が俺を見上げた。何しに来たんだ、こいつ。
疑問に思いつつも抱き上げてやると、真夜は満足そうに腕の中へ納まる。
「正直に言いなさいよ。家の事情とか、あのお嬢ちゃんのためを思ってとか、余計なこと抜きで。その方が面白くなると思うけど」
「………」
青い瞳に見据えられた深香さんの表情が変わる。
敵意、警戒心、戸惑い――そういったものが入り混じった複雑な表情へと。
真夜自身と、彼女の言葉に反応した?
面白い、などという基準で語る真夜の真意が何なのかはわからないが、指摘された内容の何かが深香さんの琴線に触れたのだろうか。
「……どういう意味でしょう? わたくしはあくまで双方の利を考えて」
「だから、貴女の『利』はどこにあるのかって聞いてるの」
「っ」
深香さんが真夜を睨んだ。
「あら、煽られるのは慣れてないみたいね」
「……外野は黙っていてください。今は悠奈さんと話をしているんです。ね、悠奈さん?」
声音が変わる。
深香さんが俺に近づき、耳に顔を寄せる。囁き声が耳に届く。
「わたくしの言っていることが正しい。わたくしの言う通りにしていれば大丈夫。そうですよね?」
その声を聴くたび思考に霞がかかっていく。
意識が深香さんに、深香さんの声だけに集中する。
「さあ、復唱してください。あなたは紗羅さんと二人で暮らす。それが誰のためにも一番いい」
「俺は、紗羅と二人で……」
駄目だ。
最終的にそれを選ぶとしても、無理やり選ばされるのは。
「嫌だ」
「……え?」
「最終的にそうするとしても、無理やり言わされるのは嫌だ。紗羅と話し合って二人でちゃんと決めたい」
そう告げて口を噤む。
すると深香さんは苛立たしげに手を振った。彼女の手から光が放たれ、矢のように俺の額に突き刺さる。すうっと、暗示が更に強くなる。
「悠奈さん? 復唱してください、さあ」
「……あ」
嫌なのに。
抗えない。無理やり復唱させられ、心の奥へと刻み込まれる。与えられた正しさを、刷り込まれた道理を。
……紗羅。
「悠奈ちゃん!」
思った刹那、紗羅の声が聞こえた。
はっと我に返った俺は、慌てて深香さんから距離を取る。腕の中の真夜がくすりと声を漏らした。
「結構我慢したわね。もっと早く割って入るかと思ったけど」
「それって、どういう……?」
尋ねる間もなく、紗羅の姿が虚空から現れた。既にサキュバスの姿で、彼女は砂浜を駆けてくると俺と深香さんの間に割って入る。
……紗羅、パジャマのままだ。
「……紗羅さん、いつから?」
「最初からです。姿と気配を消して、話を聞かせてもらいました」
呆然と呟く深香さんを紗羅が睨みつける。
臨戦態勢。身内である深香さんを相手に容赦のない態度だが。
「悠奈ちゃんを洗脳しようとしましたね? そんなの、絶対に許せません」
言って、紗羅がこちらを振り返る。
目が合った。優しい微笑みにほっとする。
「洗脳、って」
「たぶん、特訓中に少しずつ、言葉で暗示をかけてたんだと思う。深香様にとって都合のいいように。深香様に逆らわないように」
直後、不意に身体が熱を帯びた。頭と胸、そのあたりから何かが解けて消えていくような感覚。
「暗示が解けたみたいね。さすが、こういうのはサキュバスの十八番ね」
……そうか。
今ならなんとなく理解できる。俺はずっとさっきまでのように、それとなく思考を誘導されていたのだろう。
凛々子さんに酷いことを言ってしまった時とか、他にもたくさん。
「ごめん、ありがとう紗羅」
「ううん。無事で良かった、悠奈ちゃん」
真夜の言葉に、紗羅が頷く。
「ありがとう、真夜。あなたが知らせてくれたんでしょ?」
「まあね。その方が面白そうだったから」
真夜が、紗羅に?
それは、やや信じがたい話ではあったが、そう思ったのは深香さんも同じだったようだ。
「だから、わたくしが気づかなかったのですね。皆さんの反応には注意したつもりでしたが」
「そうです」
紗羅が振り返り、再び深香さんと対峙した。
「もう、私たちを振り回すのはやめてください、深香様」




