特訓の前に
「あ、悠奈さん。特訓はわたくしが担当することになりましたので」
「え」
夕食は野菜たっぷりのクリームシチューだった。外出して冷えた身体には嬉しいメニューをほくほくしつつ口に運んでいると、不意に深香さんから告げられた。
急な話に顔を上げ、ぽかんと彼女の顔を見てしまう。
「あら、ご不満ですか?」
「あ、いえ。俺は構いませんけど」
なんとなく、杏子さんか凛々子さんに教えてもらうものだと思っていたのでびっくりしたのだ。
ちらりと杏子さんの顔を窺うと首肯が返ってくる。
「ええ、申し訳ありませんが、そういうことになりました」
「あ、はい」
さっき言ってた深香さんの用事っていうのはこれだったのか。眉を下げた杏子さんの表情からして、彼女にとっても予定外だったようだ。
「でも、どうしてまた?」
「特に深い意図はありませんが……住まわせてもらっているお礼と、交流の一環でしょうか。杏子さんはお忙しいですし」
なるほど。それは確かにそうかもしれない。
さっそく今晩から特訓を始める、という深香さんと具体的な時間や場所を話していると、紗羅が杏子さんに向けて声を上げた。
「お母さま……いいんですか?」
浮かない顔。それ自体は珍しくないものの、今回は愁い顔というより怪訝そうな表情に見えた。
紗羅に尋ねられた杏子さんはほんのりと笑みを浮かべる。
「ええ。深香さんがどうしても、というのでお願いしました」
「……そうですか」
母からの答えを聞いて息を吐く紗羅。
どうしたんだろう。紗羅は深香さんに特訓を任せるのは反対なのだろうか。
深香さんはというと、杏子さんの隣で食事を進めつつ曖昧に微笑んでいた。
「あの、特訓って、悠奈さんは何をするんですか?」
「……さあ?」
そこへ世羅ちゃんが明るい声で聞いてくる。俺はまだ詳しい事を何も聞いていないため首を傾げるしかなかったが、
「それは、始まってからのお楽しみですよ」
深香さんの意味ありげな台詞に、なんだか嫌な予感がした。
* * *
買い物帰りに真夜と遭遇した件は食事中に報告した。
話をしにきたと言って危害を加えてはこなかったこと、伝えられたのも曖昧な内容だけだったことを話すと、杏子さんたちは胸を撫で下ろした。
「ご無事で何よりです」
「猫の姿から変わらなかった……というところを見ると、力を抑えていたのかもしれませんねー。やはり多少は消耗しているのでしょうか」
夕食が終わると、深香さんは「それでは、また後で」と食堂を出ていった。彼女に頷きを返しつつ、俺も席を立つ。そこで紗羅に呼び止められた。
「あの、悠奈ちゃん。特訓って……どうして急に?」
「ああ……ごめん、紗羅にはちゃんと話してなかったよな」
突然、あんな話が出たから混乱させてしまったかもしれない。
「ほら、自衛のためには俺も少しは戦えた方がいいだろ? だから杏子さんにお願いしたんだ。……まあ、何故か深香さんが先生になったみたいだけど」
表情を曇らせたまま見つめてくる彼女にそっと微笑みかける。
「真夜の件は偶然だけど、やっぱ鍛えておいた方がいいしさ」
「それは、そうだけど」
「大丈夫。危ない事はしないから」
「……本当?」
「ああ……たぶん」
深香さん次第だから確約はできないんだけど、自衛のための特訓で大きな怪我するとか、そういうのはないと思う。
するとようやく紗羅は頷いてくれた。
「わかった。……いつ頃終わるのかってわかる?」
「あー、いつ頃なんだろうな」
始まってからのお楽しみ、と言われてしまったので見当もつかない。
「まあ、明日は日曜だし、多少遅くなっても問題ないと思う」
「……ん、そうだね」
紗羅はふっと息を吐くと小さく微笑んだ。
それから「無理しないでね」と言って部屋を出ていった。
……少しは機嫌、直ってくれただろうか。
「悠奈さん、良かったんですか? お姉ちゃん、ちょっと寂しそうでしたよ」
やりとりを横で聞いて世羅ちゃんが、俺を見て首を傾げた。
寂しそう、か。
うーん。それはそうなんだけど……。
「俺の特訓に、紗羅を付き合わせるわけにもいかないし」
レベルが違い過ぎて、一方が置いてけぼりになるのが落ちだ。
「あと、特訓してるところはあんまり紗羅に見られたくないかなって」
「……男の子ですねー」
ため息をつかれた。
「わかりました。ちょっと、私がお姉ちゃんと遊んできますね」
「ありがとう、世羅ちゃん」
代わりに紗羅のストレス解消をしてくれようというのだろう。お礼を言って頭を撫でると、うっとりとした表情を浮かべる。
「って、こういうのはお姉ちゃんにしてあげてください」
「いや、同い年の子にやるのはなんか違わない?」
「そんなことないと思いますけど……まあ、いいです」
世羅ちゃんも席を立ち「特訓、頑張ってくださいね」と食堂を出ていった。
……もちろん。できる限り頑張るつもりだ。
「よし」
軽く気合を入れると、部屋に戻って着替えた。深香さんから指定されたのは水着で、着替えた状態で部屋に居ろとのことだった。いったい何をするんだか見当もつかない。ともあれ、しっかりと水着に着替えた。
紺色ベースの競泳水着。身体にぴっちりした感触は、ある意味で戦闘服っぽくて気が引き締まる。
防寒に上着を羽織りつつしばらく待つと、深香さんがやってきた。彼女はゆったりした寝間着姿で、何やら手提げ鞄を携えていた。
「ふむ、準備は大丈夫そうですね」
「はい」
上着を脱ぎ水着だけになった俺は、深香さんと少し距離を取って対峙する。
「あの、それで何を?」
「ええ。まずは悠奈さんの魔力量をチェックします」
「魔力、って俺にもあるんですか?」
「もちろん。誰にでも多かれ少なかれ、魔力は備わっていますよ」
魔力。神通力や仙力、聖気だのといった呼ぶ者もいるが、簡単に言うと生物が持つエネルギーのうち、生命維持や成長に使われず残った余剰分のことらしい。
「精気、っていうのとはまた別なんですか?」
「サキュバスが吸う精気は、おおもとの生命エネルギー力の方ですね。サキュバスはこれを自身のエネルギーにしたり、あるいは魔力に変えて蓄積しています」
悪魔などは生命エネルギーと魔力の境界が曖昧で、魔力を使い切れば存在自体が消滅する。また、人間の中にも鍛錬などにより魔力を生命エネルギーに変換、あるいはその逆を行える者もいるとか。
「その辺りは余談になりますが……つまり、この魔力を利用する術を身に着ければ、神秘に対抗する力になりうる、ということです」
言いながら、深香さんはごそごそと何かを鞄から取り出す。そうして脇のテーブルに丈夫な革を金属で装飾した枷のようなものが置かれた。全部で五つあり、それぞれのベルト部分には同じように小さな宝石が付いている。
「これは?」
「見ての通り拘束具ですが」
「いや、そうじゃなくて、どう使うのかを知りたいんですが」
「もちろん、魔力を計るんですよ」
と、深香さんは俺を見てくすりと笑った。
「さあ、悠奈さん。そこの椅子に腰かけてくださいますか? ……大丈夫です、ちょっと腕と足を拘束して首輪を嵌めるだけですから」
「その指示で素直に頷けるわけないじゃないですか!」
特訓とか言いながら、自分の趣味を満足させたいだけなんじゃなかろうか。そういうのは世羅ちゃん相手に――いや、それは絵面的にまず過ぎるが。
思わず一歩後ずさると、その間に深香さんは二歩分以上距離を詰めてきて、俺の右手をがっしりと掴んだ。
「お、お嫁に行けない身体にされたりしないですよね?」
「あら、行くおつもりがあったんですか?」
いや、ちょっと待って怖い!
しかし抵抗も空しく俺はそのまま引っ張られ、椅子へ座らされ、肘掛けと椅子の足に四肢を繋がれてしまった。
そして、最後に首にも枷が嵌められ、ベルトできゅっと絞められる。冷たい革の感触と、ソフトながらしっかりした拘束感に背筋が寒くなる。
「や、止め……」
「大丈夫です、じっとしていればすぐに済みますから」
恐怖で顔をひきつらせた俺と対照的に、満面の笑みを浮かべた深香さんは、そう言って俺の身体へと手を伸ばしてきた。




