母娘喧嘩
宿題を済ませた後は皆で順番に風呂へ入り、夕食を迎えた。
凛々子さんお手製の美味しいご飯を堪能し終えたら、今日は部屋に戻らず食堂へ残る。そうして凛々子さんが食器を下げ終え、紅茶を淹れて下がったところで杏子さんが口を開いた。
「それじゃあ、始めましょうか」
「……はい」
紗羅、俺、世羅ちゃんが軽く息を飲み、それぞれに頷く。
――何を言われるのだろう。不安と緊張からわずかに鼓動が早くなる。
杏子さんはそんな俺たちを見つつ、紅茶を一口飲んでから言った。
「あなたたちに言っておきたいのは、もっと危機意識を持ってほしいということです」
危機意識。
そう言われて思い当るのは他でもない、例の真夜との一件だ。
紗羅、そして世羅ちゃんも同じように考えたのだろう。はっと表情が硬くなる。
「あのあと、悠奈さんと紗羅には話しましたがもう一度、あらためて言います。あなたたちはもう少し、自分の身を案じるべきです」
そもそもあの一件は、俺が世羅ちゃんから聞いた話が切っ掛けだった。
そこから俺が紗羅を説得し、結果、杏子さんや凛々子さんに詳しい相談をしないままなし崩し的に真夜との対決に至った。
半端な知識で俺を煽った世羅ちゃんも、無知ゆえの無謀さを発揮した俺も、それに乗ってしまった紗羅も自重が足りていない、と杏子さんは言う。
「危険を回避するためには近づかないこと。それに勝る方法はないということを肝に銘じてください。もし、どうしても危険を冒す必要があるのなら、まず私や凛々子に相談してください。いいですね?」
「はい」
俺と紗羅は声を揃えて頷いた。
杏子さんの言うことはもっともだ。あの戦いで俺たちは身の程を知った。偶然の現象と友人の協力で勝ちこそ拾えたが、本来なら真夜にあっさり殺されていてもおかしくなかった。
……もう一度、同じことをして勝てるとも思わない。なら、今後は慎重に慎重を重ねて行動するべきだと思う。
しかし、世羅ちゃんだけは納得いかないという表情で首を振った。
「でも、お母さん。私は、お姉ちゃんと悠奈さんが間違っていたとは思わない」
「世羅」
「だって、あのままだったらお姉ちゃん、ずっと苦しまなきゃいけなかったんだよ? 悠奈さんだって、私たちの都合で振り回されて可哀そうだよ」
杏子さんが嗜めるように声を上げても、世羅ちゃんは言葉を止めなかった。最後まで喋りきった後、むくれたような、やや子供っぽい怒りの表情で母を見つめる。
そんな世羅ちゃんを見た杏子さんは、一瞬、困ったような顔をした。それから表情を引き締めて告げる。
「そうね。でも、だからといって紗羅や、悠奈さんを危険に晒してもいいことにはならないわ。そこを間違えないで」
「……それって、勝手だよ」
世羅ちゃんが軽く俯き、声を震わせる。
……何て声をかけたらいいのだろう。杏子さんと世羅ちゃんの親子喧嘩なんて、付き合いの短い俺にはどうしていいかわからない。
でも、話題が俺と紗羅のこととなると無視してはいけないようにも思う。
世羅ちゃんを挟んで向かいに座った紗羅も似たような心境のようで、しばし迷うような素振りを見せた後、世羅ちゃんに手を伸ばす。
けれど、その手が届く前に世羅ちゃんは顔を上げた。
「仕方ないからって言って、結局自分たちに都合のいいようにしてるじゃない。お家やお母さんの都合のために、何でお姉ちゃんが我慢しなくちゃいけないの?」
「世羅!」
鋭い声が飛び、世羅ちゃんがびくりと身を震わせた。
強いて感情を抑えているのだろう。杏子さんはゆっくりと世羅ちゃんに言って聞かせる。
「割り切りなさい。……あなたも、いずれ通る道なのだから」
「わかってる。わかってるけど……っ」
抑えきれない、という感じで呟いて、世羅ちゃんが席を立った。彼女はそのまま小走りに食堂を出て行ってしまう。
ばたん、と扉の開く大きめの音が食堂と、それから廊下に響いた。
「世羅!」
開きっぱなしの扉を見ながら杏子さんが立ち上がる。
杏子さんは扉の方へ歩き出そうとして、ふと気づいたように俺たちを振り返った。
「申し訳ありませんが、今日の話はこれでおしまいにさせてください」
「は、はい」
俺たちが頷くのが早いか、彼女は「ありがとうございます」と呟いて食堂を出ていった。残された俺たちは呆然とするしかない。
「二人が喧嘩するのって、よくあることなのか?」
「……ううん。小さい頃はともかく、最近は殆どなかったかな」
じゃあ、やっぱり俺たちが原因なのか。
「……でも、俺たちには口出ししにくいよな」
「うん……。世羅には感謝してるから、余計にね」
行動の是非はともかく、俺たちがこうしていられるのは世羅ちゃんのおかげだし、俺たちだって無茶した立場だ。
だから、世羅ちゃんを率先して諭すのは気が引けてしまう。
杏子さんに任せるしかないか、と二人してため息をつく。
「そういえば、紗羅。さっき杏子さんが『割り切れ』って世羅ちゃんに言ってたのは」
「世羅が成人したら、羽々音の当主を譲ることになるから。……まあ、当主っていっても、そこまですることがあるわけでもないんだけど」
……この屋敷と、杏子さんの立場を継ぐのは世羅ちゃんに決まってるってことか。
自分は杏子さんの子供じゃない、と以前紗羅が言っていたのを思い出す。
と、
「お話は途中で終わってしまったみたいですねー」
「凛々子さん」
食堂へ凛々子さんがやってきた。彼女はテーブルを一目見るなり状況を察したようで、そっと俺たちに微笑んでくれる。
「杏子様としては、きっと後のお話の方が重要だったんだと思うんですがー」
「後の話?」
「はい。悠奈さんを元に戻す方法のお話ですー」
「……あ」
なるほど。さっきの話はどちらかというと前置きだったのか。
凛々子さんは頷いて、
「今日明日でどうこう、という話ではありませんが。杏子様なりに悠奈さんのことを考えているのだと思いますー」
「……そう、ですか」
俺はどうしても紗羅の側に立ってしまうので、反発が先に来る。恩とは別に、記憶の件などについては憤りもある。けれど、凛々子さんの言うこともわかるような気がした。
ふと紗羅の方を窺うと、彼女は何やら右手を握って黙り込んでいた。
「あの、凛々子さんは」
「?」
「俺たちのこと、どう思ってますか?」
思わず口をついて出たのは、ものすごく抽象的な質問だった。
面と向かって「どう思っているか」なんて聞かれたら、相手だって困るだろうに。
「……んー、そうですね」
案の定、凛々子さんはすぐには答えず間を持たせた。
「私は難しいことを考えるのは得意ではないので、率直に言いますけどー」
「はい」
「大好きですよー。大切な家族だと思ってます」
慈愛の籠もった瞳が俺たちを見つめる。それに反応した紗羅が顔を上げた。
「……あ」
呆然と、しかし頬をうっすらと染めたその表情はとても綺麗だった。
――ありがとうございます。
なんとなく救われたような気持ちで、俺は凛々子さんに感謝の視線を送った。すると彼女も理解してくれたのか、そっと小さく頷いたのだった。
その後、お茶を飲み干した俺と紗羅は食堂を後にした。
世羅ちゃんとは明日、顔を合わせたらいつも通りに接することを決める。俺たちが介入しすぎるのは彼女も辛いだろうから。
でも、その日の儀式は少しだけ、湿っぽい感じになってしまった。




