迷い
「ごめんなさい。気づいてあげられなくて」
『……紗羅?』
胸元に抱き寄せられた俺は、顔に水滴のようなものを感じて彼女を見上げる。
紗羅は泣いていた。
涙を浮かべてこちらを見つめる姿に、堪えていた涙が溢れた。
「辛かったよね。御尾くんも、悠奈ちゃんも」
温かい。
優しい言葉がすっと心に入ってきて、俺は彼女の胸に顔を押し当てたまま声を上げてしまう。狐の泣き声なんて、聞くほうからしたら耳障りだと思うけど、もう抑えられなかった。
周りの様子さえ殆ど気にならない。
ただ、紗羅が俺を抱きしめながらかすかにすすり泣いているのだけは、なんとなく感じ取れた。
どれくらいそうしていただろうか。
「二人とも、落ち着いた?」
「……はい」
『……うん』
恥も外聞もなくわんわん泣いたら、だいぶ気分がすっきりした。ただ、そうすると今度は途端に恥ずかしくなる。
紗羅の膝に乗ったまま身をよじると、それを見た母さんが苦笑を浮かべた。
「本当にもう」
声には特別、怒った様子はなかった。見れば他の皆も似たような表情だ。
「あんたがこんなに深く異能に関わるなんて思わなかった。私の分までそっちに行っちゃったかな」
「姉さん」
「冗談だって。でもね、悠人」
母さんの表情がふっと真面目になる。年相応の経験と皺を刻んだ大人の顔だ。
「少なくとも私やお父さんは、あんたを責めない。私やもちろん、私と結婚してくれた父さんも、関わりを避けていたなりに『そういう世界』のことは理解してる。あんたの悩みがどうしようもないことだ、っていうのもわかるから」
母さんの言葉に、華澄の両親やお祖母さんも頷く。悠華や真夜は……こいつらに迷惑だとか気にする必要もないだろうから除外するとして、凛々子さんと華澄もまた、俺に優しく微笑んでくれた。
「私が悠人さんを責めるなんてあり得ませんー。悩んでくださるのは、それだけお嬢様を大事に思ってくださっている証拠ですし。……大本を辿れば、私たちの家の問題に巻き込んでしまったのが原因ですから」
「華澄も、迷惑などとは思いません。むしろ……」
切られた言葉の先を華澄は告げてくれなかったが、表情から気持ちは伝わってきた。
――いいんだ。悩んでも構わないんだ。
『悠奈』を否定できない気持ちは間違っていないのだと、皆の言葉と表情からそう思えた。
『ありがとう、みんな』
枯れたはずの涙がまた溢れてきそうになるのはさすがに我慢した。
なんとなく場の空気が和んでいって、自然と俺たちは朝食を始めた。さすがに料理は冷めかけていたが、御尾家の食事はそれでも美味しい。
「で、どうするの?」
食事中、何の前触れもなく話を引き戻したのは真夜だった。なんとも空気を読まない言動だが、ある意味ではありがたい。
彼女が問いかけた通り、今後どうするかはまだ、まるで定まっていないのだ。
そして、この問題は先送りにするのも難しい。冬休み中はいいとしても、ぐずぐずしていればすぐに新学期がやってくる。
「今の姿を維持する、というのも一つの道ではあるがな」
確かにその通りだが、しかしそれはただ存在するだけの、何の意味もない選択肢だ。悠人と悠奈、二つの自分をどっちも捨てきれなくて悩んでいるのに、どっちも捨ててしまうことなんてできるわけがない。
「御尾くんが悩んでるのは、悠奈ちゃんに戻るかどうか……なんだよね?」
『……うん』
端的に要約すれば、紗羅の言う通りになる。この場合、戻るという言葉は少し違うかもしれないが。
御尾悠人と羽々音悠奈。どちらが主体となる『自分』か、あらためて選び直す。
その際、どちらを選ぶべきか……俺が迷っているのはそういうことだ。
「それは、難しいお話ですねー……」
凛々子さんが溜め息まじりに呟いた。
「こうしてほしい、こうするべきだと、言うだけならいくらでも言えますけど、自分の発言に責任を持てと言われると困ってしまいます」
「……うん。私も、御尾くんにこうして、なんて言えないよ」
結局は、俺自身の心の問題だから。
他人があれこれどうこう言って、流されるまま決心しても何も解決しない。それどころかきっと状況は悪化してしまうだろう。
決めるのは俺。俺が自分で答えを出すしかない、ということ。
『紗羅。もし、それでも気持ちを教えて欲しい、って言ったら?』
ただの参考に過ぎないとしても、彼女の気持ちだけは聞いておきたい。そう思って尋ねると、紗羅は数秒考えて、
「どっちでもいいよ」
と言った。
あまりにもあっさりした回答に、思わず問い返しそうになるが、するとその前に本人が慌てたように言葉を続けた。
「適当に言ってるんじゃないよ。私は、本当にどっちでもいいの。御尾くんでも悠奈ちゃんでも、私が大事なのは『あなた』が私を見てくれていることだから」
男でも女でも、俺の思いが紗羅を向いているのならそれで構わない。もしこれが、他の誰かを好きになる話なら、全力で否定するけれど。
……と、紗羅はさすがに恥ずかしそうにしながら教えてくれた。
俺としても単純に好きと言われるよりずっと破壊力を感じて、すぐさま顔が赤くなってしまった。
『うん。それは大丈夫。紗羅のことが好きなのは変わらないよ』
「はいはい。愛の語らいなら他所でやりなさいよ」
呆れたような真夜の声。
「じゃあ、私が意見を出しましょうか? どうする『べき』って言うなら男でいるべきでしょうよ。だって、もともと男だったんだから」
『……だよな』
当然の話だ。
元あった姿に戻る。それが道理。
「って、あの女なら即答するでしょうけど」
『ん?』
「そんなの知ったことじゃないでしょ。っていうか、道理を分かった上で悩み続けてるっていうなら、答えはもう決まってるんじゃないの?」
『……あ』
指摘され、呻く。
図星をさされた気分だった。
理屈じゃ割り切れない、納得できないから悩んでいる。だとすれば、俺の気持ちは。
『……でも、今更悠奈に逆戻りするなんて』
もう「御尾悠人が生きている」ってことで話が進んでしまっているのだ。今更「やっぱり死んでました」なんて通るわけがない。
記憶操作によって情報工作は可能かもしれないけど、それが簡単にできるなら、悠人に戻った際に「記憶喪失だって言い張ろう」なんて話にはならなかった。
実質、悠奈として生きるのはもう――。
「ああ、それなら大丈夫よ」
……え?
「あんたが帰ってきたのって突然だったでしょ? だから落ち着いて状況がわかるまで、具体的な行動は取らないつもりだったの。華澄ちゃんに連絡したり、ここに来たのはそのためでもあるのよ」
家に帰ったあと、俺は殆ど寝ていただけだった。
ここまでの移動は普通に電車を使ったが、その時は知り合いに会わなかったし、外出したのはそれ一度きりだ。
『で、でも。悠奈のほうはいなくなる処理とか』
「してませんよー。悠人さんが連絡もなく失踪されたので、私たちの方も事後処理は手付かずです」
『じゃあ』
本当に、何も。
『今なら、悠奈を選んでも……?』
「いいんじゃない? あんたの事情はわかったし、今までも大事にしてもらってたみたいだし。この機会に羽々音家とも親しくさせてもらえば、たまに家に帰ってくるくらいは問題ないでしょ」
「いいですねー。最終的には主人の判断ですけど、むしろこちらからお預けするという形で、ご自宅から清華へ通っていただいてもいいですし」
母さんと凛々子さんの間でもとんとん拍子に話が進んでいく。
怪我の功名、雨降って地固まる……そんな諺じゃないが、色々あって、今ここでこうしてみんなが一堂に会しているからこそ生まれた「新しい未来」が話し合われる。
父さんと母さんは、俺が生きていることを知っていてくれる。家にも帰ろうと思えば帰れるし、家族揃って過ごすこともできる。
澪ちゃんや亜実ちゃん、清華のクラスメートたちにもまた会える。
紗羅と一緒に学校生活を送ることもできる。
ひとつひとつの思いが胸にすとんと落ちていって――それらは俺の心に、確かな変化をもたらしていった。
100回!




