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聖女の妹、『灰色女』の私  作者: ルーシャオ


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おまけ:なかよしシェプハー家の一日

 夢は、大きければ大きいほどいいものだ。


 よく晴れたある日、私はお義母様とメイド三人とともにお洗濯をしていた。


 このあたりは綺麗な水が豊富だからいいとして、手回し式の洗濯桶にしろ踏み洗いにしろ、かなりの重労働だ。病み上がりのお母様に無理をさせてはいけないと思い、私は頑張ったものの、早々にバテてしまった。


 結局、しばらく休んでいなさいと言われて若干しょんぼりしつつ、お義母様とメイドたちの洗濯風景を庭の隅っこに座って眺めていると、ニコが屋敷から手を振っていた。


 まるで人懐こい大型犬のごとく、そのままニコは走って私のもとにやってきて、持っていた本を見せながらこう言ってきた。


「姉さん、ちょっと時間はある? 本を読んでて分からないことがあったから、聞きたいことがあるんだけど」

「ええ、よろしいですよ。私に分かることであれば」

「やった。この、石鹸の実験の話なんだけど」


 石鹸、と言われても私も詳しいわけではない。


 ただ、ニコが見せてきた本のページを読んでみて、何となくオールヴァン公爵家の家庭教師に習ったことを思い出し、知るかぎりのことを答えてあげようという気になった。


 本に書かれていたのは、こんなことだった。


『ナトロンと油脂を混ぜ合わせ、しかるべき工程を踏めば石鹸ができる。ナトロンを精製するためにもっとも普及している方法は、上質なソーダと灰を風火(ふうか)の魔法で作り、混ぜ合わせるというものである。この実験は、学校でも試験としてよく使われ……』


 風火の魔法というのは我が国では工業でよく使われる魔法体系で、初歩的な風と火の魔法を同時に使用できる魔法技師は製鉄から石鹸作りまで様々な場所で重宝される。


 それだけに、平民でも風火の魔法が使える魔法技師となれば一生安泰、とさえ言われ、両方が使えなくても片方あれば日常生活が便利ということで皆が学びたがる人気の魔法体系だった。


 ただ、それだけに——我が国では、風火の魔法を使うことが前提の工業が多く、使えないと実験さえ進められない有様なのだ。


 当のニコも魔法の素質はあまりないようで、この本に書かれている実験はできそうにない。


「うーん、これは……魔法が必要な実験ですね」

「そうなんだ!?」

「一応、外国には魔法を使わない製法もあるそうです。でも、我が国では普及していませんね。他国での製法の本があれば、あるいは」

「うぅ、他の国の本だと読むの大変だなぁ。それ以前に、手に入らないよ」

「であれば、伯父様たちにお願いしてみてはいかがでしょう? 私も興味がありますから」


 そうだねー、とニコはがっかりした様子でうなだれていた。


 その気持ちは、私も十分すぎるほど分かる。この国では魔法がなければできないことが多すぎて、自分に魔法の才能がないことを実感するとき、本当に情けない気持ちになるのだ。


 私は、ニコのために何とか話題を変えようと、思いついたことを口に出してみた。


「えっと、ニコはものづくりに興味があるのですか?」

「え? あー……そうかも?」

「そういえば、アスファルトも自分で作ってみたかったのでしょう? 今度は石鹸で、もし魔法なしで作れるなら特許を取ることも夢ではありませんね」

「特許かぁ。いやいや、夢見すぎだよ、姉さん。俺はただ、売ってる石鹸が高いなぁと思っただけでさ」


 ニコはそう言うと、私に本を預けてから、洗濯桶の近くから二つの石鹸を持ってきた。


 一つは薄ピンク色の丸い石鹸、もう一つは二回りほど大きな緑の四角い石鹸だ。


「丸いのがうちの国で作られた石鹸。汚れ落ちはいいけど高いし、すぐなくなるんだ。で、こっちの四角が隣国の石鹸。汚れ落ちはそんなによくないけど、安くて長持ちするから下町じゃよく使われてる。でも、冬は水が冷たすぎて、とてもじゃないけど安い石鹸じゃ汚れが落ちないんだよ」


 ふむふむ。私は二つの石鹸をじっと見つめてみた。


 見た目は形と色が違うものの、同じ石鹸であることは間違いない。なのに、その使い方や保ちは全然違う。なかなか、不思議な話だ。


 すると、私はふと、オールヴァン公爵邸で使っていた石鹸のことを思い出した。


 屋敷の風呂場には、いくつもの香りのする石鹸が用意されていた。頭髪、顔、体、足の裏まで使う石鹸が異なり、離れに住みはじめてから私は初めて石鹸の説明書を読んで、その使い分け方を知った、ということがあった。


 その記憶を辿ると、石鹸の違いは確か、こうだ。


「ニコ」

「何?」

「以前、屋敷で石鹸をいくつか使っていて、それぞれの説明書を読んだことがあります。確か、油分が多ければ肌がしっとりして、石鹸分が多ければ汚れ落ちがよくなる……と書いてあったかと」


 石鹸は、簡単に言えば、ナトロンと油脂を混ぜてできるものだ。


 今、ニコが持っている二つの石鹸も、オールヴァン公爵邸で使っていた石鹸たちも、きっとそれぞれナトロンと油脂の割合が違う。作り方や素材の品質の違いもあるだろうが、そもそもはそこが明確な違いなのだ。


 そう言い終えてからニコを見上げると、ぱあっと顔が輝いていた。


「姉さんすごい! 石鹸のことまで分かるんだ!」

「い、いえ、それはただ、説明書を読んだことがあるだけですから」

「だって、そんなの学校の先生に聞いたって分かんないよ、これ! よし、ちょっと魔法なしで作ってみよっと!」

「あ、ニコ、石鹸作りは危険な材料もあるそうですから、くれぐれも気をつけて」

「分かってるってー!」


 ニコは石鹸を放って戻すと、私の手から返した本を片手に、どこかへ走り去っていった。


 元気な義弟の背中はすぐに見えなくなり、その様子を見ていた洗い場のお義母様がくすくすと笑っている。


「元気ねぇ、ニコ。最近じゃ食べる量が私の何倍にもなったのよ」

「アイメル様もたくさんお召し上がりになりますものね」

「そうなのよ〜。本当、食費が馬鹿にならないどころか、味より量だから作り甲斐がないわ。いつでもジャガイモを蒸して潰して塩胡椒してお皿にどーん、だもの」


 それを聞いて、私もメイドたちも揃って苦笑いだ。


 基本的に、アイメル様は朝晩の食事を屋敷で済ませる。昼は王城騎士団のほうでいただくらしい。


 その朝の食事にしたって、パンは山盛り、具材たっぷりスープ、大きな肉、そういうものを好んで召し上がる。味よりも量が第一で、私の何倍も食べてけろりとして、愛馬ドンケル夫人に跨り仕事へ出かける。


 夜も似たようなもので、アイメル様は朝よりもたくさん食べ、自主鍛錬として外で剣を振ったりと運動をして、ときに夜食まで平らげてしまう。


(そういえば、この屋敷にあるお鍋は全部大きい寸胴鍋(ずんどうなべ)ばかりよね。小柄なお義母様が持ち上げるのも大変そうなほどの……毎日毎日あれを使って、アイメル様やニコを育て上げたなんて、本当に頭の下がる思いだわ)


 しみじみ、私はそう思う。私はその寸胴鍋を持ち上げることに何度失敗したことか。


 そんなお義母様の悩みは、食事を作る量ではなく、やはり種類だった。


「何か変わり種で、安くて大量に作れる美味しいもの、なんてないかしら。そんな都合のいいものがあれば、少しは私もお料理を楽しめるのに」

「そうですね。では……もし抵抗がなければ、バックウィート、なんてどうでしょう?」

「バック……何?」

「黒麦やブナ麦という名称の地域もあると聞きますが、その、ソバの実のことで——」


 ひょっとすると嫌いかもしれない、そう思った私の心配は、杞憂だった。


 ソバの実(バックウィート)と聞いて、お義母様は首を傾げている。


「うーん、どんなものかしら? 王都でも手に入るもの?」

「おそらくは。今度、お買い物のときに試しに一袋だけ買ってまいりますね」

「分かったわ、お願いね! 楽しみだわ〜、どんな料理ができるかしら」


 私はほっと一安心して、心の中の買い物メモにバックウィートを追加した。


(バックウィートは、寒い地域だと『貧しい民の食べ物』なんて言われたりするけれど……あれはあれで滋味があるというものよね、多分。よし、調理法も調べましょう)


 バックウィート料理の自慢はお国が知れる、というが、そのことはこの際忘れておこう。


 次の週、私は早速王都の商店にバックウィート一袋を注文し、届いたものを見てお義母様のお顔がニコのように輝いていたのをしっかり目撃した。買ってよかった。


 ついでに、商店でバックウィートの料理の仕方を聞いてきたので、私はお義母様と一緒に初めて厨房に立ち、立ち塞がる寸胴鍋と格闘しながらあれやこれやと煮炊きし——そして。






 ドンケル夫人のいななきが、まるで玄関のベルのようにアイメル様の帰宅を屋敷中に知らせる。


「おかえりなさいませ。こちらへ」

「え?」


 私はエントランスで待ち構え、帰ってきたアイメル様への挨拶もそこそこに、腕を引っ張って食堂へ連れていく。


 食堂のテーブルの上には、総勢十種類ものバックウィート料理がどんと並び、鍋ごと配置された付け合わせのトマトソースやメープルシロップが今か今かと出番を待っている。


 喜色満面のお義母様が、バックウィート料理に挑戦したのだ、とアイメル様へ簡単に説明し、手早くアイメル様を席に着かせた。


「そういうわけで、色々作ったのよ。食べてちょうだいな!」


 大変笑顔のお義母様は、すでに黙々と片っ端から食べ尽くそうとしているニコの皿へおかわりを投入していた。


 一方、怪訝な表情のアイメル様は、目の前のバックウィート料理に目を丸くしている。


「ソバの実の……粥?」

「ガレットもありますよ。それから麺も」

「麺?」

「パスタです。パンケーキもどうぞ」


 全体的に若干黒っぽい色合いをしているが、それはそれ。


 お義母様の横で味見している私は、それらが美味しいと知っている。


 しかし、その前にやらなければならないことがあった。


「あ、その前に。ソバ茶を少し飲んだあと、待ってください」

「え?」

「ソバの実は、たまに受け付けない体質の人がいるそうなので……お義母様とニコは大丈夫でしたけれど、念のため」

「は、はあ。なるほど」


 私はティーポットからバックウィートを炒って煮出したお茶をアイメル様のカップに注ぐ。


 アイメル様は文句の一つも言わず、粛々とお茶を一口飲み、食べる勢いが増してきたニコを眺めていたので、私はそっと別に用意していた料理をお出しする。


「その間、ただ待つのも何ですから、こちらのピラフをお召し上がりください」

「それはありがた……量が、多くないですか?」

「いえ、いつもアイメル様は最終的にこのくらい召し上がってしまわれますから、大丈夫ですよ」

「そうですか!? こんなに!?」


 アイメル様は再度目を丸くしているが、確かにちょっと多かったかもしれない。


 私の顔よりも大きな平皿に、威圧感まで覚える山盛りのピラフ。


 それは十分と経たずにアイメル様の胃袋へ消え、待ちきれなくなったアイメル様はついに冷めつつあるバックウィート料理へとフォークを進めたのだった。


 結論から言えば、その日用意したバックウィート料理は、一晩で跡形もなく消えてしまった。


 ただ、アイメル様は食後にこう言い残した。


「美味かったが、ちょっと飽きるかもしれない……」


 食べ慣れない味は、すぐには受け付けられないだろう。それでも出てきた料理をすべて食べ尽くしたあたり、アイメル様とニコの食欲は侮れない。


 新しい料理ができてお義母様も満足したことだし、しばらくバックウィート料理は出さなくていいだろう。


 あと、私はソバ茶が気に入ったので、普段飲むハーブティーのリストに加え、定期的に購入するようになった。





 それから半月ほど経ったある日、王城騎士団長であるレオナルド第二王子殿下が、私の復讐計画の諸々でシェプハー家の屋敷へ内密に訪れた際、こんなことを私へ告げた。


「あー……シェプハー夫人、もしアイメルの副団長としての給料が足りないということであれば、もう少し増やすよう手配するが、どうだろうか」


 アイメル様不在の最中、質問の意図が分からない私は首を傾げる。


「なぜそのようなことをおっしゃるのです?」

「ソバの実料理の話を聞いてな」

「ああ、あれは風変わりで安く大量に作れる料理を探していただけですので、ご心配には及びませんわ。今ではほら、小さいながらも鶏舎を新設しましたので」

「いや、だからやはり倹約したいのではないかと」

「違います。でも、そのうち牛舎も欲しいと思います」

「待て、さすがにそれはどうかと」

「これだけ広大な草原があるので、牧場を建てたいと思いはじめました」

「分かった、分かったから! アイメルに、たまに王城で手に入る変わり種の食材を渡す。それで楽しんでくれ」

「よろしいのですか? ありがとうございます、義母が喜びます」

「その代わり、牧場の計画は止めておいてほしい。アイメルのことだ、副業があれば騎士をいつ辞めてもいいなどと言い出しかねん」


 第二王子殿下のご懸念は、割と的を射ていたところが何ともおかしい。アイメル様は家族のためなら騎士にこだわらなくてもいい方だし、第二王子殿下がそれを心配して私に相談してきたあたり思わず笑いが込み上げてくる。


 バックウィート料理はそれきりだが、私はこのことをアイメル様にあとで話そう、と密かに決めたのだった。

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