小田原征伐
伊達政宗を米沢に押し込んだ佐竹家は順調に南奥州の支配を固めていった。その一方で豊臣秀吉とも使者や贈り物を欠かさず、関係改善に心がけるようにしていた。
その後の小牧長久手の戦いの後では徳川家康と豊臣秀吉の関係修復にも天海様の伝手などをあって努め、徳川家康公の信頼も得ることに成功したのである。…多分関東に来たら隣り合わせになると思うし。
そうして北条にとっては史実と違って伊達も徳川も全く頼りにならない状況で小田原征伐が始まったのだ。
俺は手子生で楽隠居状態だった小田氏治様に声をかけた。
「お館様。今こそが好機です。」
「お主がお館様と呼ぶのは久しぶりだな。ここは佐竹の城を乗っ取って北条に味方して名を挙げるか。」
「そんなことをしたら当家滅亡です。(って実際にはこの人それやっちゃっているんだけど)今こそ関白様の陣に参陣するのです!」
佐竹義重公が北関東の北条方の諸城を攻撃している一方で、俺やホムセンのみんなは装備をひっつかんで小田氏治様を引っ立て、北条の領地をすり抜けると(上野から信濃周りだとほぼ通らずすんだ)駿河に着陣していた関白殿下の軍勢にたどり着いた。
そこで天海様の書状を伝手に徳川家康様に挨拶をし、関白殿下の軍勢に加わる口添えをもらった。
「そちが典薬か。天海殿から面白い男だと聞いている。」
それからは薬マニアの家康様に俺が医療関係、というのが気になったのか一通り話し込んだ。柔和に見えながら肝の凄い座り方はさすが大権現様だ。一晩家康様の陣でお世話になり、翌日関白殿下にご挨拶、ということになり、俺はガクガグブルブルで御前で挨拶をする。ラスボス怖い。
関白殿下から見たら関東の木っ端豪族を家康様の口添えで入れてあげているだけだからあまり突っ込まれずに良い良い、と認めてもらえたようだ。そして俺たちは中村一氏殿の軍勢に加わるように命ぜられた。
中村一氏殿の陣に行くと…そこにいたのはホムセンを飛び出していった中村君だった。
「中村君!君が一氏だったのか。」
「お、懐かしい。相馬センセじゃないですか。お互い歳とっちゃって。」
「無事で何より…っていつのまにやらすごい出世じゃないですか。」
「いやぁ、東海まで下った時にね、この弟に出会いまして。」
と『弟』中村一栄を紹介する。
「弟は甲賀の抜け忍なんですよ。同じ中村なんで兄弟分になりまして。二人で盗賊退治とかして秀吉様の家来に潜り込んだ、と。」
「それはすごい。」
「でね、俺「この人豊臣秀吉だ」と思ったから落ち込んだら「藤吉郎さんなら絶対できます!」と励まし続けたんす。壁塗り命じられたら班を分割して競争してみたら?とかプレハブ方式で美濃に砦作りましょう!とか」
…て太閤記の逸話中村くんがそそのかしたんかい。
「そしたらやっぱり秀吉様なんで、まぁ、関白まで上り詰めてくれたんす。俺も大名になったんでまあ天下は取ってないけどまずまずビッグになれたかな、と。」
「うん。すごくビッグになれていると思うよ。」
「相馬センセにそう言ってもらえるとやってきたかいがあるっす。で、今回は陣借りですか。」
「そうそう。この小田氏治様のリベンジに、と思って。」
「ホムセンのみんなのためなら歓迎っす。ところで箱根の山中城を攻める事になっているんすが。土塁が泥でヌルヌルで容易に上がれないのが困っているんす。」
「ジャーン。」
と俺が取り出したのは…アイゼンだ。
「お、アウトドア用品にそんなのあったんすね。」
「そうそう。これならば…」
「いけそうすね。」
そうして足にアイゼンを取り付けた小田氏治様+ホムセンWith中村一氏隊は山中城攻略で滑りやすい土塁を物ともせず駆け上がって塀の中に手榴弾(元栗林義長氏献上)をばら撒きまくり、指揮官は栗林義長氏が狙撃したのを氏治様がとどめを刺しまくって…一番槍やらなんやらで山中城落城で大手柄を挙げたのだ。
小田原着陣後、俺達は関東勢ということで忍城の攻略を命じられた。
そこでは水攻めのために土塁を作らなければならなかったのだが…俺達は土嚢をつくってガンガンと頑丈な堤を建設してしまった。こうなったらここが最後のチャンスだろう、とホムセンから重機も投入して鉄板などで補強して弱そうな所を本格的に築堤してしまったのである。
…その結果史実では大雨で崩れた堤も崩れず、水攻めは見事に発動して忍城は大部分が沈んでしまった。
その上「幻影騎士団」とか悪ノリにして名乗った俺達は忍城の大手門を火炎放射器とガソリンで焼き払い、史実では小田原よりも後で開城した忍城を降伏に追い込んでしまったのだ。
…本来石田三成の箔付けにやらされた、というこの忍城攻め、俺たちがどんどんやってしまったので石田三成はなんというか、影が薄くなってしまった。そのため『独断専行』とかえって讒言されてしまったのだが、そこを止めてくれたのは目付の浅野長吉(長政)様だった。
戦後、小田氏治様は山中城攻めの功績が認められて小田1万石に封じられた。俺たちは功績を氏治様に、と頭を低くし続けたので4000石ほどが本貫と認められたのであった。
こうして小田氏治公はついに大名に復帰することに成功したのだ。




