相馬典薬、手子生城から逃れる
総大将の佐竹義重本人が馬廻を引き連れて多賀谷重経と手子生城へ向かっている、との報を受けて俺は手子生城の面々と対策を話し合うことにした。
「…ここは籠城か…」
「と言っても我らはせいぜい300、佐竹勢は多賀谷と合わせて8000にもなろうか、という勢いだぞ。」
と議論がまとまらない。これで相手が今川義元と決まっていたら田楽狭間で突撃もありだろうが、ここは常陸で相手は佐竹義重だ。
すると相談している御殿の広間の梁の上から声がした。
「旦那、状況さらに変わってますぜ。」
と梁の上で決めポーズの腕組みをして立つ飛加藤さん。久しぶりにポーズが決まったらしい。
「海老ヶ島城には赤松様が入っていたんですが、そこに現れたのは真壁父子、太田父子に加えて佐竹義重の本隊。」
「え?そっちに行ってたの?」
「数の暴力に海老ヶ島城は落ち、赤松様はなんとか小田城に落ちましたぜ。それで佐竹義重は海老ヶ島城に梶原政景を置き、残りの大部分の部隊を率いて若森城に着陣。そこに多賀谷政経を梶原政景とともに小田城に対する備えとして残りをあらかた引き連れてこの手子生目指してますぜ。明日には着くでしょう。」
「…で、その数は?」
「1万乃至1万2千。」
…佐竹合計で2万を超える軍を動員しているのかよ。北はがら空きだぜ、と陸奥の相馬や北条に知らせたいぐらい。とは言え
「300で立て籠もっていてもみすみす討ち死にだな。なんでそんな佐竹でも最大の部隊をこちらにさし向けてきているっていうんだ!」
…俺達が出した結論は、『手子生城は放棄してホムセン(穂羣)に立て籠もる。』だった。
あちらのほうがホムセンの皆もいるし、人手も必要なはずだ。
俺は素早く命を発して一族妻子郎党引き連れてホムセンに向かうように指示した。俺たちは持っていける範囲で武具などを持ち出し、とにかく置いていけるものは置いていって(鶏とか家鴨とか)大急ぎでホムセンに向かって出発した。
俺たちが出発してしばらくしてホムセンの門が見えてきた…鉄骨で櫓を組んでいて上川には鉄板を張り巡らし、ちょっとした要塞の様である。開門してもらい、ホムセン要塞の中に入りながら振り返ると、手子生城の方で鬨の声と火の手が上がっていた。
…ここで解説しよう。なぜ一族郎党、住人まで含めて逃げ出してきた手子生城で時の声が上がり、火の手が上がっているのかを。
それは少数の決死隊が防戦しているためであろうか。いや違うのだ。
俺たちは大急ぎで出発する時に、リアカーカチューシャモドキに長ーい導火線と時限装置を付けて佐竹の部隊が到着したぐらいのタイミングで適当に発射するようにしておいたのだ。手子生城に迫った佐竹の部隊に、適当にロケット団、だとニャースが出てきてしまう。ロケット弾が降り注ぐ。「敵襲か!」と当然なると思うが、その時残しておいた特大スピーカーから適当なサッカー国際試合の応援の様子と花火大会の音声で爆裂音が定期的に鳴り響くようにしたのだ。
様子を見ていて後で戻ってきた飛加藤さんによれば(佐竹の兵に誰何されたらしいが、地元の老人に化け通したらしい)最初ロケット弾が振ってきた時点で応戦体制になり、手子生を取り囲む佐竹軍。城の土塁を登ろうとすると仕掛けておいた対人地雷が爆発し、それとともに中から数千人はいそうな鬨の声と太鼓が鳴り響く。さらには爆裂音が次々と響いてくる事態に軍勢を立て直し、包囲をしっかり固める佐竹義重。
「まぁ混乱を収拾して兵をまとめる姿はさすが総大将、でしたな。ありゃ武田信玄や上杉輝虎にも劣りますまい。」
とは飛加藤さんの言だ。
とにかく無人の手子生城が自動的に反応する音や罠に佐竹はすっかり手子生城に兵が籠もっている、と思い、腰を据えて攻城戦をしかけたのであった。
そのため、実はまともに反撃してきていないことに気づいて城の門を破り、手子生城に佐竹の兵が入ったのは夕刻になってからだったと言う。
「いや、物見櫓の俺専用のこっそり見られる場所から見ていたんですが、誰もいない、と知った時の佐竹義重の『やられた!』という顔は見ものでしたぜ。」
このようにして俺たちは無人の手子生城に佐竹の軍勢をおびき寄せ、時間を稼いでホムセンに逃れることに成功したのであった。
後にこの戦いは『手子生の空城の計』と言われリアル空城の計を戦国の世で行ったのは東照大権現徳川家康様と俺たちホムセン衆、ということになったのであった。




