佐竹義重、全軍を挙げて南常陸へ出陣する
天正元年(1573年)秋になった。この年は武田信玄が死んだり小谷城が落城して浅井氏が滅亡したりと西の方でも結構大きな動きが多かった年だ。
今年も米や芋、野菜などなど収穫に喜んでいた俺達であったが、多賀谷政経・重経親子は谷田部城と若森城の支配を着々と進めており、小田城との連絡を取るには無線か忍びを使って書を運ばせるしかなくなってきていた。
多賀谷が積極的に攻勢に出てくることはなかったが、俺たち手子生・ホムセンは周囲を取り囲まれつつあったのだ。
そんなある日、忍びの頭(上忍に当たるのは『飛加藤』加藤段蔵さんだが歳なので実働部隊ということで)太田角兵衛さんが手子生の御殿に駆け込んできた。
「相馬の旦那!敵が来ますぜ!」
「敵というと多賀谷か?」
「そ、それが。」
角兵衛さんの配下の報告と小田に無線で天羽源鉄先生に連絡をとってみた結果は恐ろしいものだった。俺たちは先年、各拠点に無線を配備してネットワークを作ったのだが、多賀谷が若森城を支配するようになってからはそれぞれの城にメンテナンスのためにホムセンのメンバーを回すわけには行かなくなり、機械の故障(水濡れとか)大風でアンテナが倒壊などして今使えるのは手子生/ホムセンと小田城、土浦城ぐらいになっていたのだ。
その結果はわかったのは『佐竹義重は乾坤一擲の大勝負に出ている』事だった。
佐竹は白河結城を佐竹から出奔した和田昭為を返り忠させることで支配し、今のいわき市辺りを支配する岩城氏も養子縁組で事実上傘下に収めたのは以前も書いた。岩城の北方の相馬氏…こちらのほうが有名な戦国大名の相馬氏とはのっぴきならない関係にあったから、北の守りを全く放置する、というわけには行かなかったのだが、それでも白河結城は和田昭為に、そして岩城にはあの名作『雪の峠』であえなく佐竹義宣(義重の次の代)の命で梅津憲忠兄弟に討たれてしまった家老の川井忠遠をおいた。
雪の峠では頑迷なやられ役だったが川井忠遠は武勇に優れ、陸奥の国境に近い赤館城の城代を努めていた身である。
ひとまず陸奥の情勢は落ち着いており、その二人に任せれば変事はなかろうとの判断で、佐竹義重はその動員できる全軍を持って小田の制圧に出陣したようなのである。
「…今回は小田城を落とすのではないのか?」
俺は各所の報告をざっと地図にコマを並べて疑問に思った。野球軍団の乱馬さんと稲見薬局長が手子生にいたので一緒に考える。
「どうも佐竹は今回は『小田城以外全部を一斉攻撃』という手段に出たようですね。」
と稲見さん。
そう、佐竹の大軍は『小田城を除いた』主要な拠点へ向かっていた。
最大の都市にして、商業/流通の中心であり、いつも小田城が落ちた時に小田氏治様が逃げ込む()先の土浦城には先に落とされた木田余に集結した佐竹義久が率いる水戸の江戸氏と江戸氏の傘下の行方三十三館の諸氏と大掾氏を加えた約10000。
その別働隊として佐竹重臣小貫頼久率いる3000が土浦と小田の間にあり、その双方がやられた時に逃げ込む藤沢城に。
北の海老ヶ島城には太田資正・梶原政景親子と真壁久幹、氏幹親子が率いる5000。
そしてここ、西に位置する手子生を目指しているのは多賀谷政経、重経父子だという。
「多賀谷が全力を上げているとすると3000は越えるかな?谷田部にも押さえはおいているだろうし。」
「それが旦那、どうも多賀谷だけではない様子で。」
と忍頭の太田角兵衛さんがいう。
「というと?」
「今の陣立て、誰か抜けていませんか?」
「え、総大将の佐竹義重は確かに入ってないけど、全軍の監督とかで府中とか真壁にいるのではないの?」
「それがですな。」
と飛加藤さんが部屋に入ってくる。
「佐竹義重、馬廻5000を率いて多賀谷とともにこの手子生へ向かってますぞ。」
マジか。しかしなんでこう『小田以外全部攻撃なのだ』?
しかもあの『鬼義重』が自ら直卒してこの手子生を攻めると言う。
意味わかんなーい。行くなら土浦とか攻めて。(ごめん菅谷様)




