そしてグレートホムセンが戦国にきて10年がたった。
小田城の新年連歌会に来襲した梶原政景の軍勢を『祝砲だ!』などと言いながら発砲して追い払った俺たちは祝勝飲み直し大会を開いた後(考えたらこの時に梶原勢が出直してきていたら危険だった(汗)氏治様から
「此度の戦は相馬の活躍が大きい!手子生の預かりの取り分から知行を千貫とする!」
と仰せつかった。石高に治すとざっくり2000石だ。1000石を越えているのはこの時代、結構な重臣である。(そりゃ大名と言えば10000石以上だけどね。)
まあ城主の天羽源鉄先生はほぼ小田城に詰めっきりで時代劇の『小言を言う家老』役に徹していて手子生を実質預かっているのでこれまでと余り変わりはないのだけどね。
直接の取り分が増えたので、懐かしの最初にお世話になったホムセンの近くの村の飯田村長が俺の組下、ということになったりした。
今回は天羽源鉄先生や織部君たち小田城詰めの面々も一旦城を辞してホムセンに向かった。というのも今年はグレートホムセンがこの戦国の世に来てから10年になるのだ。
ホムセンに集まった俺達は稲見薬局長謹製の焼酎を開けながら、今までの流れを振り返った。
「…いつの間にやらこちらに来て10年になりますね…。」
と俺が言うと真田店長は
「もうそれほどになるか。私もすっかり50代後半に。天羽先生は60も過ぎましたか?」
「なんだかあくせくしているうちに還暦になりました。」
と頭をかく天羽先生。
「先生はすっかり小田の家老として家臣の方々の不満を氏治様に伝え、また暴走を防いで重臣の皆様にも頼りにされてますなぁ。」
「それもこれも織部君や豊島くんが相談に乗ってくれているからです。君たちも30代になりましたね。そろそろ小田家のどなたから縁談でも持っていきましょうか?」
と言う天羽先生に、二人はいやいや、という調子で手をふる。
「縁談と言えば相馬先生は現地で二人も娶って羨ましいやら。だいたいホムセンの人々は現代人同士でくっついたり近辺の村の人と結婚しましたから武家の娘もらったのは相馬先生ぐらいですからな。」
と真田店長はカラカラと笑う。当の本人はバイトリーダーをしていたお姉さんと結婚して子供も育てているから俺と余り変わらない気がするが。
「幸いホムセンにいた人も怪我人こそ出ましたが死人は出てないですね…」
「そう。10年死者なしで来たのは大きな成果だと思うのです。」
と稲見薬局長。
「いなくなったと言えば上杉家に雇われて鬼小島となった小島くんと、来たばかりの時に出ていった中村くんぐらいですね。小島くんは元気なようですが中村くんはどうしたんでしょうね…」
と戦国オタ豊島くんは仲間を懐かしむ。
「元気だと良いのですが…」
と皆でしんみりした。当の俺も10年経ってもう40手前になったけど、生き延びられたのは良いことだ。
「ではこれからもホムセンメンバーの生き残りを祈念して。」
「「乾杯」」
と皆で杯を合わせた。
豊島くんたちとも知識を出し合ってこれからの問題点は『手這坂の戦い』にある、という結論になった。おこった年は1569年説と1573年説があるが、今の所この1571年になるまで起きてないからあるとすれば1573年では?という結論になった。
手這坂の戦い、というのは小田城から見ると筑波山の裏側にある太田資正の居城、片野城を攻めるべく小田氏治公が出陣したところ、山の向こうの手這坂というところで真壁の鉄砲隊の待ち伏せに合った、という合戦だ。それまで鉄砲をしらなかった小田勢は混乱して壊乱、小田城へ逃げ戻ろうとする。しかし山の向こうで戦っている間に太田資正の次男(長男は北条に属してすでに討ち死にしている)毎度おなじみ梶原政景が小田の兵に化けて
「殿の帰還じゃ、開門。」
と命じた所安安と門を開かれて小田城が落城、その後小田氏治は小田城を取り返すことがなかった、という戦いなのである。
要はこの戦いに負けると小田家は小田城を取り戻せない、という事なのだ。
「もう少し時間の余裕はありそうですが…」
と織部くんが言い出し、俺達は来る手這坂の戦いに向けて色々と頭をひねることにしたのだった。
しかし史実の想定される手這坂の戦いとは俺たちが来てからの流れは少し違っていることが予想される。
というのは、まず本来の手這坂の戦いは筑波山の地域で鉄砲が使われた最初の戦いだったはずなのだが、俺たちが火砲を持ち込んでから小田もすでに100丁を越える鉄砲(ホムセン謹製のでなくて本来のこの時代の火縄銃)を装備していた。それと交戦した事もあって多賀谷を始めとした結城勢や、佐竹配下の武将など周辺の諸勢力も財力をつぎ込んで鉄砲を装備している様になった。俺が上杉輝虎の軍勢を野戦陣地の塹壕構築でしのいだのもあって、今や常陸の戦いはある意味第一次世界大戦チックな塹壕から打ち合って、大砲は流石にないので小田家は迫撃砲もどき、他家は熱した石やあれば爆裂弾をカタパルトで打ち出す(うちの投石機が鹵獲されて広まってしまった)戦いが主体になりつつあったのである。
故に『小田勢が鉄砲(史実じゃたった2丁だった。)に驚いて壊乱。』ということはありえない状況になっているのだ。
次に『小田の本隊を誘い出している間に本城を突く』作戦もこれは逆に失敗例だが俺たちが大掾攻めに釣り出されているうちに上杉輝虎に小田城を攻められて陥落した事があった。
その時小田城外郭は破却させられて今もあの全盛期の見事な星型稜堡は取り戻せてないのだが(一応それなりには戻した。)流石の小田家でも『本隊を釣りだされたうちに小田城を攻撃される』のは痛いほど思い知ったので、普段から警戒するようになっているのである。
とは言え、何を企んでくるかはわからないのが太田資正である。小田城の隣の北条城から梶原政景を追い出したとは言え、どこで元の話に戻ってくるかわからない。
という訳で天羽源鉄先生は小田氏治様に奏上し、手這坂の地に予め城を建ててしまったのだ。簡単な城というより砦に近いものだけど。それと小田城の裏手の宝篋山の山城を多少なりとも拡張し、北条の裏山の多気山城も拡張(ここは史実では佐竹が小田攻めのために大規模な山城を構築していた場所)し、筑波山の稜線に沿っての山城のネットワークを強化したのである。これも金を出せたのは芋焼酎の売上のおかげ。マジ。労働する皆さんにも酒を振る舞ったら絶賛で人集まったし。
1571年から1572年にかけてはその様な小田城を中心とした防御のネットワークの構築に俺たちはかまけていた。そして年は1573年、足利義昭が決めた『元亀』の年号を嫌って織田信長が『天正』と改めた元年になったのである。そろそろ中央の動きもヤバそうだが今はそれどころではない。




