太田資正、片野城に入る
滝夜叉姫は名目上は出自を明かせぬやんごとなき姫君なので、立場的には我が家の居候扱いとなった。
そして俺はさくらさんといつまでもあやふやな関係というわけにも行かず、式を挙げて結婚した。
小田氏治様は
「結婚の祝いと居候の分じゃ!」
と100貫ほど加増してくだったりしたので俺は色々加わり都合500貫の所領となった。
わかりやすく石高に治すと1000石ほどである。結構な立場だ。
ホムセンのみんなはホムセンと手子生城、小田城に太陽電池パネルと大型モバイルバッテリー、そしてパソコンなどを配置した。天羽源鉄先生は手子生城主を勤めているが、
小田氏治様の諮問を受けるためにほぼ小田城に詰めっぱなしになっていた。
天羽源鉄先生は郷土学者なので、実際に軍略を立てる参謀役としては軍事・謀略に詳しい織部くんと戦国時代に詳しい豊島くんが天羽源鉄先生に付き従っていた。
小田城の本丸には元々優雅な水の流れる庭園があったが、そこを半分ぐらい埋めたててホムセンからプレハブの部屋を持ち込み、屋上に太陽光パネルを設置し、中にノートパソコンやプロジェクターを設置していわば小田家のCICと呼ぶべき施設を作った。
それから土浦城などの重要な城郭には売り場のラジオをバラすなどして無線機とアンテナを設置し、各城の間で即座に連絡を取れるようにしたのである。更には伝令がしやすいようにマウンテンバイクが走れるぐらいには街道も整備を進めていった。
滝夜叉姫が我が家にやってきてから2年の時がたった。俺とさくらさんの間には子供が生まれて、実母のさくらさんと家宰気取りの姫の間で争論が行われた結果…滝桜丸と名付けられた。我が子ながらなんという妥協した名前だ。
上杉輝虎を野戦で退けた小田家の武名は関東のみならず、全国に轟いていた。あの武田信玄が友誼の使者を送ってきたほどであった。その高名と俺たちの持ち込んだ機材により小田家は飛躍を遂げて…いなかったのである。
それは北条家に岩槻城を追い出され、昨年父義昭の死去に伴い家督を継いだ佐竹義重に仕えるようになった太田資正のせいであった。
資正は佐竹家に仕えると、水戸の江戸氏から伝手をつなげて真壁城主のあの『鬼真壁』真壁久幹を取り込んだ。岩槻から救い出した息子の梶原政景の嫁に真壁久幹の娘を娶ったのである。そして佐竹・江戸・真壁の支援を受けて小田の領地である片野城を攻略してその城主となったのであった。
ここで無線やCICなど情報線を戦う準備をしていたのに、なぜ安々と片野城を太田資正に取られたかと言うと、それは片野の位置にあった。
片野城は小田の領地から見ると北端にあたり、ちょうど小田の本城から見ると筑波山を挟んだ反対側にあるのだ。むしろ佐竹配下(半独立だが)の江戸氏の水戸城や、江戸氏よりももっと服従してないとはいっても一応佐竹の洞中に属するようになった府中(現石岡市)の大掾氏の方がずっと近く、交通の便もよいのである。
小田氏治公の父、政治公の時代は真壁氏も小田家に服属しており、ちょうど筑波山を囲んでぐるっと一周全てが小田領であった。
しかし北西側の真壁氏は結城氏から佐竹氏へとその所属を変え、片野へ主力を送るには筑波山を越えるか、土浦を通らなければ兵も遅れないようになっていたのである。
天羽源鉄先生(と参謀グループ)はこの際、土浦から木田余に防衛ラインを引き、筑波山の裏側を積極的に攻略するのは避けるように進言した。しかしそれで納得しないのが小田氏治様なのだ。父政治公の全盛期の再現を夢見て太田資正に奪われた片野のみならず府中の大掾氏も下すことにご執心なのである。俺から言わせるとその割には政治様時代には洞中だった真壁氏や多賀谷氏を従えようとはしないのだが…まぁ両者を従えていた結城氏自体を屈服させようと何度か攻めかかっていたので(当然敗北した)結城もろとも従えよう、という考えだったのかもしれない。
「くそっ!またドローンが落とされた!」
小田城のCICでドローンに偵察させていた稲見薬局長が毒づく。
「ドローンが飛んでいると動きが読み取られる、と太田資正に看破されてしまいましたね。」
俺は稲見薬局長に話しかけた。
「これで残りは後2機だけだ…虎の子の4Kドローンはもう出せないな。」
そう、太田資正は小田との戦いでドローンが飛んでいることが多いことに気づいてしまったのだ。そしてそれがいると軍勢の動きを見破られることも。
資正は兵にドローンを見つけ次第射よ、と命じたようで迂闊に低空で飛んだドローンが次々に撃ち落とされてしまっていたのである。
「ドローンを偵察に使うのは一旦止めましょう。」
「そうなると伏兵がやっかいなんだよな…」
俺たちは頭を抱えることが多くなった。太田資正をなんとかしないと。




