矜持
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「ミナせんせー」
夕食の準備をしていたら、4人の子どもたちがキッチンにやって来た。
「コラ。ここは危ないから、入る前に先生に声をかけてからってお約束でしょ」
「ごめんなさーい」
しゅん、と項垂れる姿に反省の色が見て取れて、私は怒りを収めた。そして、作業を中断して彼らに目線を合わせるようにしゃがむ。
「それで、どうしたの?」
「あのね、アリスおねーちゃんが、来たよ!」
「まあ!」
その言葉に私は驚いて、つい大きな声を出してしまった。その反応に、子どもたちもまた驚いたような表情をそれぞれ浮かべている。
「領……じゃなかった、アリス様が!?大変!!」
お茶の準備を……と思ったけれども、あいにく茶葉は切れている。今すぐ買いに行くのは間に合わないし、そもそも次お金が入ってくるまで節約中だ。
「と、とにかく出迎えに行かないと……」
「ごめんください」
ターニャさんのお声が聞こえて、私は玄関へと走る。あの方々にとって、はしたない真似だと言うのは理解しているけれども、それより待たせる方が失礼だと思って。
「い、いらっしゃいませ……アイ……いえ、アリス様。ターニャ様」
僅かな距離だったのに、全力疾走と緊張感からか息も絶え絶えだ。
ふと、アイリス様の姿に違和感を感じる。私の記憶にある御姿よりも、お痩せになられた気がした。肌も、白を通り越して透き通っているよう。
「そんなに畏まらないで、ミナ。私は、友達のところに遊びに来た、ただの女の子」
私が訝しんでいると、アイリス様からそんなお言葉をかけられた。その言葉に、私は我に返る。
「……友達、ですか?」
「あら……ねえ、皆?」
「あー!アリスおねえちゃんだ!きょうはどうしたの?」
「ねえねえ、わたしほんをよめるようになったのよ!」
「きょうはぼくとあそぶやくそく!」
子どもたちが、わらわらと彼女に集まっては次々に声をかける。
それに迷惑がるどころか、アイリス様は嬉しそうに微笑んでいらっしゃった。
「ふふふ……確かに、この前約束したものね。じゃあ、今日は新しい遊びをしてから本の読み合いっこをしましょうか」
わーい!!と言って、子どもたちは彼女の手を引っ張って進んでいく。
こ、こら……その方にそんな……という言葉が出かかったけれども、すんでのところで止めた。
彼女が貴族様で、領主代行の地位にいることは、彼らに秘密なのだ……いきなり彼女にそのような畏れ多いことを止めなさいと言っても、理由を伝えられないのだから彼らは納得しないだろう。
「ミナ、私にとってこの子達も貴女も大切な友人なのよ?だから、そんな反応されてしまうと悲しいわ。……というわけで、お邪魔します」
そう、私のそばを通りがかかる時に戯けたように言って、彼女は中に入って行った。
アイリス様は、子どもたちと“ドロケイ”なるものをして、走り回っている。
貴族様が……と私は半ば驚きつつ、その様を眺めていた。隣では、侍女様が同じようにその光景を見守っている。その表情は、少し呆れたような、けれども微笑ましく眺めているような。
「あー捕まっちゃった」
アイリス様の声が聞こえて、視線をそちらに戻す。彼女は、朗らかに……心の底から楽しそうに、笑っていた。
「……アイリス様は、何故……」
「|アリス【・・・】様に、何か?」
私の呟きに、ターニャさんが反応して厳しい声で質問をしてきた。その声色に、私はピンと背筋が伸びる心地がする。
「失礼しました。アリス様は、何故あんなにもお優しいのでしょうか」
その言葉に、ターニャさんは目をパチクリ丸めていた。珍しい彼女の反応が少し可笑しかったけれども、それ以上に哀しさを感じていたので、自分でも笑っているんだかそうじゃないか、よく分からない表情を浮かべていると思う。
「私たちが、巻き込んでしまったのに。なのに、私たちを責める言葉なんて、一言もなくて。それどころか、こうしてまた訪れてくださって」
アイリス様が大変な思いをされた破門騒動は、そもそも私たちが原因だ。私たち……いいえ、私がもっとしっかりしていれば、アイリス様の御手を煩わせることなんてなかったのに。
巻き込んで、背負わせて。それでも、アイリス様は変わらない。何もできないで、守られて。それがとても、もどかしくて悲しくて。
「アリス様は、そういう方なのです」
そう言ったターニャさんの表情は、とても誇らしげだった。
「楽しかったわね。少し、休憩させて貰って良いかしら?」
アイリス様のその言葉に反応されて、いつの間にかターニャさんはタオルを手にアイリス様の傍にいらっしゃった。
いつの間に、あそこに行ったのだろう?だとか、そのタオルはどこから出したのだろう?だとか、そんなどうでも良いような疑問がフワフワと頭の片隅に浮かびつつ、視線はぼんやりとアイリス様を追っている。
「……アリス様」
「どうしたの、ミナ?そんな浮かない顔をして。何か、問題でもあったのかしら?」
「いいえ、まさか。ここで、とても良くしていただいております」
「そう、良かった。何かあったら、遠慮なく言ってちょうだい」
……本当に、この方は何故こうなのか。
貴族様、よね?それも、庶民の私が直接話しかけるなんて畏れ多い、公爵家のご令嬢……雲の上の方なのよね?
何故、取るに足らない私にここまで親しげにしてくれるのか。案じてくださるのか。
「お気遣い、感謝いたします。……あの、アリス様。一つお聞きしてよろしいでしょうか」
「……どうしたの?」
「アリス様は、街にはお出かけににならないのですが?」
「まあ……どうして、そのような疑問を?」
「皆、アリス様がお顔を見せないので、とても心配していましたものですから」
アイリス様が訪れたという花屋のおばちゃんも、角に店を構えている食堂のおじちゃんも。それから、道行く人たちも。
街のいたる所で、アイリス様のお名前を聞く。それだけこの方が“アリス”としてこの街に馴染んでいたということだ。
私の問いに、けれどもアイリス様は苦笑いを浮かべていらっしゃった。
「……あそこまで大々的に、表の肩書きを曝け出して舞台に上がってしまったからね。警備上、以前のように街を出歩くことはできないわ」
それも、そうか。私は、落胆と共に肩を落とす。落胆する資格なんて、ないのに。
「なんて、それは建前。いえ、大きな理由なんだけど……本当は……単純に怖いのかもしれないわね」
「怖い、ですか?」
「そう。街の方々の、反応を直で見ることが。アリスという偽名の人間の、本来の名と役職を知って変わってしまうのは仕方ないことだわ。それについては、割り切っている。けれども、今回……私は、皆に迷惑をかけたでしょう?暴動こそ起きなかったけれども……私が自分たちの近くに現れれば言いたいことの一つや二つもあるはず。どんな罵倒が来るのか……それを聞くことが怖くてできないのよ。なんて、お役目失格ね。忘れてちょうだい」
彼女は、最後に軽く笑って言われた。けれども、私の視界は真っ黒に染まっていてその笑顔を認識できない。
この視界の変化は、怒りでなのだろうか。それとも、自身の無力さに対する絶望かのだろうか。
どちらに対してでもあるような気がしたし、そのどちらでもない気がする。そんなことよりも、胸の中に重りがのしかかったように苦しくそれに対してどこかにぶつけたい衝動が熱くお腹の底から湧き上がっていた。
「……アリス様……無礼を承知で、言わせてください」
私の声は、震えていた。それは恐怖ではなく、叫び出しい気持ちを抑えることに精一杯で。
「私を、私たちを馬鹿にしないでください……!」
けれども、ついに感情の激流は理性という堰を切って溢れ出ていた。
「確かに、私たちは貴女様から見れば弱い存在です。狭い世界で生きていて、上が何をしているのか知ることはないし、目の前の生活でいっぱいいっぱいで知ろうとすることもない」
毎日、仕事をしてご飯を食べて。その、繰り返し。明日も今日と同じ様に平穏な日を暮らせるようにと祈りながら眠りについて。
だって、知っているから。平穏な日々が、どれだけありがたいものなのか。明日の食事を心配することもなく、仕事があってお金を得る術があることがどれだけ大切なことなのか。
上の人が、どんな政策をしているから自分たちの生活にどう影響しているとか。そんなこと、分からない。どうせ、雲の上の世界の話だ。自分たちがそれを理解したところで、何かが変わるわけでもない。諦める以前のもので、それが当たり前のことだと思っている。だから、どこか別の世界の出来事だと思いながら噂話で面白おかしく話が出回るだけ。
いつだってそれが身近に感じられるのは、何か悪い方向にむかっているぞ、と感じた時だ。仕事が無くなった、金が無い、店先にある食物が高くなった……街の空気が淀んで、陰鬱な表情を浮かべて誰もが俯いて。
私は、知っている。その様を。シスターに拾われる前に、他の領で住んでいた私はその光景を見た事があるから。
そして、その時だけは上に文句を言っている姿も見てきた。それに怒り、それを鎮圧させようとする上の人たちと更にそれに反抗する街の人たちとで、街の空気は一層悪くなって。
アイリス様の今回の件だって、一時街は大騒ぎになって、アイリス様を責める言葉があちらこちらから噴出していた。
けれども……。
「でも、私たちだって馬鹿じゃありません。アリス様が真実、街のために色々なことをしてくださったことを、私たちはちゃんと理解しています……!」
それとは逆に、アイリス様のことを援護する言葉が出ていたことも事実なんだ。
最近暮らし易くなったね、って言っていただろう?と。
俺たちのことを考えてくれる領主様だったんだぞ、と。
何かの間違いだ、って。
アイリス様が、どんなことをされてきたのか分からない。聞いても、難しいだろうから、きっと理解できない。けれども、アイリス様のおかげで暮らし易くなったと、皆が笑っていたことは知っている。
医者の人が増えて、病気を治してもらえただとか。
読み書きができるようになって、他所からきた商人の人たちに騙されることも侮られることもなくなったとか。
将来の夢ができたと、笑っていた子どもたちとか。
作物の取れなかった地で、作物以外で利益を得て生活ができるようになった人の話とか。
たくさんのひとが、アイリス様の話をしていた。
その誰もが、自分のことじゃなくて単なる噂話でも笑顔で話していたことも。
「私たちは、弱いです」
立っている場所が、違うのだ。持っているものも、当然違う。権力、それに伴う武力、それから財力も。でも、でも、でも……!
「でも、弱さを盾にアイリス様を責めることだけはしたくないのです……!」
アイリス様とて、一人の“にんげん”なんだ。こんなに痩せて、顔色を悪くされるまで追い詰められてしまって。
そうなるまで働かれるこの恩人の方に、更に悪く言う奴がいたら、私が許さない。
花屋のおばちゃんも、食堂のおじちゃんも。
とっても、悔しがっていた。雲の上のに立つアイリス様が、身近にいらっしゃったのだから、それを特に感じていたのだろう。
何かできることはないかって、でも何もできなくて。弱い立場の自分たちの身を上を呪って、それなのにその弱さを盾にすることはあの人たちも決してしない。
あの人たちだけじゃない。
私の、子どもたちの境遇を知っていて何もしなかった、申し訳なかったと言ってくれた人たちもきっと同じ。
私が知らないだけで、アイリス様に助けられたという人や、アイリス様とアリスとして接した人たちの中でそう思う人たちは他にもいるだろう。
「だから、お願いします。アイリス様、御自分をこれ以上、責めないでください。貴女を責める方を、私は例えそれが貴女であっても許すことはできないのです」
言ってやった、言い切った、そんな達成感を感じていてのはほんの僅かな時。
ふとアイリス様を見れば、その達成感はどこかに吹き飛んだ。
ど、どうして涙を流されているのですか……?
言いすぎたかしらとサア……と頭から血の気が引いた。
ポロリと静かに涙を流される彼女は、とても美しい。
思わず魅入りそうになって……違う、違う。私、とんでもなく失礼なことをしてしまったんじゃ……?と慌てていたら、いつの間にか子どもたちが私たちの周りを囲んでいた。
「あ!先生、姉ちゃんをなかした!」
「いけないんだー」
子どもたちが私を怒る。うっ……確かに、私が言い過ぎてしまったのだし。た、逮捕とかされるのかしら?
「……違うのよ、皆。私、とっても嬉しくて」
「うれしくて、泣くの?」
「そうよ。とっても嬉しいことがあると、涙は流れてしまうの。先生が、とっても良いことを言ってくださってね、嬉しくて嬉しくて、涙が出てしまったのよ」
「なんだー。さっすが、先生。そんなすごいこと、言ったんだね」
子どもたちは、アイリス様の言葉を信じてホッとひと息ついていた。
「……さ、皆。今日はとっても美味しいお菓子を持ってきたから、ターニャから受け取ってね」
「お菓子!!」
子どもたちは、嬉しそうにはしゃぐとターニャさんのところへと走って行った。
「……ミナ」
「は、はい!!」
2人になった空間で、私はガチガチに緊張していた。やらかしたと、冷や汗がタラタラ垂れている。
「……ありがとう」
「い、いえ……失礼なことを申してしまいまして。子どもたちに科はありません。どうか、処分されるのならば、私だけを」
私の言葉に、アイリス様はキョトンと首を傾げられた。
「どうして貴女を処分しなければならないのかしら?貴女は、私を喜ばせてくれたのに」
ふふふ……と、アイリス様は微笑まれながら涙を拭う。
「……仕事が落ち着いたら、御忍び用の格好を考えないとね」
その言葉に、今度は私が一瞬首を傾げた。けれども、すぐにその言葉の意味が分かって、私は思わず笑顔を浮かべる。
「皆で、その時を楽しみに待っております」
そう、笑って伝えた。




