神の骸
南緯〇度二二分、西経一六〇度〇三分。南太平洋ライン諸島ジャーヴィス島。
面積約四・五平方キロメートルのこの小さな島は一八二一年に発見された。しかし、海鳥や水辺の鳥の巣や餌場でしかなかったこの島は、長らく合衆国未編入地域となっていた。
だが、このサンゴ礁の無人島は今や、宇宙の玄関口となった。多くの船舶や水上艇、旅客機にヘリコプターがひっきりなしに往来し、もはや海鳥たちが割って入る余地がないほど開発が進んでいる。
静止軌道まで約三六〇〇〇キロメートル。地球と宇宙を結ぶ柱、多層カーボンナノチューブ製ケーブルで繋がれた軌道エレベータ。
西経九〇度に位置するエクアドルのガラパゴス諸島にあるイサベラ宇宙港と東経七三度のモルディブのフヴァドゥ・フヴァンムラ宇宙港、それに東経一〇二度のインドネシアのスマトラ宇宙港、そしてこのジャーヴィス宇宙港が世界四大発着拠点として知られている。
そして、これらの宇宙港から伸びたケーブルの先にある終点、バラスト・スペース・ステーション間を繋ぎ、地球をぐるっと一周しているのがORS――軌道環システムズだ。
地球を一周するチューブのなかに封入した磁性流体を高速で移動させると、張力が発生して物をぶら下げることができる点を応用し、ここから地上に構造物を下ろすとそれが軌道エレベータとなる。
大型のスーツケースを預けるベルトコンベア、手荷物検査場、出入国手続き場など空港に類似した区画が並ぶ宇宙港に現れたのは、ふたりの少女の姿。
ひとりは美しい銀色の長髪をたなびかせて颯爽と歩く、夕日のように燃える橙色の瞳の少女、老原桜香だ。その凛々しい横顔に、柱に背を預けていた観光客たちが見惚れて雑談が途切れる。
桜香のすぐ後ろを追う、黒髪黒目のショートヘアの少女は筑波創奈だ。ふたりとも、その他大勢の観光客のなかに混じっているつもりなのだが、その容姿と醸し出す雰囲気に、男性だけでなく女性からも視線を注がれている。
創奈はさり気なく鞄からこの日のために準備していた巧妙に偽造されたパスポートといくつもの転売を経てもはや追跡調査が不能になった旅券を取り出すと、桜香に渡す。そして、出発ゲートを容易くぐり抜ける。
「このジャーヴィス宇宙港のいくつかの昇降機は厳密に秘匿されている。そして、ここには最新鋭の磁気浮上式昇降機がある」
昇降機内部は旅客機や列車のように座席がひたすら並ぶ客車と、それに加えて複合商業施設や宿泊設備の機能を持つ客車など料金に応じて、様々なタイプを選ぶことができる。
桜香と創奈は富裕層の一部しか利用することのかなわない豪華な昇降機に乗り込む。
通常、発着拠点から静止軌道までは五日間ほどかかる。しかし、この磁気浮上式昇降機を使えば、一時間ほどしかかからない。
「……“十字のオラクラ”と“黄金のグロリア”は?」
「貨物用昇降機ですでに宙へ。まぁ、今回は使わないとは思うけれど、取り戻されちゃ堪らないからな」
昇降機はすっと動き出す。
気にしていなければ、上がっていることに気がつかなかっただろう。
変装用に情報投影グラスをかけた創奈はそう言いながら、昇降機の眼下に広がる海原を見下ろす。
横浜港の襲撃の真相は、公には明らかにされていない。米軍も日本政府も秘匿に走り、火災や事故ということで表向き処理されている。そのおかげで、ふたりはこうして大手を振って軌道エレベータに乗れたわけだ。
「さぁ、今回の目的地はBSS、軌道エレベータの先端に取り付けられたカウンターウェイトの役割を果たすバラスト・スペース・ステーションだ」
老原桜香は手元の携帯端末を確認しながら、創奈の話に頷いてみせる。
「これから行くBSSは微重力状態です。長時間の滞在で筋肉が衰え、骨からカルシウムが溶け出す。長居は無用、ですね」
発着拠点から先端のバラスト・スペース・ステーションまでの間に張られたケーブルは両端に向かって徐々に細くなっていくテーパー構造をしている。昇降機がある程度高度を上げ終えると、今度は加速を優先したモードに移行する。
「でも、驚きました。創奈がこういう方面にも顔が利くなんて」
「裏の世界に生きていると、いろいろと融通をしてもらえるようになる。世界から悪徳が消えない限り、こういう利益はなくなることはないよ」
創奈は下を見下ろすのに飽きると、今度は顔を上げて頭上を見上げ、それにも退屈を感じ始めると、桜香の隣に立って画面を覗き込む。
「山都弥生、日本人、二九歳。“クラスト”を率いた首魁山都竜人の実姉で、旧AEOのなかでも特に著名な科学者。リインフォース・デヴァイスの主任設計員を務め、その後もFHDの開発において主導的な役割を果たした――」
「一年前の老原動乱の際は、旧AEOにもクラストにも加わらず、極秘裏に米軍でエリジウム鋼製装甲を用いた軍用FHDの開発に携わっていたとも指摘されています」
この旅の結末がどうなるかは、今のふたりにはわからない。
だが、どんな結末になろうとも、桜香はこの山都弥生には会いたいと思っていた。直接会って、話がしたいと思っていた。
実りの多い出会いになるといい。桜香は心のなかでそう呟く。
「へぇ、となると“十字のオラクラ”や“黄金のグロリア”、そして“金剛のエスト”を生み出した偉大な母、ってことになるのかな」
「それを確かめる上でも、これは重要な旅路です。亡き祖父の意図、本当の胸の内を知る上でも」
一時間後に、それははたして明らかになっているだろうか。
桜香がそんなことを思っている間にも、青い海は遠ざかり、空の先で待ち構える暗闇が近付く。
◆
ウラルスタン・ロシア国境地帯、人里から遠く離れたウラル山脈の渓谷。
エリジウム鋼の山肌でかたく閉ざされた地下施設の深部へと案内されていく美空とグラディスのふたり。ところどころが角張り、規則性のあるパターンを浮かび上がらせているエリジウム製の通路を歩く。
時よりすれ違う“エリクシルの民”の人々は、美空とグラディスと目が合うと胸元で両手を合わせていく。つられて、美空も同じように手と手を胸の前で重ねた。そうすることが、礼儀だと考えたからだ。
一体、どれくらい歩いただろう。しかし、退屈することはなかったし、長いとも感じなかった。この銀世界のなかを進むことは苦ではなく、むしろどこか美空の好奇心をくすぐる。異文化、そして歴史のロマンを感じて、美空の心は自然と弾む。
山都竜人が目指す“オリハルコン”の世界が、こういうものであったならば、きっと美空との出会い方も、そして別れ方も現実と違ったものになっていたはずだ。
そう思ってから、美空は思わず頭を振った。だけど、現実は、世界はそうはならなかった。今は感傷に浸っている場合ではない。
「さあ、いよいよです」テウルギストが沈黙を破る。
テウルギストに案内された先に広がる驚くべき光景に、美空は思わず息を飲む。口元を手で覆い、つい足が一歩二歩と前に前に進んで止まらない。
奥に設けられた祭壇に控えるのは、白金の巨人の像。
頭頂部の鶏冠状のブレードアンテナ、双眸ではなく、横一文字のラインセンサー。中世の欧州の騎士から着想を得たフェイスカバー。後頭部からは廃熱用の熱伝導ケーブルの束がまるでポニーテールのように伸びている。
背部は“黄金のグロリア”にも似た刺々しい背部ユニットを背負った姿は、まさに地に降り立った有翼の神の姿だ。
自身の全長にも匹敵する巨大な近接格闘用装甲貫徹ランスをその手に携えている。
可変式で必ずしも戦闘に特化していなかったリインフォース・デヴァイス。それの駆逐を目指し、将来必ず戦場に現れるであろうエリジウム鋼装甲を採用し、対エリジウム鋼兵装という最強の矛と盾をそなえたカテゴリー“FHD”。先ほどグラディスが言っていた最新鋭式の英国製FHDとは、きっとこの機体のことだろう。
その姿は、まさに守護神に相応しい。それとも異教の神として崇められているのだろうか。
「“白金のサージスト”。一年前の老原動乱の戦訓を元に開発され、ついこの間英国から譲渡されたばかりの最新鋭機です。この機体の纏う神聖な雰囲気、厳かなで見る者の戦意を奮い立たせる姿は、“金剛のエスト”に勝るとも劣らない」
つい、“白金のサージスト”の巨体に視線が釘付けになってしまうが、その手前には小さな杯のようなものが置かれた台がある。その杯は掌におさまるほど小さいのだが、表面の格子状の加工の精巧さに美空は魅了されていた。これも祭具のひとつなのだろうか。
そして、何よりも異様なのは、打ち捨てられた――のではなく、安置された無数の姿を美空は見て回る。まるで、己の網膜に写真として焼き付けるようにして。
「これって」
それは、美空には見覚えのあるものだった。だが、この物量。地下に設けられた空間とて、決して手狭ではない。にも関わらず、まるで所狭しと並べられているように見えるのだから不思議だ。
壊れた銀色の腕や足、それに胴、そして頭部。それが積み上がる姿はまるで妖怪。古の物語に登場する、気味の悪い化物のよう。多頭で多腕、そして多脚。悪夢で出てきたら間違いなく飛び起きて、もう二度寝はできなさそう。
「そう、あなた方が“クラスト”、そしてエリジニアンと呼ぶものの残骸です」
テウルギストは己の左胸に手を置いて、美空に向かって語り掛けてくる。
「本来ならば、しかるべき機関が引き取り管理する代物でしょうが、わたしたちは際限のない軍事拡張や世界秩序の破滅的な変化を望んでいません。そこで、あくまで苦肉の策としてわれわれ自身でここで保管し、こうして管理しているのです」
「……でも、この数と量は」
いくらなんでも、多すぎる。
「われわれと彼ら彼女らの戦いが、いかに熾烈で凄惨であったのかを物語っているでしょう」
「そこのテウルギストとさっきのララティナは神官と巫女である以前に、超優秀な使用者なのですわ。最新鋭の英国製FHDをここまで扱えるのは、このふたりをおいて他にはいないでしょうね」
グラディスが補足してくれる。
「神に仕えし神官と巫女は、われらの神が“オリハルコン”を通じて伝える神託をエリクシルの民に広く広めるという、きわめて重要な役目があります。それゆえ、先天的な素質が望まれ、鍛えられていくのでしょう。ですが、決して戦いを求めて身を投じていたわけではないのです」
長身のテウルギストは膝を折って、美空と同じ目の高さになる。テウルギストは平生と変わらぬ穏やかな口調で美空に語りかけてくる。
「老原翁の正統な後継者を騙る老原桜香は、祖父と同じようにエリジウムの力を用いて世界秩序の再構成を望んでいます。そのなかで、エリジウムの秘密を暴露し、その信を世界と人類に問おうとしています」
悪業を背負って悪を絶つ。
そういって、米軍から“十字のオラクラ”を奪っていった老原翁の孫にして、非業の死を遂げた老原清志の娘、老原桜香。
「わたしは、彼女の志向するその高い倫理性と強い信念は認めていますし、それには敬意すら払っています。ですが、われらエリクシルの民がここまで“オリハルコン”の存在を執拗に隠匿し、こんな山奥の下で隠れて過ごすのは、それが古より争いの種になってきたからです」
美空の心のなかにある微かな迷いを機敏に感じ取ったテウルギストは、優しく微笑みかけてくる。そんな仕草に、美空の瞳は揺れる。一年前の戦いの後でこの手に掴み取った平和が今まさに壊れゆくのをひしひしと感じた。
「確かに、老原翁亡き世界は、特に米国の動きが顕著ですが、果てのないエリジウム研究と軍事転用によって、他国も軍拡競争をせざるを得ない状況に追い込まれています。そして、仮初の平和の裏では多くの血が流れ、そしていくつもの命が人知れず消えていっているのです」
テウルギストの言葉に、グラディスが微かに肩を震わせた。だが、すぐにいつも通りの余裕な態度を繕う。
「だからこそ、美空。あなたが人々に道を示さなければなりません。老原動乱以前に時計の針を戻す愚を犯してはなりません。“オリハルコン”の力は人々を恐怖に陥れ、支配するためのものではなりません。その真価は闇を貫く光のように、人へ進むべき道を明るく照らすものでなければならないのです」
「……わ、わたしが?」
「あなたにしかできないことだ。兵士でもなく、戦士でもない、ただの“榛木美空”として戦い抜いた、あなたにならば」
落ち着いた声音で、だが確実に決断を迫るテウルギストに、美空は動揺した。
◆
今回の旅の執着地点。軌道エレベータの先端に取り付けられたカウンターウェイトの役割を果たすBSS――バラスト・スペース・ステーション。
宇宙空間への短期滞在を目的とした、富裕層向けの超高級宿泊施設に降り立った桜香と創奈。SF映画の撮影所のセットのような未来感に、桜香は感心した。自分が生きている間に、こうして上から地球を見下ろすことになるなんて。
「ですが、創奈。こんな厳重なセキュリティ、どうやってかいくぐっているんです?」
「ふふっ、それは企業秘密だ。こちとら、これで食べていっているんだから」
「それにしても、本当に奥の奥なのですね」
「まぁ、山都弥生は自身が著名な科学者だ。その身辺警護もまた厳重にならざるを得ないということだろう」
そう、ふたりはある女性と面会するために、遠路遥々やってきた。
さっきまで会員制ホテルのような区画だったというのに、ゲートをくぐる度にその殺風景度は増し、いつしか機能性一辺倒の設備へと変わっていく。その違和感に、創奈もほうと感心しながら言う。
「まさかとは思うけれど、こんなところに自分専用の研究室でも持っているのか?」
「……そのまさかだよ」
ゲートの向こうに佇んだ人影は太陽の位置の関係で、まるで黒子のようにその詳細が覚束ない。
「世界唯一の超大国、米国から最新鋭兵器を奪っておきながら、こうしてのうのうとやってくる、その図太い神経に乾杯だ」
微小重力の影響を最小限に抑えるために藁のような茶色の髪をショートにした、若い女性。情報投影用なのか、視力矯正用なのか、赤いフレームの眼鏡をかけている。ふわふわと漂う丈長の白衣に、着崩れのないブラウスとパンツの出立ち。絵に描いたような「優秀な科学者」という雰囲気の人だ。
山都弥生は手にしていたコーヒーのボトルに口をつける。
極小重力の環境下では液体は小さな球体になってしまい、飲もうとしたはずが逆に全身がコーヒーまみれになってしまうので、こうしたボトルに詰めた形で吸引する。
「痛い目に遭いたくなければ、こちらの質問に答えてもらおうか」
「ふうん。脅せばなんでも喋ると考えているわけだ、きみは」
創奈の凄みのある声音にも動じることがない。この山都弥生には幾多の修羅場を乗り越えてきた者にのみ漂わせることのできる、そんな堂々とした余裕を感じる。
「じゃあ、その指を曲がらない方向に折り曲げてやろうか?」
「『それが人にものを訊く態度か』って言っているんだよ、こっちは」
「ちょっと創奈、お止めなさい。失礼ですよ、今の言葉は」
「人の心は見えないけれど、人が発した言葉は心の断片を明らかにする。そして、人の行為がその心の本質を明らかにする。そっちのお嬢さんのほうがまだ話ができそうだな」
にやっと人を食った笑い方をする弥生に、桜香はふうと息を吐き出した。
「山都弥生さん、あなたは知っていますね。“金剛のエスト”のこと」
はたして、桜香の問いに弥生は感心したように目を丸める。
「“金剛のエスト”、懐かしい名前だ」
そう言うと、弥生はふたりに背を向けて、部屋をふわふわと漂い始めた。ふたりも一拍遅れてその後を追う。
「今は亡き老原翁に依頼されて作った、唯一無二の機体だ。ふふっ、あのときの迷いと苦労がまるで昨日のことのように思い出される」
「あれは一体なんなんだ?」創奈がついといった感じで口を挟む。
「あれは将来、エリジウム鋼が軍事転用されて人類に大いなる災厄をもたらす日を事前に見越し、それらの禍根を全て絶ち切るために開発されたもの。それがFHDであり、“金剛のエスト”はその先陣を切る機体はずだった」
施設に設けられた監視カメラが弥生の姿を認識して、ゲートを開ける。部屋の脇に備え付けられたベルトに手を触れると、三人の体を引っ張っていく。どうやら、弥生はふたりをどこかへ案内しようとしているようだ。
弥生の説明に、桜香は一瞬だけ違和感を覚えた。だから、彼女は畳みかけた。
「『はずだった』? それで、その本質は?」
「ただ、たとえば核兵器を見ればわかるように、兵器というものはある点を境にして、急に使えなくなる。あるいは、使い勝手が悪くなってしまう。それは相互確証破壊という軍事分析でも、あるいは人道的・倫理的な心理的な障害でも、どんなロジックで説明しても構わないんだけれども」
弥生は気にする風もなく喋り始めた。どうやら、こちらの知っている知識の範囲で話す心積もりらしい。
ベルトの先には両開きの扉があり、どうやらエレベータのようだ。壁面に設けられた小さな小窓には弥生のログしか表示されていない。創奈の細工なのだろうか、ここには電子的な記録上は弥生しかいないことになっている。
「では、“金剛のエスト”は他のFHDとは明確に違うと?」
「ああ、あれは違うよ。“幽冥のエレボス”・“十字のオラクラ”・“黄金のグロリア”は、兵器としては出来損ないのリインフォース・デヴァイスを一方的に駆逐するための対抗兵器だ。まぁ、“クラスト”相手には間に合わなかった不遇の兵器だけど。でもね、“金剛のエスト”だけは違う」
「そうだろうな。実際に戦ったわたしたちはすでにそれを知っている」創奈が歯噛みしながら言う。
「……あれは、兵器ではない」
弥生の思わぬ言葉に、桜香と創奈は刹那の間硬直し、次の句を継げなくなる。そんなふたりの反応に、弥生は面白おかしそうに鼻で笑う。ようやく調子が戻ってきた桜香が問う。
「……兵器では、ない?」
「まぁ、あくまで便宜的には『兵器』にカテゴライズされているけどね」
「では、“金剛のエスト”とは……。結局、あれは一体なんなのですか?」
扉が開くと、そこは薄暗い研究室だ。弥生はすっと微小重力の空間を漂うと器用に壁面を伝って部屋の奥へ進んでいく。
「“金剛のエスト”がなんであるのかを答える前に、これもせっかくの機会だ。これでも見てもらうか」
弥生は有無を言わせなかった。弥生の手の動き、そのモーションをとらえたカメラがプログラムを作動させ、そのなかに収められていたものをふたりに向けて晒す。
円筒状の収納容器、そのなかに安置されているのはひとりの少女の寝顔。一見すると心安らかに眠っているようにも見えるが、その愛らしい顔の右半分には銀色に輝く泡立った泥のような金属がびっしりとこびりついている。発泡エリジウム鋼だ。無理に蒸着したために、分離さえできなくなったのだろう。
「こ、これは……」
「見なさい。哀れだろう。これが愛しのわが妹、山都茉莉の変わり果てた姿だ。“オリハルコン”の制御実験の際に、暴走したエリジウムにその身を食われて、以降は寝たきりだ」
「寝たきり、ということは生きているのか?」創奈は目を見開く。
「彼女の心臓は今も動いている。だが、脳を侵食し切除不能なまでに融合した。融合具合は脳死寸前の植物人間の状態と言ったところかな」
さして表情を変えない創奈に対して、桜香は両手で口元を覆い絶句している。
「……これを、父と祖父が?」
「さあ、それは知らない。だから、きみを責めるために見せたんじゃない」
弥生は感情を荒げることなく、淡々とした口調で語る。
「なら、なんでこんなものをわたしたちに見せる?」
「自覚を持ってもらいたかった。それは、ただ単に便利で使い勝手のよい、強大な力ではない。まだ未知の部分も多く、その使い方を一度間違えば、取り返しのつかない事態を招く。そして、もう戻れなくなる。たとえどんなに強く戻りたいと強く願っても、ね。科学の進歩の名の下に、よりよい未来の実現のために。そういう美辞麗句のために、大切なものをいとも容易く忘れ、あっさりと壊してしまう。そして嘆く」
弥生は右手で後頭部を掻きながら、目を瞑った。
「まぁ、きみたちに説教をするつもりはないよ。ただ、自分たちが手にしているもの、その本質がどういうものか、少しだけでも見つめ直してもらえれば、それでいい。力とは自らを強く律していなければ、いとも簡単に飲み込まれてしまう、厄介な代物だということを」
「……わかっています。だからこそ、わたしは悪をかたり、そして悪の下に巨悪を討つんです」
弥生は黙って頷く。
「では、本題に移ろう。あれは今から六一年前、若き日の老原翁が各地でエリジウム鋼の採掘とその分布を研究しているとき、偶々訪れた南極大陸で氷河の裂け目――クレバスから発見したんだよ」
「発見? 何をです?」
「“神の骸”を、だよ」
弥生は笑みを消して、ふたりに向けて言い放つ。
◆
ウラル山脈のエリクシルの民の洞窟型住居。その深部に設けられた広大な空間に安置された無数の“クラスト”とエリジニアン、その残骸を前にして神官テウルギストは対峙する美空に向かって言い募る。
「だからこそ、美空。どうか、このわたしにその力をお貸しください。老原動乱を見事治めた伝説の英雄榛木美空、全てのリインフォース・デヴァイスを過去のものにする元始のFHD“金剛のエスト”、そして米軍が対抗兵器と語る超古代の神器“力の剣”があれば、世界を正しい方向へと導くことができるでしょう」
「あの、テウルギストさん」美空は小さな声で言う。
「はい、なんでしょうか、美空さん」
テウルギストは自身の左胸に手を置きながら、穏やかな声音で応じる。
「わたしは確かに、一年前に戦いました。そのときは本当に必死で、訳がわからなくて、そしてそれは今でも決着がついていないんですけど。でも、人を率いるだとか世界を正しい方向に、とか……そういうのにわたしは向いてないと思います」
美空の弱々しい小声に、テウルギストは柳眉を寄せる。
「……わたしはただの、女子高生です。ただの、榛木美空なんです」
それが彼女の偽らざる胸の内だった。たとえ、その手に強大な力があろうとも、あるいはそこにどんな責務があろうとも。美空はその力を主体的に振るおうだなんて思っていなかった。まして、誰かに道を示すだなんて。
「その双肩に、世界の命運を左右する重責がかかっているのに、ですか? あなたは自分の力を過小評価している」
「でも、それを決めるのは、わたしじゃないはずです。それは、みんな。そして、もしもこの力がわたしに宿っていることに、何か意味があるのだとしたら、わたしはそんなみんなを、そしてみんなの笑顔を守るためにあるんだと思っています」
言い終えて、美空はへらっと笑う。そうだ、それが一年前に出した、美空が戦い抜いた果てに辿り着いた答えだった。
「わたしの言い方がよくなかったようですね。では、美空。その笑顔を守るために、と言ったらどうでしょう? それでも、わたしとともに歩めませんか?」
「ごめんなさい。わたしは神官じゃないから、人を導くだとか、そういうことは望んでいなくて。それに、そういう上から目線での庇護じゃなくて、ともに支え合う、助け合うみたいな……」
「そうですか」
テウルギストは微笑む。美空は父を知らない。だが、もしも美空に父がいたとしたら、こんな風に笑いかけてくれたのではないか、そう思わせるような微笑だった。美空も微笑に対して微笑で応えた。
「やはり、ここであなたと会えてよかった」
テウルギストはそっと右手を差し出してくる。
「……それは、はい。わたしも」
美空も手を出し合い、ふたりは握手を交わした。
「美空さん、あなたは“オリハルコン”に関わるべきではなかった。一年前に、戦うという選択肢を選び取るべきではなかった。なぜなら、なぜならばあなたはその力を正しく使うことができないばかりか、破滅的な結末を選び、それがあなたが大事に思うものまでも壊そうとしている」
「……えっ?」テウルギストの言葉に美空の顔が曇る。
「お気づきでないようですね。一年前から、あなたという存在自体がある種の恐怖なのですよ、美空さん。だから、“虚ろな男”、老原桜香、グラディス・ギフォーズ、そしてわたしが現れた。あなたを見定めるために」
テウルギストは穏やかそのものだが、その背から敵意を放っているようにも見える。
「あなたが戦えば戦うほどに、人々は知るでしょう。その大いなる力こそが災いなのだと。それこそが、人々から笑顔を奪うことになるということを」
「……そこまでですわ、テウルギスト」
美空が言葉に動じて固まってしまっている間に、テウルギストの後ろを取ったグラディスがその背中に拳銃の銃口を押し当てている。
「グラディス・ギフォーズ。あなたはわたしの味方なのではなかったのですか? それとも、あなたのお国のきわめて伝統的なお家芸の二枚舌ですか?」
「あなたこそ、美空と虚ろな男を亡き者とし、横浜港で米軍の秘匿兵器を奪取しようとしたのでしょう」
「……嘘」
グラディスの言葉に、美空は絶句する。
「ほう、それは一体どういう了見で?」
「エリジニアンですわ。老原動乱以前に旧AEOが回収し国際的に管理していた分、英国が条約に違反してまで秘匿していた分、そして米国が世界を出し抜き極秘裏に開発していた分、旧ソ連崩壊の混乱のなか管理不能となり放置されていたロシアの閉鎖都市。そして、未だ逃亡中の旧“クラスト”残党。こうして考え得る可能性を丁寧に潰していくと最後に残るのが、ここの保管分」
どこか冷徹さすら感じさせるグラディスの言葉に、テウルギストは大きく頷いた。
「なるほど、そういう消去法もありますね」
「そして、それの管理者にして、使い手はあなた」
「確かに、ララティナにはそんな大いなる野望を抱く人物ではない。それに、それに見合う権限もない。なるほど、物的証拠に乏しいですが、状況証拠は一応揃っている。少々乱暴ですがね、さすがは推理小説発祥の国出身」
テウルギストの笑みに、美空の背筋が凍る。
「しないんですか、否定」
「あなたが再び戦うという意志を固めるためには決して避けて通ることのできない、必要な事象でした」
「……そんなっ!?」美空は悲鳴にも似た叫び声を上げる。
「それに、それで事態が丸く収まるのであれば、むしろ安いものではないですか。わたしと老原桜香は同志ではない。むしろ、敵同士だ。老原桜香の奪取事件のことをより以前に予知できていれば、もっと別の手段を講じていたとは思いますが」
テウルギストの言葉に、美空は言葉を失う。
「嘘、だったんですか? さっきの話は全部」
「それは違いますよ、美空さん。むしろ、本当だったからこそ、わたしはあなたを襲ったのだ」
「ですが、ではこの状況は? どんなに言葉を重ねようとも、あなたは結果的には日本で美空と虚ろな男のふたりを排除しかねなかった。そして、“力の剣”の奪取に失敗した。そこで、あなたは次善の策として、わたくしを介して美空に会うことにした。そして、あなたがやっていることは? 美空の懐柔ですわ」
グラディスの追及に対しても、テウルギストは余裕を崩さない。
「美空さんとギフォーズの邂逅が事前に演算された未来予測を変えてしまったようだ。わたしとしたことが、理想を高く掲げたばかりに、意志の弱さと計画の甘さが露呈してしまった。反省して、次に活かさなければ」
「馬鹿なことはお止めなさい。わたくしの銃の弾丸はエリジウム鋼でできています。たとえ、あなたが瞬時に蒸着させたとしても、その間に弾は銃口から飛び出し、あなたの脳をかき混ぜて飛び出しています」
「よろしい、ならばやってみなさい」
その言葉と同時に、テウルギストはその場で素早く跳躍した。そして、その遠ざかっていく姿に向けて、グラディスは拳銃の引き金を引き、飛び出した弾丸は狙いを違えることなく、テウルギストの体に入り込むと、その臓腑をぐちゃぐちゃにして背中から飛び出した。
◆
「……“神の骸”?」
軌道エレベータの先端。カウンターウェイトのバラスト・スペース・ステーションに設けられた超高級宿泊施設。その奥に作られた秘密の区画、壁面に立つ弥生はにやりと笑いかけてくる。桜香と創奈は聞き慣れない言葉に困惑し、女性の説明を待つ。
「わたしは科学者だから、そういうオカルト――というか超古代遺跡の遺物とかには興味はなかったんだけど、老原翁はそれはもう真剣でね。もしも、自分の研究が取り返しのつかないことになったときの保険に、わたしの協力を仰いだんだよ」
弥生の説明に対して、創奈は苛立たしそうにして詰め寄る。
「いいや、そうじゃない。それで、“神の骸”とは一体なんなんだ? まさか、本当に神様の死骸とでも言うんじゃないだろうな?」
あんまりな言い方だがある意味では確信を突いた創奈の言葉に、弥生は腹を抱えて笑う。本当に、面白そうでおかしそうだった。それが今の創奈にはなおさら腹立たしい。
「さあ。それは生物学者にでも訊くんだね。まぁ、太古の生物の骨格なのか、高度に発達した別の文明の究極兵器の残骸なのか、それがなんであるのかについては回答不能だ。その点はね、当時終結した研究チームでも解析不能だったんだ」
はー、おかしい。と弥生は吐き捨てるようにして言った。
「……あなたは、一体何を作ったんですか?」
「そんなの、決まってるじゃないか。“神の骸”をメインフレームにして、最強のFHDを作ったんだよ。その頭にODESSAを積み、そして魂として使用者を搭乗できるようにした」
突然、弥生がくつくつと笑い出した。目元を右手で覆い、そして次の瞬間には頭を天井に向けて、そして満足そうに微笑んだ。
「ああ、なるほど。なるほどね。そういうことか……」
「何が、どういうことなんですか?」
「老原翁のやつめ、保険と聞いたときはとんだ誇大妄想だとは思っていたが、案外あんたの見立ては間違ってはいなかったみたいだね。本当に、大した男だ。死ぬにはあまりにも惜しいやつだったな」
「勿体ぶってないで、さっさと教えてもらおうか?」創奈が弥生の両肩を捕らえると乱暴に揺さ振る。
「南極へ行きな。きっともう、開いているはずだから」
弥生は心底小馬鹿にしたような口調でそう吐き捨てた。
「開いている? 何が開いていると言うんです?」
「“時の門”だよ。それだけじゃない。きっといくつかの遺物も起動しているはずだよ。老原翁とその息子清志は、そういう方面でも何やら研究をしていたらしいからね」
弥生は乱暴に創奈の手を払うと、手にしたボトル入りのコーヒーを全て飲み干した。
「いやぁ、残念だよ。だけど、もしかしたら、きみたちならなんとかしてしまうかもしれないね。だって、エリジウム鋼というのも元はと言えば“オリハルコン”って呼ばれていたある種のオーパーツなんだからね。それを自在に操る使用者にこそ、この世界の命運を左右するに相応しい」
まだ怒りの収まらない創奈の隣に立った桜香は、その震える肩に手を置いて落ち着かせるようにして語りかける。
「創奈、戻りましょう。地球へ、全てが手遅れになる前に」
簡潔に礼を言うと、ふたりは部屋を出て行こうとする。
「せいぜい足掻くんだね。人はそうやって、自らの道を切り開いてきたのだから」




