わたしの信じる正しさの形
北緯五五度三一分、東経六一度五分。
ロシア連邦チェリャビンスク州チェリャビンスク市の中心部から一八キロの距離にあるチェリャビンスク国際空港。
今し方、大空から降り立ったジョアンナの“空飛ぶ翼”の漆黒の全翼機は地を這う猛禽のように滑走路上を走行し、他の民間旅客機を蹴散らすようにして走行する。
<一年前のあの日、あなたは“クラスト”と対峙したときに戦うという選択をしたときから、その運命は決まっていたのです。他ならぬ、あなたが選び取った。戦う、と。なのに、あなたは誤った。戦い抜かなかったからだ>
旅客機とは雲泥の差、乗り心地も座り心地もよくない座席におさまった美空は、テウルギストの言葉を思い出す。
さまざまな感情や思考が脳裏を行き交い、思わず額を窓に押し付けた。
世界がこんなことになっているだなんて、思ってもみなかった。
美空は自らの思慮の浅さを呪った。
一年前の自分にできたことは戦うことだけ、世界を変える政治力などまるで持ち合わせていない。
それでも、たとえ微力でも自分には何かできたんじゃないか。
それが、世界を変革する蝶の羽ばたきになっていれば。そんな思いが心の奥底から湧き出す。
頭のなかがそんな雑念で混沌としてきて、美空は髪をかき上げた。
桜香とテウルギスト。ふたりはそれぞれの方法で、世界に牙を剥いた。
桜香は自らを悪と称して、テウルギストは自らを善と称して。桜香は自らが背負うと美空に言い放ち、テウルギストは美空が背負えと説いた。
「わたしが戦い抜いていれば、ふたりは……」
ひょっとしたら、今とは違う未来になっていたのではないか。
その言葉が、美空のこころを責め立てて離れない。
「そう、それじゃあテウルギストの足取りは掴めていないんですのね。まったく、あんな巨体をどうやって欺瞞しているのやら」
美空の向かいの席では金髪碧眼の英国人女性――グラディス・ギフォーズが防諜対策が施された、携帯式衛星電話をもとに独自の改造が施された通信機器で、しきりに指示を出していた。
「とにかく、ここは英米間の協力を密にして無人航空機による高高度からの索敵と偵察用軍事衛星の優先的な割り当てを。テウルギストはともかく、“アルティメイタム”の移動速度にはおのずと限界があるはず。話はそれからですわ」
電話の向こうの相手に時おり相槌を打ちながら、何やら話を詰めている。
「では、よしなに。英国の淑女は受けた恩義を忘れません」
通信機をしまうと、グラディスは美空の様子を覗う。
「美空さん、自分を責める必要はありませんわ。この件に関して言えば、誰もあなたを責められないはず。これは誰かひとりが背負いこむにはあまりにも重すぎる、そういう類の代物ですわ」
「でも、老原さんの女の子も、テウルギストさんも、わたしが途中でやめなかったら……」
「“十字のオラクラ”に関しては条約違反のFHDを開発していた米国が、テウルギストに関しては、一年前の“クラスト”襲撃が直接的な原因のはずですわ。美空さん、あなたひとりがどうこうできる話じゃない」
美空はなんとも言えない気持ちになる。
本当に、そうなのだろうか。自分にできることはなくて、だから、いいのだろうか。
でも、だとしたら、今美空の胸の奥に漂うこの罪悪感にも似たこの心情は一体なんなのだろう。
「確かに、美空さんが最善を尽くしていれば、世界は変わっていたかもしれない。でも、現実は違った。そうはならなかった。歴史に『もしも』はありませんわ」
機体が完全に停止すると、グラディスはシートベルトを外して通路を横切る。
そのまま美空のすぐ脇に立つと、その場にしゃがみ込んで目線を合わせてくる。
「美空さん。あなたの人を容易に信じてしまうところは大きな美徳ですわ。特に、嘘と欺瞞が蔓延るこの世界では。でも、もしもあなたが本当に信じなくてはならない人がいるのだとすれば、それは自分。他の誰かではない、自分自身なのですわ」
「……自分、自身?」
「ええ、そうですわ。誰のためでなく、自分のために。それ以外の理由で戦うことは、とっても辛いこと。人は戦うための理由を欲する生き物。だから、あなたはつねに自分へ問い続けなくてはならない。誰のために、そしてなんのために、戦うのかを」
グラディスはそっと美空の肩に手を添える。
「さぁ、参りましょう」
◆
“空飛ぶ翼”内、“双身のデュアリス”がおさめられた兵器庫の前で思いつめた顔をしたララティナは手すりにその背を預けていた。
「ララティナ! これから会合があるんだけど大事な話もあると思うから、あなたも一緒に……」
どこかかげのある横顔をして佇むララティナに、ジョアンナは首を傾げた。
目を放してしまったら最後、次の瞬間には消えてしまいそうな儚い後ろ姿。傍で見ていて痛々しいララティナに、思わずジョアンナは駆け寄る。
「……大丈夫?」
「師匠は、おかしくなった」
ララティナは心底悔しそうに唇を噛んだ。
「師匠は自らの行いが悪だと、気付いていない」
言いにくいことをどうにかして絞り出したような口調だった。
それは本当に苦し気で、ジョアンナは咄嗟にララティナの華奢な肩に手を置いた。
それで彼女の気持ちが安らぐだなんて思ってはいない。ただ、ジョアンナは共感を表したかった。
同じ部族の、精神的な支柱であり、そして師でもあったテウルギスト。その到底理解も納得もいかない言動と行動はララティナを深く動揺させ、そして傷つけた。
ジョアンナとララティナはまだ出会ったばかりだ。それでも、今のララティナの姿を見るとジョアンナの心は痛んだ。
「そうね。誰だって自分が、自分だけが正しいって思ってる」
それが慰めにもならない言葉だと思い至って、ジョアンナは言葉を失う。ただただ押し黙って、ふたりの間に気まずい沈黙が横たわる。
「……あの人は、変わってしまった」
「ララティナ」
兵器庫、ふたりの間に横たわる重い静寂。
それが堪えたのだろうか、ララティナはその場を後にする。
それでも、そんな彼女をジョアンナは放っておけなくて、視界の遠くで小さくなる背を懸命に追った。
◆
チェリャビンスク国際空港、空港に併設されたVIP設備に美空たち一行は通された。
そこで待ち構えていたのは、スーツ姿のふたりの男。
ひとりは銀色の髪の大男で、その身長は二メートルにも迫ろうかという巨躯だ。
修羅場をくぐり抜けてきた数だけ顔に皺を刻んだかのようで、切れ者という雰囲気をその身に纏っている。
もうひとりは長身でやせ型の優男風な男で、入学したての大学生みたいにひどく若々しく見える。
キャリアパーソンというよりも、むしろスーツのモデルという感じで実務能力があるのか、いまいち外見からはわからない。
美空は嫌な予感がして肩をいからせた。
すると、若いほうの男がすっと右手を上げてみせる。
「ああ、そんなに緊張しないで。確かに、これからきみに話すことは非常に重要なものだけれども、そうはじめから警戒されちゃ堪らない。初対面の人に心を開いてだなんて言われても、いまいちピンと来ないかもしれないけれど、ここはどうかリラックスして聞いてもらいたい」
男は美空に笑いかけると、自然な形で右手を差し出す。
「ぼくの名はジョエル。ジョエル・ジョンストンだ。合衆国の軍人で、“金剛のエスト”と“力の剣”に関して是非ともきみと話がしたくてやってきた。どうぞ、よろしく」
「……はぁ、どうも」
ジョエルの満面の笑みに、美空はとりあえず手を取って握手をする。
とはいえ、ジョエルの浮かべる笑顔を額面通りに受け取るわけにはいかないだろう。読めない次の展開に、美空は警戒心を解けずにいた。
「そして、わたしはPMCブラスト社社長のアンドレアス・アルヒだ。UNAEA――国連宇宙研究機関《ユナイテッド・ネイションズ・エアロスペース・エクスプロレイション・エージェンシー》の理事会決議に基づき、第一三企画部付特別作戦執行部ユニットX“スピアヘッド”を指揮している」
大男も手を差し出してくるので、美空は握手を交わす。
「まず最初に、ぼくたちはきみを捕まえにここへ来たわけじゃない。むしろ、きみに助けてもらいたくて、こうしてお願いに来たということをどうか理解してほしい」
ジョエルは言い切ると微笑んでみせる。
美空を安心させよう、という意図がはっきりと伝わる笑顔だ。
「きみは老原桜香の“十字のオラクラ”強奪事件、そしてロシア連邦オレンブルク州オルスク周辺でテウルギスト・タリスマンの超巨大エリジニアンと遭遇した、きわめて重要な人物だ」
「そこで、きみに是非とも実行してもらいたい作戦がある」
ジョエルは言いながら鞄から取り出したタブレット端末をいじり、データを表示させる。
それは地図情報で、縦と横に走る線に区切られた地形や点となって表される無数の都市が浮かび上がっていた。
「ウラル山脈ロシア国境の北部、ちょうどここチェリャビンスクから北西に一五〇キロの位置にあるオジョルスク市にある地図から存在を消された街、閉鎖都市“チェリャビンスク六一”」
空白地点をジョエルの指が叩くと、そこに浮かび上がる衛星写真の画像データ。
語学力に自信のない美空にはよくわからないが、どうやらその都市を類推する単語が並んでいるようだ。
「そこにいるある人物をきみに救い出してほしい」
「……救出?」
ジョエルが携えた端末の画面を指先でスライドさせて、ディスプレイを美空に向けて掲げる。
それは静止画像情報で、幼い少女の胸から上の写真が表示されている。パスポート用の写真か、もしくは身分証明書用のフォーマルなフォーマットだ。
長く艶やかな黒髪を束ねて後頭部でまとめたシニヨン。黒い縁の眼鏡をかけている。大きくて丸い瞳は綺麗な鳶色をしている。細い体つきでしゅっとした印象の、とても可愛らしい女の子だ。
「林青霞、台湾にルーツを持つアメリカ人だ。“チェリャビンスク六一”に派遣されて極秘裏にエリジウムを研究している科学者のひとりだ」
「ずいぶんと、若い」
ララティナが呟く。
「彼女はまだ一五歳だが、AIT――アルテア工科大学の大学院へ飛び級で入学し、すでに修了し博士号を持つ才媛だよ」
「だが、今からちょうど一二時間前にこの閉鎖都市で管理されていたエリジウムが突如として暴走し、ロシア人の管理下を離れて他のものを無秩序に取り込んでいる」
ジョエルの言葉を継いで、アルヒが端的に解説する。
「きみと英国側の非公式エージェントの巫女ララティナ・レクス、それにわたしの配下のエリジウム鋼が無事な点から考察するに、使用者によって統御されていないエリジウム鋼が暴走していると現時点では考えられる」
「“チェリャビンスク六一”は外国人の受け入れを制限しているけれど、青霞は特例として滞在を許されていた。彼女は合衆国の対エリジウム鋼装甲兵器にも精通した人材だ。今、ここで彼女を失うわけにはいかない」
「そこでPMCブラスト社第一三企画部付特別作戦執行部は青霞救出のための極秘ミッションを計画しているが、肝心のユニットX“スピアヘッド”は先の“アルティメイタム”戦に出撃してしまい、現在は即応可能な状態ではない」
「米英は他にも極秘のFHD部隊を編成しているけれども……」
何気ない風を装って発せられるジョエルの言葉に、エリジウム鋼の管理を一元的に担う国際機関と関係するアルヒは微かに眉を顰めた。
「各地で条約に抵触しない形で保管されていたエリジウムの暴走事件が同時多発的に起きていて、その対応に苦慮している」
「当事国であるロシアも各地に点在する秘匿されたエリジウム貯蔵施設の対応で手一杯で、アメリカ人の救出作戦を実施する余力がない。これは主権に関わる重要な問題で一般的な解決策ではないが、妥協案としてロシアは自国内でのオペレーションの実行を黙認する」
さて、ここからが本題だが。
ジョエルは芝居がかった風で美空の瞳をまじまじと見つめると、まるで歌い上げるかのようにして言う。
「この作戦の参加に対する対価は、きみが“金剛のエスト”を結果的に占有していることを追認する。軍はきみを摘発しないし、必要とあれば大統領令できみを恩赦する用意すらある」
はたして、ウラルスタンの英国施設でのジョアンナの読み通り、アメリカは美空に対して取引を持ち掛けてきた。
美空は自身を叱咤して、相手の発言を脳裏に刻み込むようにして耳を澄ませた。
「悪い条件じゃないだろう? 世界で随一の超大国合衆国から一生追われることを考えれば、お釣りが出るくらいだ」
殺し文句を言い切って、どこか満足げな表情をジョエルは浮かべている。
これは交渉事で、これから譲歩して妥協点まで要求水準が下がったとしても、アメリカ側にはそれだけの余裕がある。そう言わんばかりの態度だ。
「なーにが『お釣りが出るくらいだ』よ」
今までだんまりを決め込んでいたジョアンナは肩を怒らせて、ふたりの男たちの前まで歩いてくると、次の瞬間にはジョエルの横顔を叩いた。
その鈍くて重い音に、人の横っ面を叩くとあんな音がするんだと美空は目を丸くする。
「美空の暗殺指令を出しておきながら、よくもぬけぬけと!」
叩かれて赤くなった頬に、ジョエルはそっと手を触れる。
怒るジョアンナに対して、一方的に怒鳴られその横っ面を叩かれたというのにジョエルはさして気にする風もない。
このくらいのアクシデントには慣れっこだという感じで、美空はジョエルに対する印象を改めた。
優男風であっても、決して軟ではない。整った顔立ちに浮かべる微笑みを額面通りに受け取ってはいけない。そんな手強い相手だ。美空の背筋が自然と張る。
「生憎、合衆国もまた一枚岩ではないんでね」
その言葉に反して、ジョエルの話し方には皮肉げな意味合いはなく、どこか淡々としていた。
「もちろん、この件に関しては許してくれだなんて言うつもりはないよ。ただ、国内には一年前の老原動乱終結の立役者、榛木美空の存在を疎ましく思っている人たちがペンタゴンやワシントン、軍部にも政治の中央にも大勢いるというわけだ」
ジョエルそう言いながら、まるで一芝居打つかのように大げさに肩を竦めてみせる。
「オペレーション・フューリーロード。まさかとは思いますが、米国側はわたくしの動向を監視していた、ということかしら?」
「別に、あなたを見張っていたわけではないけれども、同業他社の動向に注視するのは諜報活動においては至極当然の行為だ。榛木美空の動向は相模湾上空で途絶えていれど、その所在はウラルスタンに潜伏していた複数の資産がわれわれ諜報軍とCIAの双方に一報を入れていた。聖戦主義者の国際テロリスト集団、“ムスリム聖戦殉教旅団”は監視対象だったからね」
腕を組みながら冷ややかな視線を送るグラディスに、ジョエルは負い目も引け目も感じさせず平然と答える。
テウルギストをして「女狐」と評されたグラディス相手にも、ジョエルは一歩も引くことはない。譲歩と妥協、ハッタリと牽制。まさに狐と狸の化かし合いといった趣だ。
「あんたは、自分が誰に何を言っているのか、本当にわかってるんでしょうね!?」
「理不尽な依頼だなとはぼくだって思っているさ。でも、これがぼくの仕事だ」
ジョアンナの激昂に対して、ジョエルは芝居がかった所作でそれを受け流す。自分の役割を演じ切る役者のようだった。
「われわれ合衆国の本音としては、別にロシアが混沌に叩き込まれようと知ったことではない。林青霞の身の安全の件をダシに、ロシアを激しく追及することだってできる」
アメリカ人らしからぬ建前を排した言動に、今まで沈黙を保ち話の動向に耳を傾けていたアルヒがちらりと睨みをきかせた。
それでもジョエルは怯むことなく、むしろ胸を張って堂々と言い放つ。
「けれど、ここで米国が進退窮まったロシアを見捨てたという風に解釈されるのは、是が非でも避けたい。そうでなければ、老原翁以後の仮初の国際協調路線が名ばかりになってしまう。見捨てられたと感じたロシアが無秩序な軍備拡張競争に走るかもしれない。それだけは御免被りたいというのが、今のわれわれの率直な心境だ」
生々しい国際社会の現実政治に、美空は失望を感じないと言っては嘘になる。
林青霞の救出を依頼しておきながら、この期に及んでアメリカの本音は人命よりも国益を第一に掲げている。ある意味でそれを正直に表明してみせるジョエルは誠実であるとも言えるが、それはあまりにも現実的で現金な話だ。
「諸君、そこまでだ。米国軍の極秘作戦オペレーション・フューリーロードと榛木美空の暗殺指令に関しては、後日改めて話し合おう。ここでジョンストン少佐を吊し上げたところで、事態は好転しない。今は“チェリャビンスク六一”の件について、その詳細を詰めたい」
今まで黙り込んでいたアルヒ社長が皆をやんわりと制する。
緊張感が張り詰めた空気が少しだけ和らぎ、皆が肩の力を抜く。
ジョエルが手元のタブレット端末を操作して、美空に向けて提示する。
「こちらの精一杯の誠意の証として、ぼくの権限で辛うじて使用可能な状態のエリジウム鋼製兵装や補給物資は大急ぎでこちらに向かわせている。空輸できない大型の兵装に関しては、すでに話がまとまっているドイツからベルリン発の鉄道貨物から州内のズラトウースト駅に向けて積み荷が到着している。積み替えられ次第、こちらに向かう手はずになっている」
精一杯の誠意。
それを素人の美空が理解するのは難しいけれど、とりあえず美空は頷く。
「国際条約に違反した形で実質的に英米が保有していたエリジウム鋼製兵器が本作戦で結果的にはUNAEAの管理下に入ることになる。きみたちにとってはなんの慰めにもならないかもしれないが、世界は確実にいい方向へと向かっている。それだけは確かだ」
アルヒがさり気なく一言を添える。
「ありがとう、ジョンストン少佐、それにアルヒ社長。ここからはあたしたちだけの会議になるから、悪いけどお二方は席を外してちょうだい」
議題が全て上がったとみたジョアンナはそう言って、ふたりにこの場から離れるよう指示した。
「わかった。いい返事を期待しているよ」
余裕の微笑を浮かべて、ジョエルは離席する。
「その場しのぎの現実政治にうんざりしているとは思うが、この案件には多くの人の命がかかっている。諸君らの賢明な判断をわたしは待っている」
対するアルヒは美空の目をしっかりと真正面から見据えながら言う。
その大きな背中には、大きな責任を背負ってきた者だけが漂わせることができる、重みのようなものを感じさせた。
◆
「……本当に、ひどい人」
ジョエルとアルヒが部屋を後にして、美空とジョアンナ、グラディス、それにララティナの四人だけが残る。
「あんなに面の皮が厚い人を見るのは久しぶりですわ」
グラディスも小首を傾げてみせる。
「それで、今後のわたしたちの対応だけど……」
「美空、きみの使命は南極にある開いてしまった“時の門”を閉めることだ」
ジョアンナが言いかけて、不意に部屋の扉が開かれる。
そこから現れたのは横浜の墓地で美空が出会った男。“幽冥のエレボス”の操縦手にして“使用者”。
「……“虚ろな男”、いつの間に」
「そんなことはどうでもいい。それよりも、美空。“時の門”を閉めることができるのは、内骨格に“神の骸”を用いた“金剛のエスト”を操り、そして“力の剣”を携えるきみにしかできない」
“虚ろな男”は静かに、だが明瞭に言いながら、美空に立ち向かうと視線をしっかりと合わせてくる。美空もまた、それに向き合う。
「美空、きみの使命を果たすんだ」
美空は返答に窮する。
自分にしかできないことをするべきだと思う。だけど、今美空には自分にしかできないことがふたつもある。
ロシアで科学者を救い出すこと、そして南極の“時の門”を閉じること。迫られて美空は押し黙ってしまう。
「今、国際条約に違反する形で保有されたエリジウム鋼が暴走している。だが、これはテウルギストの罠だ。全てのエリジウム鋼を独占する主たる狙いの他に、きみを南極へと向かわせないための策略だ」
黙ってしまう美空を見かねて、“虚ろな男”はまるで助け船を出すように優しく言う。
「もしも、米国が本当に林青霞の身柄をおさえたいと思っているのであれば、虎の子の有人FHD部隊を派遣すれば事足りるはずだ。それを、わざわざ美空に依頼するのは、なんらかの裏があってのこと。これはアメリカのちっぽけな国益から立案された、救助の体を取り繕ってロシアに恩を売る作戦だ。きみが責任を感じる必要はない」
「でもっ!?」
話の成り行きを察した美空は思わず声を荒げる。
対する“虚ろな男”は彼女を落ち着かせるような声音で口を開いた。
「わたしは林青霞を見捨てろ、などとは言っていない。だが、これは交渉で、それは一種のゲームだ。林青霞は取引材料、きみを釣るただの餌だ」
「だからって、見捨てろって言うの!?」
美空の叫びに、“虚ろな男”は口を噤む。
「美空が責任を感じることないでしょ。だって、これは自業自得なんだから。各国が条約をきちんと守って、エリジウム鋼を使用者の管理下に置いていれば、こんなことにはならなかった。ロシア人たちは世界を欺いた報いを今、受けている。それだけのことよ」
ジョアンナは至極真っ当な言葉を放つ。
それはある意味では正論だ。
だが、その正論に一度乗ってしまえば、多くの人々を危険に晒すことに繋がる。一年前の横浜の破壊された街並みが、美空の脳裏に浮かび上がった。
「でも、関係のない人の命が。ZATO、この近く」
美空の気持ちを代弁するかのように、今まで押し黙っていたララティナが発言する。
「……今なら、間に合う」
彼女の意志は強く、そして何よりも固い。
「でも、美空さん。米国の思惑で、縁もゆかりもない科学者とロシア人を助けたところで一体なんになるのかしら? 大目的を見失ってはなりませんわ。万が一にもここで美空さんが敗れたとき、一体誰がテウルギストの野望を止められるというの?」
グラディスの指摘に、美空は反論できない。
テウルギストの大いなる野望。
米軍が歴史的な大敗を期した今、それを止めることのできる勢力は事実上存在しない。
それも、“アルティメイタム”を有し、自身もまた英国製の最新鋭FHD“白金のサージスト”を駆り、一年前の老原動乱で“クラスト”を撃退した使用者であるテウルギスト。
テウルギストを止められるのは、美空しかいない。
「そうよ。現実的に考えて、たとえ美空のかわりに“虚ろな男”がテウルギストを討ったとしても、“時の門”が開いたままじゃ……。人が入れないってことは、逆説的にエリジニアンならいくらでも入れるってことでしょ? 誰かがこれからずっと門番を勤め続けるだなんて、非現実的すぎる」
ちらりと“虚ろな男”に意味深な視線を送ってから、ジョアンナは美空に向けて落ち着いた口調で言う。
「美空さん、ここは苦しいところだけれど……」
「美空、あなたの決断が必要よ」
“虚ろな男”、ジョアンナとグラディスの言葉は正論だ。
話の成り行きを心配してか、ララティナが物凄い形相で睨む。
言葉にこそしてはいないが、ララティナはロシアの人々を見捨てるのか。そう美空に問いかけているのは自明のことだった。
だから、美空はララティナの視線に答えるようにして頷く。
そして、ジョアンナ、グラディス、“虚ろな男”に向けて宣言するようにして言う。
「……わたしには、見捨てられないよ」
「ちょっと、美空!?」
美空の答えを薄々察していた“虚ろな男”とグラディスはともかく、ジョアンナは自分自身を堪え切れずに大きな声を出す。
「正気なの? もちろん、あなたの決断は倫理的には正しいとは思うけれど。テウルギストにあんなことを言われたからって、だからって……あなたが正義の味方のような振舞いをわざわざしなくたって」
「正しさと強さは両立するとは限らない。でも、あたしとオデッサ、“金剛のエスト”なら……。だから」
美空は浅く息を吐き出すと、皆に向かって宣言するかのようにして言葉を放つ。
「みんなが笑うために、わたしがすべきことはたったひとつだよ。ちゃっちゃとこの街の人たちを救って、さっさと開いた“門”を閉めにいく」
美空の答えに、ジョアンナは呆れが半分諦めが半分といった感じで絶句している。
グラディスは「あなたはそういう人よね」と言いたげな表情で佇んでいる。
“虚ろな男”は黙っている。もう自分が何かを言う必要性はないと思っているようだ。
そして、ララティナは細くて長い眉を勇ましく釣り上げて、美空に向かって強く頷いていた。
「そんな……。それに、美空はともかく、ララティナ。あなたはそれでいいの?」
「あたし、巫女。困ってる人、助ける。それが使命。助けて、すぐに南極大陸へ」
最後の悪あがきといった感じで、ジョアンナはララティナに訊く。だが、ララティナにはもはや迷いはないようで、ジョアンナは少しだけ肩を落とした。
「わたしの選択には一点の迷いもありません。そう、これこそが正義。わたしの信じる正しさの形だ」
扉の向こうで、ジョエルはほくそ笑みながら顎に手をやり、アルヒは利き手の拳に渾身の力を込め強く握り締めた。
鋭意制作中ですが、次話の公開は未定です(泣)




