養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁に故郷を案内する
日の出前に目覚めてしまうのは、職業病だろう。
旅行中だというのに、仕事をするために意識が自然と覚醒してしまったようだ。
もう少し眠ろう。今日は朝から働かなくてもいいのだから。
それから二時間後――。
「ハッ、蜜蜂に餌をあげないと!!」
叫びと共に、再び目を覚ます。外はすっかり明るくなっていた。
隣でスヤスヤ眠るアニャに気づくと、ホッと安堵のため息が零れる。
久しぶりに、実家の養蜂園で働く夢をみた。
母に息つく間もなくあれこれ命令され、義姉達に仕事を急かされ、兄達に身なりが汚いと怒鳴られる。
これまでごくごく当たり前にあった日常だった。
夢にみてしまった理由は、ここが故郷だからだろう。
昨晩、支配人から実家の蜂蜜の評判について耳にしてしまったので、強い印象が深層心理の中に残ってしまったのかもしれない。
アニャの寝顔を見ていると、嫌な夢をみて荒んだ心が癒やされていく。
ここでもうひと眠りできたらよかったのだが、すっかり目は覚めてしまった。
仕方がないので、着替えて歯を磨くことにする。
それから一時間後に、アニャは目覚めた。
ぐっすり眠れたようで、何よりである。
「イヴァン、どう?」
ワンピース姿で現れたアニャが、くるりと一回転する。
菫色のワンピースは、マクシミリニャンが以前買ってきた一着だったらしい。
肩の袖はふっくら膨らんでいて、袖口には小花のレースがあしらわれている。襟にはリボンが結ばれていて、腰周りはきゅっと絞られている。ふんわりと膨らんだスカートは、花の蕾のようだった。
小柄なアニャによく似合う、可憐な一着である。
「お父様がこのワンピースを誕生日にくれたのは、一年前だったかしら? こんなきれいな服、普段着になんてできないから、ずっとしまっていたのよね」
「そうだったんだ。すごく、似合っているよ。可愛い」
「ありがとう」
アニャは頬を赤く染めつつ、スカートの裾を摘まんで軽やかなステップを踏んでいる。
春の妖精のようだと思った。
食堂で朝食を食べたあと、街の散策を始めた。
湖畔の街の観光シーズンは夏から秋にかけて。冬は寒いので、人もまばらだ。
俺個人としては、ゆっくりのんびり過ごせるのではないかと思っている。
「大きな街ねえ。朝なのに、こんなに人が歩いているなんて」
「観光地だからね。これでも、少ないほうなんだよ」
隣国の帝政が廃止されてから、観光客はぐっと減ったように思える。
政治に不満があったから、人々は皇帝を玉座から引きずり下ろした。その結果、世の中がよくなるとは限らない。
まだ、皇帝陛下がいた頃のほうがよかった、なんて言う人達だっているくらいだ。
力のある者が、力なき者から搾取して世の中を回す。その仕組みは、どうあがいても変わらない。
「イヴァン、どうかしたの?」
「あ――ごめん。故郷に戻ってきたからか、いろいろ感傷的になってしまって」
「そう」
アニャは心配するわけでもなく、詳しい話を聞こうとするわけでもなく、サラッと流す。
今は旅行中だ。暗い話をするつもりはない。
きっとアニャはわかっていて、適当にあしらったのだろう。
彼女のこういうサッパリとしたところが、たまらなく好きだと改めて思った。
街を歩きながら案内していたら、ミハルの実家である雑貨店にたどり着いた。
三階建てで、一階が商店と倉庫、二階と三階が住居となっている。
「あ、ここ、ミハルの実家」
「まあ、こんな大きなお店だったのね!」
「街で一番目か二番目かに大きな店なんだって」
まだ朝なので、当然営業時間ではない。食べ物を売る店は比較的早く開いているが、雑貨店は昼過ぎくらいから開くのだ。
「三階の端が、ミハルの部屋――」
指差した瞬間、窓が開いた。ひょっこり顔を覗かせたのは、ミハルである。
「あー、イヴァンじゃん!!」
「おはよう、ミハル」
「おはよう! ちょっと待ってろ。そっちに行くから」
ドタバタと、賑やかな様子が外にいても聞こえる。
大慌てで身なりを整えているのだろう。
五分後、ミハルは出てきた。
「イヴァン、よく来たな!!」
「うん。っていうか、よく気づいたね」
「今日くるって言っていただろう? イヴァンがその辺歩いているんじゃないかって、何回か覗き込んでいたんだ」
「そうだったんだ」
握手を交わし、背中をバンバンたたき合う。
前回会ってからさほど経っていないが、それでも元気そうでホッとした。
ミハルはアニャにも、挨拶をする。
「ようこそ、湖畔の街へ! 楽しんでいる?」
「もちろん」
今のシーズンは手漕ぎボートの順番待ちをしなくてもいいのでオススメだと、ミハルはアニャに観光の秘訣を語っていた。
「あと、クリームケーキ! おいしいから、絶対食べて」
「イヴァンもクリームケーキを勧めていたから、楽しみにしているわ」
ミハルはこれから、配達らしい。あとでゆっくり話そうと約束し、別れた。
「さて、そろそろ湖のほうに行きますか」
「ええ!」




