養蜂家の青年は、戦々恐々とする
「おい、アニャ!!」
カーチャは得意の(?)腹式呼吸でアニャの名を叫んだ。
大股でズンズンと接近し、俺たちをはだかるようにして立つ。
「カーチャ、何?」
「こ、こいつに、酷いこと、されてないか?」
「バカなことを言わないでちょうだい。イヴァンは世界一優しくって、働き者で、すてきな夫なんだから」
アニャの惚気話を聞いたカーチャは、衝撃を受けた表情を浮かべる。若干、涙目でもあった。
アニャが不幸な結婚生活を送っていないか、心配で声をかけてきたのだろう。それなのに、逆に良好な夫婦関係を聞くハメとなった。
「いや、アニャ。お前は騙されているんだ」
「イヴァンが何を騙しているっていうの? 言ってみなさいよ」
「そ、それは……。み、見たんだ! こいつが、染め物屋の婆さんを拐かしているところを!」
「染め物屋って、ツヴェート様のこと?」
「そうだ! 朝も早い時間に、婆さんを背負って、こそこそ山のほうに登っていたのを見たんだよ。まさか、婆さん、お前の家にいないのか?」
「いるに決まっているでしょう。ツヴェート様は、自らの意思でいらっしゃったのよ。それに、ツヴェート様をうちまで背負っていたのは、イヴァンではなくて、お父様なんだから」
「親父さん……だったのか?」
「ええ、そうよ」
まさか、ツヴェート様を誘拐してきたと思い込んだ上に、マクシミリニャンと俺を見間違えていたとは。奇跡的な思い違いだろう。
目撃してから今日まで、さぞかしヤキモキしていたに違いない。一応、謝罪しておく。
「カーチャ、なんていうか、ごめんね」
「な、なんでお前が謝るんだよ。それに、俺の名を呼ぶな!」
カーチャが叫んだ瞬間、アニャが飛びかかって行こうとしたので、咄嗟に抱き止める。
アニャ、落ち着け、落ち着けと背中を優しく撫でた。
話が終わったのであれば立ち去ればいいものの、カーチャは呆然とした様子でその場に立っている。
「じ、じゃあ、俺たちは、これで」
「おい、待て」
まだ、話がある様子だ。馬車の時間となってしまうので、なるべく手短に話してほしい。
「アニャ、お前は本当に、幸せなんだな?」
「ええ、幸せよ」
「その男で、妥協しているのではなく?」
「妥協なんかしていないわ。イヴァンは、私の大切な男性なのよ! これ以上、イヴァンについて失礼なことを言ったら、絶対に許さない。一生、口も聞かないから」
煙玉の使いどころはここなのか?
しかし、あれはうちの兄達に使うための最終兵器で、カーチャに使ってはいけない気がした。
どうやらカーチャは、アニャに未練があるようだ。
ここで、きっちり話をしたほうがいいだろう。
カーチャの腕を掴み、アニャから少し離れる。
「イヴァン?」
「ごめん、アニャ。ちょっと待っていて。彼と少しだけ話をするから」
「おい、お前、なんのつもりだよ」
カーチャに接近し、小声で話しかけた。
「ねえ、カーチャ。君がアニャに対してどう思っているか、今、きちんと言ったほうがいい。でないと、一生引きずるから」
「は、お前、言っている意味がわかるのか?」
「わかるよ。今、言わないと、カーチャはずっとアニャに絡み続けるだろうから」
「いいのか? もしかしたら」
「アニャが君を選ぶかもしれないって、思っているの?」
「そ、そうだよ」
そんなわけあるか! 盛大に振られてこい。なんて言葉が思い浮かんだが、ごくんと呑み込んだ。
ヤケクソな気持ちで、カーチャの背中を押す。
アニャの元に戻ったカーチャは、赤面しながら想いを告げていた。
「何よ?」
「ずっと、言えなかったんだけれど、俺、お前のことが……好き、なんだ」
アニャは口をぽかーんと開き、目を丸くしていた。
ずっと、カーチャはアニャのことが好きなんだよ、と言っていたのに信じていなかったようだ。
「あなた、好きな相手に、あんな生意気で嫌な言葉をぶつけていたの?」
「いや、それは、照れ隠しというか、愛情の裏返しというか、なんというか」
「照れ隠し!? 愛情の裏返し!?」
カーチャの愛の形は、歪んでいる。本人は、それに気づいていないようだ。
一応、彼が変な行動や言動に出たら、迷わず煙玉に火を点けて投げる予定だ。
アニャを傷つける奴は、誰であろうと容赦しない。
「そうだったのね。まったく、気づかなかったわ」
「だろうと思っていた。結婚したって聞いたときは、ショックだった。でも、教会で誓い合っていないって聞いたから――」
「ごめんなさい。あなたの想いには、応えられないわ」
「ど、どうして?」
「あなたの言葉は、私の心を深く傷つけたの。結婚していなくても、お断りしていたと思うわ」
「傷つけた?」
「ええ。幼いとか、嫁ぎ遅れとか、そういう何気ない言葉をぶつけられると、悲しかった」
「どうして、言わないんだよ」
「自分が言われて嫌な言葉は、他人に向かって口にしないのが普通なのよ。わざわざ言うほどのものではないわ」
アニャはカーチャを見かけるたびに、言われた言葉を思い出して傷ついていたという。
悪い言葉のほうが、深い傷となって残ってしまうのだ。
カーチャは泣きそうな表情でアニャを見つめ――謝罪した。
「悪かった。そんなふうに思っていたとは、まったく想像もできていなかった」
「いいわ、許してあげる。けれど、もう二度と、これまでみたいに高圧的な態度で絡んでこないで」
「わ、わかった」
アニャがこちらを見て、来いと指示を出す。急ぎ足でアニャの隣に並んだ。
「ただ、挨拶をするだけとか、うちの蜂蜜を買いたいとか、そういう話だったら、別に構わないわ」
「アニャ……! ありがとう」
カーチャは深く深く頭を下げる。
わかってくれてよかったと、ホッと胸をなで下ろした。




