養蜂家の青年は、いじめっこと対峙する
「なんなのと聞かれても、アニャの夫だと答えるしかないけれど」
「はあ!?」
見事な腹式呼吸を使った「はあ!?」であった。羨ましいくらい、声がよく通る。
「お前、どこのどいつだよ」
「湖畔の町の養蜂家だけれど」
「ああ、混ざりもんの蜂蜜を作っている町の奴らか」
その発言に、カチンとくる。
たしかに、実家の蜂蜜は純度百パーセントではない。それには理由があって、冬の間は花の蜜が取れないので、人工的に作った糖液や代用花粉を与えるのだ。
花が咲いていない時季は、どうしても蜜不足になる。放っておいたら蜜蜂は新天地を探すために出て行ってしまう。引き留めるためにも、人間が与える餌は絶対に必要なのだ。
そもそも、だ。花畑養蜂園で作っている蜂蜜は、偽物ではない。
市場に流通する蜂蜜には二種類ある。
一種類目は、蜜蜂が集めた蜜のみで作った“蜂蜜”。
二種類目は、蜜蜂の集めた蜜に糖を混ぜた“加糖蜂蜜”。
アニャとマクシミリニャンが作っているのは前者、純粋な蜂蜜だ。
一方で、実家の花畑養蜂園で作っているのは後者、加糖蜂蜜である。
ただ、それを隠して売っているわけではなく、きちんと表示して販売している。消費者側も、わかって買っているのだ。
「おい、アニャ。お前、騙されて結婚したんじゃないのか? 偽物を作る養蜂家なんかと結婚して」
「何を言っているの? イヴァンの作る蜂蜜は、偽物なんかじゃないわ」
「お前、“蜂蜜”と、“加糖蜂蜜”の違いもわからないのかよ」
「わかるに決まっているじゃない。イヴァンの実家で作られた蜂蜜は、とってもおいしいの」
「だから、うまい、まずいの問題じゃないっての。湖畔の町の蜂蜜は偽物で、騙されているって言っているんだ」
「あのね、植物が豊富な山での養蜂と、人工的に花畑を作った町の養蜂とは、育てている環境がまったく違うの。同じように作るのは、難しいのよ」
比べるのは間違っていると、アニャはカーチャに向かって説く。
「そもそも、だ。なんでお前は、湖畔の町の男なんかと結婚したんだよ」
「蕎麦の種が、結んでくれた縁よ」
「お前、何を言っているんだ?」
「知らないの? 新天地で蕎麦の種を植えて、三日以内に芽吹いたら、そこはその人の居場所だと」
「知るわけないだろうが」
カーチャの口はいっこうに減らず、やれ眠そうな男だとか、不誠実そうに見えるとか、怠け者に決まっているとか、あれこれ想像で言ってくれる。
逆に、初対面の人間に対して、ここまで悪口を言えるのは才能だと思った。普通、本人を前にしたら、言えるものではないだろう。
「もう、話すことはないわ。さようなら」
去ろうとしたアニャの腕を、カーチャは掴もうとした。その瞬間に、伸ばした手を叩き落とす。
「痛ッ!! お、お前、何するんだよ」
「それはこっちの台詞。他人の妻に触ろうとするなんて、失礼としか言いようがない」
カッとなったカーチャは開いているほうの手で拳を作り、振りかぶってきた。
大人しく殴られるつもりはない。素早く足払いする。
「どわー!!」
カーチャは姿勢を崩し、倒れ込んだ。
「ちょっと、あんた達、何をしているんだ!!」
先ほどお邪魔した家の奥さんが、走ってやってくる。
どうやら、カーチャの親戚のおばさんだったらしい。
「こいつが、いきなり足払いをしてきたんだよ」
「違うわ! 先に、カーチャがイヴァンに殴りかかろうとしたのよ!」
奥さんは呆れたように、カーチャに「あんた、何してんだよ」と言う。
「だってこいつ、アニャを騙して結婚したんだ」
「だから、騙していないって」
「そうよ! 私が望んで、結婚してもらったの!」
アニャの言葉に、カーチャは目を丸くする。よほど、衝撃的だったのだろう。
「な、なんで、アニャはそいつと、結婚したんだ?」
「なんでって、イヴァンは、私が大事に思っているものを、大切にしてくれるからよ。それだけ」
カーチャは返す言葉が見つからないのか、口をパクパクとさせるばかりであった。
もう、これ以上話すことはないだろう。
奥さんに会釈し、この場を去った。
人気がない、ボーヒン湖のほとりまでやってきて、腰を下ろす。
湖畔の町で育ったからだろうか。湖を見ていると、心が落ち着く。
気まずそうな表情を浮かべるアニャの背中をポンポンと叩いたら、それがきっかけになったのか話し始める。
「イヴァン、カーチャが失礼なことを言って、ごめんなさい」
「なんでアニャが謝るの?」
「私の知り合いだから」
「アニャが謝る必要なんて、まったくないよ」
アニャはコクリと頷くが、表情は暗いまま。
手元にあった石を握り、立ち上がる。
足を広げて姿勢を低くし、狙いを定めて石を湖に向かって投げた。
すると、石は水面を弾き、ポン、ポン、ポンとカエルのように跳ねていく。
石は六回ほど跳ねて、ぽちゃんと湖の中へ沈んでいった。
「え、イヴァン、今の何? 魔法?」
「水切り――魔法だよ」
「私もやってみたい」
アニャの顔はパーッと明るくなる。
やっぱり、アニャは笑っているほうがいい。
いつも彼女が笑顔でいられるようにしなくては。
アニャに水切りを伝授しつつ、思ったのだった。




