番外編 アニャのひとりごと
物心ついたときから、私の家族は父と祖父だけだった。
母親という存在は、村で知った。
幼い私は母がいない疑問を、父にぶつけたことがあったらしい。そのとき、父は「お母様は死んだから、天国にいるのだ」と包み隠さずに教えてくれた。
死の意味を理解したのは、祖父が亡くなってから。
人は誰しも死を迎え、天国へと旅立つ。
会ったことのない母も、そこにいるのだ。
ずっとずっと長い間、私は父とふたり暮らしだった。
村の人は、いつか山暮らしを止めて下りてくるんだろう? なんて聞いてくる。
父も、そのほうが暮らしやすいのならば、そうしたほうがよいと語っていた。
十歳を超えたくらいから、山で暮らすのは大変だと思われていることに気づく。
けれども、私の中で山で暮らす以外の暮らしは考えられなかった。
山での暮らしが、私にとっての普通だったから。
父も同じような考えを持っていたのだろう。
麓の村から我が家まで、片道八時間。
そんな家に婿入りしてくる男性なんていないだろう。
だから、私はいずれここで独りで暮らすものだと思っていた。
寂しくはない。
山には蜜蜂たちがいるから。
私の人生は蜜蜂とともにある。これからもずっと、彼らとともに歩む暮らしは続くだろう。
十四を過ぎた頃、ツヴェート様から問いかけられる。そろそろ月のものはきたのかと。
女性は子どもを産むために、思春期を迎えた辺りから体の仕組みが変わる。
話に聞いていた症状は、まったく訪れなかった。
それが何年も続くと、不安になる。
十七歳の春にツヴェート様に相談を持ちかけた。
村に医者がやってくる日に山を下り、診察についてきてもらったのだ。
結果、体は異常なし。健康そのもの。
けれども、今後月のものはこないだろうという診断だった。
健康だと聞いて、ホッと胸をなで下ろす。
何かの病気でなくてよかった。父を遺して先に死んでしまうのではないかと、不安だったのだ。
月のものがこないとわかってから、結婚はますます遠退いた――ように思ったが、想定外の大事件が起こった。
父が婿入りしてくれる男性を、突然連れてきたのだ。
私に月のものがないと知っているのに、婿入りしてくれる風変わりな男性の名はイヴァン。
のんびりしていて、どこかつかみどころのない人だった。
村の男性はどこか高圧的で偉そうだった。その意識に年齢は関係ない。
けれども彼は偉ぶった様子はなく、春の風のように暖かくて優しかった。
イヴァンともっと一緒にいたい。夫婦という関係でなくてもいいから……。
なんて願う瞬間があったが、私達は晴れて夫婦となった。
それからというもの、毎日楽しくて、幸せだった。
ただ、彼をここに縛り付けていいものか不安になる。
働き者で、優しくて、父を大事にしてくれる。こんなできた人なんて、世界中探しても彼以外いないだろう。
私のせいでイヴァンは自分の子を得ることができない。
その事実はとてつもなく不幸なのではと思ってしまった。
いつか、イヴァンを解放しなくてはいけない。
彼が山の暮らしに嫌気が差したら、すぐにでも縁を切る必要がある。
だから、神様の前で結婚することを誓わなかった。
長くなっても、父が死ぬまでだろう。
そういうふうに考えていたものの、イヴァンはそうではなかった。
私を生涯、たったひとりの妻にしたいと望んでくれた。
本当に私でいいのか。
イヴァンの人生を奪っているのではないか。
そう思っていたが、イヴァンは今、幸せだと話してくれた。
イヴァンは結婚は他人同士が家族になる奇跡だと言う。
これからも夫婦でいてほしいと乞われ、私は涙を流しながら頷いた。
私は今、満たされた日々を送っている。
幸せをもたらしてくれたイヴァンには、感謝しかない。




