03 熱燗
俺たちが目玉焼きを食べていると、ポツリポツリと雨が降ってきた。
それはすぐに土砂降りへと変わり、まるで街が丸ごと滝に飲み込まれたような景色になる。
「あら……これじゃ、今日はお客さん、来ないかもしれないわね」
エレミアさんは頬に手を当て、困り顔で言う。
「確かに、こんな雨の中、わざわざ飲みに来てくれる人はいないかも……それどころか、私たちも家に帰れないじゃないの」
ハルカも外を眺め、不満げな声を上げた。
「さっきまでは晴れてたんだけどな……こんなことなら傘を持ってくれば良かった。けど逆に、雨宿りしに来るお客さんもいるんじゃないか?」
それに、急に降ってきた雨は、急にやむかもしれない。
というわけで、俺はハルカのメイド服を堪能しつつ、雨がやむまで酒を飲むことにした。
幸いにも店は貸し切り状態――と油断していたら、大雨の中、一人の男がオールドマザーに入ってきた。
「ずぶ濡れで申し訳ありません。店はもう開いていますか?」
まだ若い男だった。俺よりは年上だろうが、それでも二十代半ばくらいだ。
「ええ。開いてるわ。けど椅子に座る前にコートを脱いだほうがいいわね。風邪を引くわ」
「ああ、助かります。急に雨に降られて、どこか雨宿りできる場所を探していたんですよ。この店の前は何度か通ったことがあるのですが、これを機会に入ってみようかと思いまして」
「あらまあ。じゃあ大雨のおかげで常連さんが一人増えるかもしれないわね」
そう言いながら、エレミアさんは彼のコートを脱がせる。
すると彼はコートの下で、平べったい鞄を大事そうに抱えていた。
「その鞄、随分と大切なものが入っているのね」
「ええ、まあ……とはいえ、普通の人にとっては無価値なものですけど」
彼は鞄を開け、中身をカウンターの上に並べた。
それは十数枚の紙であった。
ただし植物繊維から作られたものではなく、いわゆる羊皮紙である。
まだ何も書かれていない、まっさらな状態だ。
重要な書類ならば雨に濡れないよう気をつけるのも分かるが、どうして彼は白紙のこれを後生大事に抱えていたのだろうか。
少々興味をそそられる。
「ふぅ……よかった。僕はずぶ濡れだけど、紙は無事です。この紙がないと、次の仕事がパアになりますからね」
彼は紙の状態を確認し、ホッと安堵の息を吐いて、また鞄にしまった。
「紙を使った仕事か。差し支えなかったら、どんな仕事か教えてくれないか? 一杯奢るぜ」
「構いませんよ。そんなことで奢ってもらえるなら、いくらでも語りましょう。実はですね、僕の職業は代筆屋なんですよ」
彼はエレミアさんからタオルを受け取り、頭を拭きながらカウンターの椅子に腰を下ろした。
「……ああ、なるほど。それで紙か」
代筆というのは、読んで字の如く、本人に代わって手紙や文章を書くことだ。
それを職業として行なっているのが代筆屋である。
この世界の教育水準は日本に比べるとまだ低く、字を読めるが書くことはできないという人が沢山いる。
そういった人々がいる限り、代筆屋は食いっぱぐれることはないだろう。
また字の読み書きができても、自分の気持ちを上手く文章にできないという者もいる。
これもまた代筆屋の出番だ。
代筆屋は依頼主の想いを聞き、それを美しい文体で手紙に書き留める。
「代筆屋さんって、ラブレターとかも書くの!?」
ハルカは女子だけあって、そちらに興味があるらしい。
カウンターの向こうから目を輝かせて代筆屋に問いかけた。
「ええ、依頼があれば書きますよ。店員さんは誰かラブレターを送りたい人がいるんですか?」
「え、いや、私はそんな、今更ラブレターなんて……」
問い返されたハルカは、赤くなってモジモジしつつ、俺のほうをチラチラ見てきた。
「まあ確かに、今更ラブレターに書かなくても、お互いの気持ちは分かってるからなぁ。仮にもらうにしても、ハルカが自分で書いたものが欲しいぜ」
「わ、私も、どうせならツカサが書いたのが欲しいかな……」
うむ。
やはり俺たちは一心同体だ。
代筆屋は無用である。
「なるほど。僕の出番はなさそうですね。実際、愛の告白くらい自分の言葉でやるべきだと僕も想います。しかし手紙はラブレターだけとは限りませんから。たとえば貴族同士でやり取りする場合、格調の高い文章が好まれますが、自分では書けないという方から依頼が来ます。あと書類を丁寧な字で作りたいというときに呼ばれたりもします。そして、そういった以来の場合、紙も上等なものを使わないと格好がつかないのです」
そう言って代筆屋は鞄をポンと叩いた。
「その羊皮紙は高価なものなのか?」
「はい。商人ギルドに仕入れてもらったんです」
「そうか……俺なんかじゃ、見てもサッパリ分からなかった」
「まあ、そうでしょうね。しかし分かる人は分かります。だから〝普通の人にとっては無価値〟なんですよ」
「なるほどなぁ」
今まで俺は代筆というものを深く考えたことがなかったが、色々と気を使う仕事のようだ。
「ところで、ビールをもらっていいですか? それと、この店はどんな料理が……はっくしょん!」
代筆屋は注文をしている最中、盛大なクシャミをした。
雨に濡れたせいで体が冷えてしまったのだろう。
このままでは風邪を引くかもしれない。
「大丈夫か? 今はビールよりも、体が温まる酒のほうがいいと思うぜ」
「体が温まる酒? そんなものがあるのですか?」
「ああ、あるんだよ。エレミアさん。熱燗を二つくれ」
日本酒はその温度によって目まぐるしく味が変わる飲み物だ。
そして温めた日本酒はどれも『熱燗』と呼ばれることが多いが、この呼び方は実のところ正確ではない。
温めた日本酒の総称は『燗』であり、35度の『ぬる燗』や40度の『一肌燗』など、温度によって名前が変わる。熱燗とはその中でも50度程度のものを指す。
雨で体が冷えた代筆屋には、熱燗がぴったりだろう。
「はーい、ちょっと待っててね」
エレミアさんは徳利に俺たちの造った日本酒『楽桜』を入れ、それを鍋で沸かした熱湯に浸す。
そして待つこと三分ほど。
「はい、どうぞ。熱燗ってこのくらいの温度でしょ?」
エレミアさんは徳利の温度を手で確かめ、俺の前に置く。
それからお猪口を二つ。
俺はそれに熱燗を注ぎ、一つを代筆屋の前に置いた。
「これが熱燗ですか……無色透明なのに、鼻に近づけなくてもフルーティーな香りが漂ってきますね」
日本酒は温めると香りが広がりやすくなる。
楽桜は元から香りが強いので、熱燗にすると正直、料理のお供には適さない。料理の香りを殺してしまうのだ。
しかし、こうして酒だけで一杯やる分には、最高の酒と言えるだろう。
「冷める前に飲んでみてくれ。体が温まるぞ」
「分かりました。それでは」
代筆屋はお猪口を軽く舐めるように口に付ける。
すると彼は目を丸くし、次の瞬間にはグイッと一気に飲み干した。
「これは……こんな美味しいお酒があるとは知りませんでした。口の中で軽やかな甘みが広がって、ほどよい酸味もある。おまけに体が温まる。もう一杯飲んでも?」
「ああ、いくらでもどうぞ」
俺は代筆屋のお猪口に熱燗を注ぐ。
二杯目もすぐに空になってしまった。
酒造家として、こんなに嬉しいことはない。
「おかげで風邪を引かずに済みそうです。こんなに美味しい酒を出すのですから、料理もさぞ素晴らしいのでしょうね」
「まあ。それってこの店に対する挑戦状? いいわよ、何を作ろうかしら」
エレミアさんは微笑み、思案げに指を口元にあてた。
しかし、今日はせっかく味噌と醤油があるのだ。
既存のメニューではなく、日本の料理がいいだろう。
「エレミアさん。今日のところはハルカにやらせてくれませんか?」
「あら、自信ありげね。そこまで言うなら、任せるわ」
「というわけだハルカ。せっかく醤油と味噌があるんだから、肉じゃがと味噌汁を作ってくれよ。俺も食べるから二人分な」




