もっと楽に生きればいい
黒井 新です。
ヒューマンドラマです。
放課後の教室に残ったのは、私と担任の佐伯先生だけだった。
「最近、ちょっとしんどそうだよな」
先生は椅子にふんぞり返りながら言った。ワイシャツはしわくちゃで、ネクタイは昼前にはもう緩んでいるような人だ。私は、そんなだらしない大人が苦手だった。いや、正確に言えば、“ちゃんとやらない人”が嫌いだった。
「別に……普通です」
私は机の端を指先でなぞる。先生の緩い声が、どうにも耳ざわりだった。
「成績のこと、家でも言われてるのか?」
図星──。指が止まる。
「……まあ、はい」
「そっか。お母さん、厳しいんだろ?」
私は答えず、唇を噛んだ。
母は、私が幼い頃から“正しさ”を教えてきた。宿題を一問間違えれば雷が落ち、行儀が悪ければ叩かれた。『あなたはできる子なんだから』という言葉は、褒め言葉ではなく、私に課された義務だった。
だから私は期待に応えた。応え続けた。
だけど、二年生に上がってから成績は落ち始めた。覚える量も難易度も一気に跳ね上がったせいだと分かってはいたが、それでも私は“努力が足りないからだ”と自分を責め続けた。夜中三時まで机に向かっても成績は上がらず、残ったのは罪悪感と徒労感だけだった。
母の顔を見るたび、胸が痛む。
頑張っても足りない自分が嫌いだった。
「で、最近のテストのことだけどさ」
佐伯先生はプリントを二枚、私の前に並べた。
「こっちは一年のときの平均点。で、こっちは最近の点。なあ、どっちも十分頑張ってるって思わないか?」
「……思いません」
「そっか。でもさ――俺は思うよ。お前、めっちゃ頑張ってるって」
ふざけているのかと思った。だが、先生の目は意外と真面目だった。
「お前には『完璧にやらなきゃ』って空気がある。なあ──完璧ってそんなに大事か?」
「だ……大事です。完璧じゃなきゃ、正しい大人になれない。誰にも愛されず、幸せになれないんです!」
それは、母の言葉だった。
「本当に、そう思うのか?」
「……え?」
「それって、お前の本心?」
「あ……当たり前です!」
「じゃあ聞く。この世で成功した人間は、全く失敗してこなかったのか?」
胸の奥がぐらりと揺れた。
「世界のトップ選手だってそうだ。何でも完璧にこなしてきたわけじゃない」
私は答えられず、視線を落とした。先生は腕を組み、天井を仰ぐ。
「俺なんか、高校生の頃は赤点と追試の常連だったぞ。大学も二浪。就職もテキトー。教育実習で、たまたま教師って仕事が性に合うって気づいただけ」
ぽろっとこぼれるような口調だった。
「そんな人に……そんな人に、私の気持ちなんて……」
「わかるよ」
顔を上げると、先生は微笑んでいた。
「完璧じゃない自分を許せない苦しさは、俺にもあったからな」
その声は妙にやさしかった。
「でもな。二浪したとき、母親に言われたんだよ。『もう好きにしなさい。あんたが幸せならそれでいい』って。諦めもあったのかもしれない……。けれど、その言葉で俺は楽になったんだ……」
先生は照れくさそうに頬を掻く。
「今だって教頭に怒られるし、ミスも多い。でもまあ、生きてるし、こんな俺でも誰かの役に立てる日がある」
私は自分の手を見つめた。
――頑張ってきた手だ。ペンだこがある。
「お前は、誰のために完璧になりたいんだ?」
「……自分のため、だと思ってました。でも──」
言葉が喉でつかえた。
母は確かに厳しい。でもその裏に、私を守りたい気持ちがあったのだろう。母なりの“正しさ”。私は、それにすがり、理想の娘を演じていただけ──。
先生は立ち上がり、窓を開けた。冷たい風が教室に吹き込む。
「人生ってさ、意外とテキトーでもなんとかなるんだよ。もっと楽に生きればいい。お前、自分に厳しすぎるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。
ずっと背負ってきた重荷が、少しだけ軽くなる感覚。私は自分でも驚くほど深く息を吐いた。
「……先生、いい加減に見えて、実はちゃんとしてますよね」
「バレたか」
先生は笑った。
帰り道、空は夕焼けに染まっていた。
明日からすぐに変われるわけではない。でも、少しだけ歩き方を変えてみてもいいのかもしれない。
――もっと楽に生きればいい。
その言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。




