第五十四話 「I'll ne'er let you forgettin' me」
その日の午後。酉饗が、皺の深い老紳士とともに病室を訪れた。前に酉饗邸を訪れたときに見た、あの老紳士だ。俺は手に持っていた生地を枕の下に隠す。
「殿守部伴造と申します」
「どうも、白詰朔、です」
その独特で重厚な雰囲気に、思わず立ち上がってお辞儀する。酉饗は、慌てて俺を寝かせた。
「本当に、ありがとうな、白詰」
一息ついて、酉饗が言った。悪夢から醒めた直後のような、もやもやとした表情をしている。
「その後どうなんだ? 学校では」
「まだちょっと嫌がらせとかはあるけど」酉饗はへへ、と笑う。「その度鬼星人が半殺しにしてくれてる」
比喩じゃないな。
「茲竹が謝りに来たんだ」
案外すっきりとした顔で、酉饗は言った。「『ありがとう』って言ってたよ。なんでかは知らないけどさ。今は姉貴と一緒に、バイトに励んでるらしい。今度会いに行こうと思ってる」
酉饗はそれでいいのか?と聞こうかと思ったが、野暮なので、やめた。酉饗とデルの問題だしな。
「私は、白詰に感謝しないとな。茲竹をぶっ飛ばしてくれたんだろ? ありがとな」
酉饗は、すっかり元気になったようで、最初に会話したときに見せたあの男っぽい爽やかな笑顔を、見せてくれた。
そういえば、酉饗の髪が、前よりも長くなっていることに気付いた。それでいてボサボサではなく、整っている。髪型も少し変わってるし。もしかしたら、と思考する。これは、酉饗なりの意思表示なのかもしれない。『昔の自分とは違う自分になった』という、よくマンガなんかで失恋後の女子が髪を切る、アレだ。元々酉饗は短髪なので、伸ばすしかなかったのか。
まあ、推測の域を出ないが。
「それで、なんかお礼したいんだよ。なんか、私にできることはあるか?」
「え?」
俺は少し考える。「確か、酉饗の家って、航空会社だったよな」
「ああ」
「それなら、一つ頼みたいことがあるんだけど――」
頭の中に練った明日の計画。その完成に、酉饗の力を借りよう。
「病院でジェット機、飛ばせるか?」
◇◆◇◆
計画の詳細を伝えると、酉饗は快諾してくれた。殿守部さんは「手配して参ります」と言って、病室から出ていった。
「にしても、面白いこと考えるな、白詰は。私だったらそんなこと、思いつきもしないぜ」
酉饗は苦笑する。俺も、我ながらよくこんな発想になるものだと思う。普通にしてもいいのにな。
「そういえばさ、酉饗は、五位鷺さんに恋してたんだよな?」
生徒会長、陸上部トップの五位鷺醍醐さん。酉饗は、その人に恋していた。
「結局、どうしたんだ? というか、部活はどうしたんだ?」
「テニス部にしたんだ」
「ほぉ」
酉饗は、その長い脚を組み直す。「五位鷺さんの言う通り、私にはテニス部の方が合ってる気がしてさ。ま、なんとなくだけど」
「じゃ、五位鷺さんとはどうするんだ? 接点ねーだろ?」
「……生徒会副会長にでもなるかな」
「ぶほはっ!!」
思わず俺は吹き出す。「酉饗が副会長!? つーかそれ以前に生徒会とか、似合わねぇだろ!? ひーっ、ダメだっ! 想像しただけで……ひーっ!!」
「失礼すぎだろ!? 白詰ぇ! そこに直れ! 一発ぶん殴ってやらないと気が済まねぇ!」
「ぎゃー殺られルーっ! 酉饗津惟に殺されルーっ!」
その後俺はほっぺたをむにむにされ、頬の筋肉がひきつりかけたところで降参した。酉饗も俺も、終始笑っていたけど、酉饗の頬は少し赤くなっていた。
恋する酉饗、か。のどかで、いい響きだ。
◇◆◇◆
そして、計画実行の時。翌日、四月二十八日の午前十時。俺は、病院にある花畑のベンチに座っていた。傷はすっかり快復している。
「白詰くーんっ!」
後方から、とてちとてちという足音が聞こえ、聞きなれた声が近づいてくる。振り返ると、栞が手をぶんぶんと振りながら、走り寄ってきていた。相変わらず、歩幅は短い。
「俺のことは『朔』って呼んでくれ、って言っただろ? 栞」
俺の横に座った栞は、肩をふうふういわせている。その度に髪がぽふぽふと揺れる。
撫でたい。
撫でようか。
撫でていいのか?
むしろ撫でるべき。
うん、撫でよう。
俺は勇気を奮い、栞の頭へと手を伸ばす。あと少しで先っちょが触れる、というときに、栞がこっちを向いたので、思わず引っ込める。
「…もっかいいってくれなきゃやだ」
「うん?」
「『栞』って、もっかいいってくれたら、あたしも名前で呼ぶの」
唐突な要求だ。断る理由がない。それに、かわいい。何言ってんだ俺。
「しお――」
り、と言いかけて停止する。栞が、そのつぶらな瞳で俺を見つめている。
「ど、どうした?」
動揺を隠せない俺に対し、目をキラキラさせて栞は答える。「みてるの」
それは俺にだってわかる。というか、そんなに見られてたら、なんか、恥ずかしくなってきた。「みてるの」ってなんだべ。
「あとでおもいだせるように、みてるの」
瞬きを惜しむように、いつもよりすばやい瞬きを繰り出す栞は、やたらとかわいい。
「――好きだよ、栞」
栞の顔が紅潮するのと同時に、俺の頬も赤く染まった。面と向かって言うとクソ恥ずかしい。
「くっ――ほ、ほら、俺は言ったぞ!」
「くむっ!」
栞は妙な悲鳴を上げる。
「ビックリするからな! 想像以上に精神戦だからな!」
「うぅ〜……」
栞は頭を抱え、じっとした後、ふっと横を見た。向日葵、山茶花、クローバー、タンポポ、雛菊、など、不規則に、けれど美しく咲き誇る花が空へ手を伸ばしている。空には薄く延ばされた雲が、水の上の白葉のように浮かんでいる。一筋の飛行機雲は、白枝のようだ。
栞は少し顔を下に向けたまま、上目遣いで俺を見た。かわいくて思わず目を逸らしそうになる。その矛盾した葛藤を打ち負かし、俺は栞と目を合わせる。
「さく……だいすき」
「うぉぉぉぉぉおおおお!」
今までで一番強い鼓動が、俺の全身を叩き回り、震わせる。それは教会の鐘の音にも似ている。
俺、今まで生きててよかった。つーか、もう死んでいいよ、俺。一生分の幸福だろ、これ。
栞はぶぶぶぶんと頭を振り、「うああうあうあう」と唸っている。
って、いつまでもこうしてるわけにはいかない。計画を実行しないと。
「栞」
俺が呼ぶと、栞はぴたっと動きを止め、俺を見上げた。
「俺が今日、栞をここに呼んだのには、理由があるんだ」
「理由?」
「うん。栞、今日が何の日か、知ってるか?」
「……?」
栞は首を傾げている。「さくの退院の日?」と自信なさげに言う。
「それは明日だよ」
「じゃあ、う〜ん……」
「栞の誕生日だよ」
「ふぇっ!? ど、どうして……」
「バイトの面接のときに、栞が教えてくれたじゃないか。それでさ、俺、お金を使ってプレゼントを買ってやることはできないから、そのかわりにしたいことがあるんだ」
俺は、病院屋上で待機している酉饗たちにハンドサインを送る。『GO』だ。酉饗と来集と御簾川は、サインを認めると、視界からサッと姿を消した。
「したいこと……?」
幸いにも、栞は俺の不審な行動に気づくことはなかった。俺だけをみつめている。
「ああ。今にわかるよ」
そう言って俺は視線を空に上げる。栞も釣られて空を見る。
そこで栞は、異変に気付いた。
「あれ?」
空をゆっくりと伸びていた飛行機雲が、不自然に止まっていたのだ。古い端の方は、消えかけているが、新しい飛行機雲のほうが伸びるのをやめている。飛行機が空中で停止しているようにも見える。
「はれれっ」
よく見ると、飛行機が大きくなっている。一秒ごとに、少しずつ。
飛行機が空中停止し、巨大化している。それがあり得ないことだということは、記憶喪失の彼女にでも、さすがに理解できた。
「ええっ!」
違う。
巨大化ではない。
空中停止でもない。
その飛行機は――――
「こっちに来てるよぉぉぉおおっ!?」
――――マッハ6でこちらに向かってきていた。
コンマを刻むごとに、すさまじい勢いで巨大化していく飛行機。それほどの速度のものが落ちてくればどうなるか、オタンコナスでもわかる。
「さく! さく! うぇぇぇえん、死んじゃうよぉ!」
激しく泣きじゃくる栞。俺は腕を構え、立ち上がる。
ここで失敗したら、全てが水の泡だ。
必ず――受け止めてみせる!!
次回、最終回です。




