第三十七話 「不協和音」
「その帽子、似合っていますね」
五位鷺さんが私に話しかけてきた。
「何で帽子被ってるんだい?」と歹奈良さん。
「こっちの方が気分が乗るので」と私。
「被り心地が結構いいんですよ」と白詰くん。
「面白いねぇ二人とも。有田はそんなの被ってないのに。アイツも被ればいいのにな、そういうの。御簾川ちゃんが青で君が緑ってことは、戦隊ものみたいに色分けしてんのかぃ?」
「今のところは青、緑、ピンクだけですけど……ダリアさんなら赤ですかね」と白詰くん。有田先輩が赤なら、宇治川先輩は黄色ってとこかな。
「安直だな。でもそういうセンス、嫌いじゃないな、俺。というかそれだと有田がリーダーだな。イメージ湧かないな~、アイツが『太陽戦隊サンバルカン、参上!!』とかって言ってるとこ」
「サンバルカンは男三人ですよ?」
そんな風に雑談をしていると、どこかへと姿を消していた有田先輩が戻ってきた。深紅の髪が風に揺れる。
「どこに行っていたんだ、有田くん」
五位鷺さんがそう言うと、有田先輩は例の仕草、即ち、“目を閉じ”た。
「おっ、出た出た、謎の癖」と歹奈良さん。これ、癖だったのか。
「五位鷺さんに一つ聞きたいことがあります。いいですか」
「構わないよ」と五位鷺さん。私は、津惟がやってこないかどうか校門の方を見ながらも、耳だけはそちらの会話へ向けた。
「今、管理人室に行って確認してきました。五位鷺さん、一昨日の朝、朝練をするために鍵を借りましたよね」
「ああ」
「その時に、誰か妙な人を見ませんでしたか」
「妙な人?」
「五位鷺さんが鍵を借り出すほんの少し前に、別の人物が鍵を借りていました。その人物に心当たりはありませんか」
恐らくその別の人物というのは、津惟のことだろう。先輩はあの紙を見に行っていたのか。
「ああ、そう言えば、今から思い出してみれば、あの日は少しおかしかったですね。私が管理人室で鍵を借りようと思ったら、鍵が無かったんです」
鍵が無かった? それってつまり。
「すれ違いだったんでしょうね。部室に行っても鍵が閉まっていて、もう一度管理人室に戻ってみたら、鍵があったんです。そうしてその後私はあの事件に遭遇して…………結局あれは何だったんでしょうか」
有田先輩と目があった気がした。五位鷺さんは、陸上部部室と管理人室との間で、犯人とすれ違っていたのか。
「その時、誰かとすれ違いませんでしたか?」
「うーーん、誰かと、ですか。何と言っても二日前のことだから記憶が定かでなくて」
どうやら、五位鷺さんは何も覚えてはいないようだ。もしかしたらこれで犯人が判明していたのかもしれないと思うと、津惟を疑うことをまだ続けなくてはいけないというやるせなさが私に覆い被さり、溜め息が漏れた。
「……そう言えば、一度誰かとすれ違いましたね。記憶違いかもしれませんが……」
「本当ですか!?」
「――――光っていました」
五位鷺さんは目を細めた。「確かに光っていました」
「何の話ですかそれ」と白詰くん。
「すれ違った人がちょっとだけ、キラッと光っていたんです」
「どういうことですかそれ」
「あの日のことは余り思い出したくないのですよ。ひどい事件でした」と眉を擦る。
「ひどく魘されてました」と有田先輩。
「もうゴキブリは一生見たくありませんね」
五位鷺さんはそう言って苦笑した。白詰くんも釣られて苦笑する。「全く、同感です」
そしてそのあと、朝の予鈴が鳴るまで、結局津惟は姿を現さなかった。
◇◆白詰朔◇◆
ホームルームが始まる前に、御簾川から聞いたゴキブリ爆弾事件の全容は、思ってもいないものだった。まさか、犯人が酉饗だったなんて。今でもまだ信じられない。どうやら御簾川も、それを信じたくないみたいだった。宗田さんは、信じたくないけど信じざるを得ないのかな、といった様子だった。それと、越貝が容疑者から外れたということも御簾川は言った。その理由は話してくれなかったけれど。
「はーい皆さんおはよーございまーす、今日は半日学校ですよー、疲れますねー」
そう言いながら教室に入ってきたのは我らが担任篠木つくね先生。愛称はつくね先生だ。趣味はギャンブル、らしい。本当なのかどうなのかは分からないけれど、生徒の前でドラドラがどうだの連番でどうだの入るだ入らんだのといった話はするもんでないことだけは確かだ。
「そういや出席とってなかったね、とろうか」
ホームルームが終わる頃、つくね先生は出席簿を開き、出席を取り始めた。今更すぎるだろ。
「相模くーん」
「はーい」
「白詰くーん」
「はい」
「宗田さーん」
「はいっ!」
順調に出席がとられてゆく。俺は左斜め前の空席を見つめた。
「酉饗っち、今日来てないなぁ」
相模が後ろを向いて話し掛けてきた。「あぁ、そうだな」と答える。「絶対休まなさそうなのにな」
「タイサク~、寂しいんじゃないかぁ?」
相模は前の越貝に絡んだ。「タイサクは筋肉っ娘が好きだもんなぁ」
「そういうのは明けっ広げに言うもんじゃないぞ」と俺が注意したまさにそのとき、酉饗が勢いよく教室に滑り込んできた。
「酉饗さーん」
「セーーフ!!」
「返事は『はい』でしょー」
「ハイニー!!」
教室が笑いに包まれた。朝からテンション高いな。ノリいいな、と相模が呟いた。
酉饗は何もなかったかのように席に座った。横を見ると、御簾川と目が合う。酉饗が遅刻したということは、今日は事件は起こらないだろう………そういう目配せだ。でも、御簾川にとっては、今日事件が起こった方がいいんだろうな。そうすれば、酉饗には朝学校にいなかったというアリバイがあるから、無実を証明できる。
◇◆白詰朔◇◆
二時間目は体育だった。結局鬼星人は、最初の授業と同じ剣幕に戻っていた。俺たちは逆らうのを諦め、ただ黙々とグラウンドを走り続けた。ところで俺たちはいつまで走るのだろう。何だかよく分からなくなってきた。
前で宗田さんが減速する。向こうの方から鬼星人の罵声が聞こえる。
「大丈夫か?」
最早チョロQほどの速さまで減速した宗田さんと並走(並歩か?)しながら俺は聞いた。宗田さんは歯を食いしばり「大丈夫だよ」と言う。とてもしんどそうだ。妙な汗が流れている。息も荒い。俺は保健室で休んでいた方がいいと薦めたけれど、宗田さんは頑として聞かない。
「本当に辛そうだ」
「あたしはダメなの、休んじゃ」足を引き摺りながら宗田さんは言う。
「そうは言っても、どう見ても限界が来てるぞ」
「ダメったらダメなの」
「どうしてそんなに走ることに拘るんだ?」
「だって、あたしは白詰くんに頼ってばっかりじゃいけないもん、前みたいに白詰くんに助けられたら、あたしはまた白詰くんの『助けた女の子』になるもん」
そうして今まで見たことのない、しっかりとした瞳で宗田さんは言った。
「あたしは白詰くんに認められたいの!」
それから後に起きた出来事に関しては、その場にいた誰もが目を疑った。
まず、鈍い衝突音が辺りに鳴り響いた。
そして、宗田さんが俺の眼前から消えた。
宗田さんはクラスで一番足が速い酉饗や越貝らの集団を追い抜かしていた。
次の瞬間にはグラウンドの反対側で木の棒を持つ鬼星人を通り過ぎ、
他の集団をごぼう抜きに抜かして、
俺の目の前で止まった。
もう一度鈍い衝突音が聞こえた。
俺がやっとのことで絞り出した言葉は「なんじゃこりゃ」だった。なんじゃこりゃ。
宗田さんは空をキョロキョロと見渡している。「もう、終わり……?」
クラスの皆は突風か何かと勘違いしたんだろう、「今のすごかったねー」と顔を見合わせている。
「宗田さん、今のは」
「あたしの能力……かなあ……」
「能力?」
「うん、超能力」
超能力……。宗田さんの能力。確か、シーマンさんが妙に驚いていたっけ。時間系能力が珍しいとか何とか。
「時間遅進。世界が、遅くなる能力……本当だったんだ」
「今のは、宗田さんの能力なのか?」
「うん」
急に世界のぜんぶが遅くなった、と宗田さんは言った。「それでとりあえず、一周してみて、そしたら、すっごく疲れちゃって、そしたら、また元に戻ったの」
鬼星人の罵声が聞こえる。もたもたしてたらまた殴られるかもしれない。あんなのはもう二度とゴメンだ。「とりあえず今は走ろう、宗田さん。話は後で」
俺はモヤモヤを抱えながらグラウンドを走り続けた。宗田さんは、どんなに辛そうでも、決して地面には倒れ込まなかった。
続く三時間目は古典だから宗田さんは教室におらず、俺は一人黙々と黒板を消した。
◇◆白詰朔◇◆
四時間目は、実習棟一階第一音楽室での音楽だった。音楽の担当は、我らが担任篠木つくね先生。以下略。
「はーい皆さん、篠木つくねですよー、って、あれ……ウチのクラスか」
という担任にあるまじき台詞から、授業が始まった。
途中、宗田さんにさっきのことについて聞こうかと思ったけれど、周りに人が多く、とてもじゃないけど超能力の話なんて出来なかった。
「リコーダーの起源って何か知ってる? いやー知らないでしょー、私も知らないからね、知ってるはずないねー」
ドッと笑いが起きる。これは狙っているのか素なのか。
「たぶんリコーダーみたいな形のヤツなんだよねー、忘れた。誰か教えてー」
「きゅうり!」
「にんじん!」
「ゴーヤ!」
「ナス!」
「バナナ!」
「×××!!」皆は口々に答える。
「どれも違うなー。なんかこう、もっと身近な……いつでも側にあるものでね」
「先生、×××はいつでも側にありまーす!!」と星井。星井は、クラスの盛り上げ役(自称)だ。「俺っちも持ってるっすよー!」と煉城。学級委員が何言ってんだ。
「少なくともつくね先生は持っていません! それに長さに個人差がある以上、楽器として使うことは困難です! というわけで不正解です!」
「ばんぷふとーっ!」と煉城。静かに御簾川が手を挙げ、「骨ですか?」と言った。
「そうそれ」とつくね先生。「これが昔のそれを再現したものなんだけどねー」と言ってつくね先生はどこからか穴の開いた骨を取り出した。この人、狙ってたな。
「じゃあ、ちょっと賭しようか」
授業が中盤に差し掛かってきた頃、つくね先生が切り出した。「もし皆が勝てば授業は終わり、皆が負けてもペナルティは一切なしの賭。どう? 乗る?」ギャンブル好きのつくね先生といえばそれらしい趣向だ。
「もう騙されねーっすよ! そんなこと言って絶対何か裏があるっす!」
「いや、今回は本当にサービスよ? サービスサービスぅ!」
「じゃあ乗りますよ!!」
「いけいけー!!」
つくね先生はピアノ椅子に腰掛け、グランドピアノに手を掛けた。「ずばりワンオンワンのスリーポイントマッチよ。勝っても負けても文句は無し。代表選手一名を選出しなさい!!」
音楽室がざわつく。「先生ー、賭って何するんだよぉ?」と相模。
「そうね……この中で、絶対音感を持ってる人がいたら、その人が適任なゲームかな」
「じゃあ私が行きます」御簾川が音もなく手を挙げた。御簾川の放つ本気のオーラに、教室が静まる。
御簾川はつくね先生に導かれるまま、ピアノ近くの椅子へ腰掛けた。賭のルールはこうだ。今からつくね先生がピアノでハーモニーを鳴らす。そして御簾川がそれを聞いて、そのハーモニーの名前を答える。演奏は一度きりで、ヒントもない。御簾川以外の生徒に回答権はなく、御簾川は奏でられた音を聞き分ける音感と、ハーモニーに関する基礎知識が要求される。
「三つのハーモニーを全て聞き分けられたら皆の勝ち、一つでも間違えれば私の勝ち。じゃあまずは一つめ」
一つめのハーモニーが奏でられた。俺にはさっぱり分からないが、整ったハーモニーだということは分かる。公平を期すために、御簾川は目隠しをされている。ここまでする必要があるのかは謎だ。つくね先生は変なところに拘るな。
「Cmです」
おーと歓声が上がる。さすがはアイドル志望、これくらいは朝飯前ってことか。
「まぁ最初はお情け問題だからね。皆に勝たせる気はないから、これで終了かな」
二つ目のハーモニーが奏でられた。やはり俺にはさっぱり分からない。だけど、さっきより少し気持ち悪い気がした。不協和音、と言うのだろうか。いや、分からん。
御簾川は即答した。
「F♯dim7です」
ざわめきが起こった。えっ、そういうのって、そんなに簡単に分かるものなのか?つくね先生も驚いたのか、一瞬表情を失っていた。
「な、中々やるねー御簾川さん。ここまで来たのはあなたが初めてよ。だけどこの勝負、負けるわけにはいかない! 音楽教師として、音楽の授業を途中でやめるなんて暴挙、許していいはずがないもの!! 残念だけど御簾川さん、あなたの伝説はここで打ち止め!!」
つくね先生は両手を掲げた。「くらえーっ!!」
三つめのハーモニーが奏でられた。もう俺には何のことやら分からない。どこからどう聞いても、ピアノも碌に弾けないような小学生男子が、弾けたつもりになってバンバン鍵盤を叩きまくっているような、そんな音にしか聞こえなかった。
クラス中の視線が御簾川に集中した。御簾川は、少し黙っていたが、口を開いて言った。
「DmM7b5とBb1+2+5です」
「………………残念だけど………………………………正解です!」
うわーっと歓声が上がった。
「すげーっ!!」
「最高ーっ!!」
「どっしぇーー!!」
「ブラヴォーっ!!」
「エクセレンッ!!」
「どっこいしょ!!」とクラスの皆が口々に叫ぶ。いやぁすげーな御簾川。素直に感心する。
「皆、御簾川っちを胴上げだーっ!!」
相模がそう言うと、大半の男子が御簾川を取り囲んだ。「英傑御簾川紗希を胴上げっすよー!!」
「ちょっと待ってよ、もう胴上げはいいってば」目隠しを取りながら御簾川は言う。「大したことしてないし」
「いやそれは違うぞ御簾川。お前のおかげで授業が中止になったんだ。御簾川は胴上げされるべき信奉対象だ。そう、祭りの目玉、神輿が筋骨隆々の男達によって担がれるように、御簾川は胴上げされなくてはいけない」と越貝。なんだそのトンデモ理論は。
かくして、今年始まって二度目の、御簾川胴上げが執り行われた。
「馬鹿どもは幸せでいいな」と誰かが悪意を込めて呟いたのを、俺は気付かなかった。




