第三十二話 「ゴキブリ爆弾事件」
「うん? 何、君」
周囲を警戒していた割には驚く様子を見せず、ショートボブのその人は言った。
「六陵高校推理探偵部の者です。失礼ですけど、あなたは誰ですか?」
「へぇ~」俺を眺め回す。
「もしかして、君が白詰朔くんなのかな?」
え、と俺が言っている間に、彼女はひょいっと、俺の被っている緑の鳥打ち帽を取った。
「うん、きっとそうだね、朔って感じの顔してるし。名前が似合ってる。そうそう。で、この帽子は何、どうしたの? まさか、シーマンくんはこんなことも始めたの?」
緑の鳥打ち帽をまじまじと見つめる。
「いや、違います、この帽子は、俺たちが勝手に用意したもので」
「そうかー。うんうん、新入生として、いい志だね」
彼女は帽子を俺の頭に載せ、帽子越しに俺の頭をぽんぽんと叩いた。
「シーマンくんとダリアちゃん、あと、鬱子にもよろしく言っておいてね。あの子、基本無口だろうから、どこにいるのか分からなくなることもあるかもしれないけど、うん、気にかけてあげてね」
酉饗のような、爽やかな笑顔を見せた。
「――――もしかして、相槌憂子、さんですか?」
「うん、そうだよ」と言った。「分かっちゃったか」
「あの、相槌先輩」
俺は声を落とした。「一昨日昨日と、運動部の生徒が二人立て続けに気絶した話を知ってますか」
「うん、知ってるよ」
「今、俺たちはその事件を調査してるんですけど、ダリアさんの話によれば、今日はこの女子テニス部が狙われるらしいんです」
「あの子がそう言うんなら、そうなんだろうね」
「それでですね、その被害者は二人とも、部室で気絶したところを見つかってるんです。つまり、二つの事件はどちらも部室で起こった。だから、あの、部室に用があって、入っていくのは構わないんですけど、中に妙なものが転がってたり、知らない人がいたりしたら、俺を助けに呼んで下さいね。俺、ここで見張ってますから」
うーん、と言って、相槌先輩は顎を上げた。
「何か、怖いなー」
「え?」
「うん、それって、何か怖いよね。だって、ダリアちゃんの推理が正しければ、この中に、人を気絶させるような何かがあるかもしれないってことでしょう? あ、そうだ、それなら、白詰くんに取ってきてもらうっていうのはどうかな」
「何をです?」
「私の着替え。一番奥のロッカーに一式入ってるから、取ってきてくれると助かるな。怖くて怖くて」
あまり怖そうには見えない。
「あの、すいませんけど、俺、オバケ系はめっぽうダメなんです。Ghostとか、もうダメで」
「情けないヤツだなー」
見ると、宗田さんと酉饗が立っていた。宗田さんは、ブレザーを片手に掛け、白いワイシャツに桃色の鳥打ち帽を被っている。対する酉饗は、肩に手で、中に何か入っているビニール袋を提げ、水色のポロシャツと白基調のスコートを履いていた。胸に六陵高校の校章が描かれていることから、これがこの部のユニフォームなんだろうということが分かる。お世辞にも、スコートは酉饗に似合っているとは言えないが、脚のスラッとした長さ、そしてそのシャープな輪郭が際立っている。越貝が見たら喜びそうだ。
「あれ、昨日の」と相槌先輩が言う。どうも、と宗田さんが首を下げた。
「宗田さん、今日は見学に来たんですけど、やっぱ実際にやってみた方がテニスの分かりやすさが伝わりやすいから、そうしようって話になりまして」
相槌先輩が、酉饗さんは今日どうしたの、と聞くと、酉饗は自主練です、と答えた。
「確か、まだ仮入部中だったよね。何、そんなにテニス、大好きだったの? 未来のエース候補、かな?」
「女子テニス部に入るっていうのは、五位鷺さんの遺言なので!」
おいおい、五位鷺さんは死んでないぞ。
「それで、白詰はなんでここにいるんだ?」
「いや、別に」曖昧に言葉を濁す。「あ、そうだ」ポン、と手を打つ。
「酉饗、ちょっと部室の中に入って、一番奥のロッカーにある相槌先輩の着替え取ってくれないか?」
「いいぞ」と清々しい即答。「どっちにしろ、部室に用があってこっちに来たんだし。な、宗田さん」
「うん」
二人は何の躊躇いも無く女子テニス部部室に入っていった。……って、二人?
「お、おいちょっと!二人とも、大丈夫か!?」
もし犯人が既に潜伏していたら、二人は危険だ!
「入ってきたらブッ飛ばすからな」
酉饗がひょこっと顔を出して言った。「ブッ飛ばすから」
「……分かった」
俺は両手を上げながら後ずさった。女子を敵に回すと、後々怖いから、ここはおとなしく引き下がろう。ある意味、オバケと同じくらい怖いかもしれない。
俺たちは部室の外で待機することになった。その間に、相槌先輩に、どうしてさっききょろきょろしてたんですか、犯人かと思いましたよ、と聞くと、相槌先輩は「うちの部長が遅刻に厳しくて。みつかったらずーと説教なんだよね。テニスに関しては譲れない人なの、うん。厄介だよ」と笑った。
しばらくすると、部室の中から声がした。「わっ、何、何」
宗田さんの声だ。「宗田さん!?」
俺はすぐさま扉を開け放った。何かがあってからでは遅い!
するとそこに広がっていたのは、宗田さん、酉饗がだれかと対峙しているような風景ではなかった。
そこには、ワイシャツを脱ぎ、今まさに肌着に手をかけ脱ごうとしている宗田さんがいた。
宗田さんはきょとんと俺を見ていたが、すぐにその頬が真っ赤に染まった。
「きゃあああああーーっ!?」
瞬間、飛来した制汗剤のスプレー缶が俺の鼻っ柱を叩いた。
「コノヤロー出てけーーーっ!!」
制汗剤をよけながら、俺は大慌てで扉を閉めた。
「白詰ーっ! 何してんだ!」
酉饗が鬼の形相で出てきた。悪魔もたじろぐような殺人的な光を宿した瞳が、俺を捉えた。
殺される。
確実に殺される。俺はそう確信した。
「この……女の敵ーーっ!!」
ものすごい力で酉饗は俺に掴みかかり、俺を地面に押し倒した。
「ちょ、ちょっと待て酉饗!! 俺はただ、宗田さんの安否が気になっただけで」
「理由があれば何でもしていいのか! コノヤローっ!!」
酉饗の握りこぶしが俺の耳先をかすめた。俺は必死に酉饗の下から転がり出る。
「悪かった!! 悪かったから、酉饗、いったん落ち着いてくれ!! ちゃんと理由を説明するから、な!?」
酉饗は俺の肩を地面に押さえつけた。酉饗の腕が逆光を浴び、大きく振りあがる。
「言い訳無用だー!! 悪・人・成・敗!!」
俺が死を覚悟したその瞬間、女子テニス部部室から甲高い悲鳴が上がった。宗田さんの声だ。
「キャァァァァァァァアアアアーーッ!!」
瞬間、全身の毛が粟立った。俺の脳内で緊急信号が鳴る。
これは本物の叫びだ。
助けを求める、真の悲鳴だ!
「「宗田さん!?」」
酉饗は弾かれるように立ち上がり、部室に駆け込んでいった。俺も続いて立ち上がろうとしたが……
足が動かない。
立ち上がろうとしても、足が曲がらないのだ。
「クソッ、なんだ!?」
いくら力を入れても動かない。それよりむしろ、力を入れれば入れるほど足が固まっていくようだ。
「宗田さんをッ……助けないといけないのに!!」
目の前でみすみす、宗田さんに犯人と対峙させるわけにはいかないだろ!!
その間一秒の奮闘空しく、俺は後ろにドウと倒れこんだ。いつの間にか息が上がっている。俺はゆっくりと、額を流れる汗を拭った。
落ち着け。
焦りすぎだ。少し落ち着け。
俺はゆっくりと、自分にそう言い聞かせる。
すると、足は自然に曲がるようになった。俺はゆっくりと、立ち上がる。少し焦っていたせいで、ちゃんと立ち上がることができなかった。
あたりを見回すと、酉饗はすでに宗田さんの様子を見に行ったようでいなかったが、相槌先輩はポカーンとした様子であたりをキョロキョロと見回していた。この期に及んで部長さんの目を気にしているのではないと信じたい。部室の扉は半開きになっている。
「酉饗? 宗田さん?」
慎重に部室を覗き込む。部室は奥方向に長く、人間三人ほどの横幅で、制汗剤と誇りの混ざった匂いが鼻をついた。さっきと違い、今度は缶が飛んでくることはなかった。
その代り、もっと妙なものが俺の目に飛び込んできた。
「酉饗! 宗田さん!」
二人は、目を固く閉じて床に倒れていたのだ。
「おい、一体どうしたんだ!」
素早く二人に駆け寄り、あたりを見回す。ロッカー以外に、人が隠れられそうな場所はないようだ。
一番奥のロッカーだけが、静かに開いていた。
ザザザ。
竹箒で床を擦るような音が、部室に響いた。背筋を冷や汗が滴り落ちる。どくん、どくんと、鼓動が早まる。
「誰か、いるのか」
ザザザザ。
細長くしなやかな物体が床を滑る音。どうやらその音は、奥のロッカーから鳴っているようだった。
ザザザザザ。
俺は、ゆっくりと、ゆっくりとロッカーの中を覗き込んだ。
そして幾千もの瞳と、俺の目が合った。
「うわァァァァァァァァアアアア!!」
それが合図であったかのように、浅黒く光る何千ものそれは俺に飛び掛かり、俺の服の中を這いずり回った。腕を走り、脚を走り、腰を走り、腹を走り、顔を走る。
そして俺は、呆気なく気を失った。
◇◆御簾川紗希◇◆
四度目に聞こえた悲鳴は、相槌先輩のものだった。
「あの、今のは聞こえましたよね」
周りの人は難色を示す。周りの人には聞こえていないみたい。これも私の能力のせいなのか。
とか、そんな悠長なことを言っている場合じゃないかもしれない。何かが起こっているのは確かだ。
「ちょっと、失礼しますね」
私は青の鳥打ち帽を被り直し、声の聞こえた方向に走る。どうやら声が聞こえたのは、部室棟のあたりからだ。事件が起きたのだろうか。
「うん?」
何かが視界に映った。黒く蠢く何かが、部室棟の方から六刃公園の森の中へ入って行った。ちらりと、風にはためく何かが見えた。
少し疑問に思ったけれど、取りあえず今は、悲鳴の方が大事。
部室の前に、相槌先輩が倒れていた。
素早く駆け寄る。どうやら気絶しているみたい。
女子テニス部の部室の中に、栞ちゃんと、津惟と、白詰くんが倒れていた。
まさか、今回は四人も犯人にやられた?
「う……ん」
津惟が目を覚ました。眩しそうに私を見上げる。私がそこに立っていることに驚いたのか、びくっと体を強ばらせた。
「津惟? 一体誰にやられたの」
津惟は歯をかみしめた。「アイツだ」
「アイツ? 知り合いなの?」
「いや、気のせいだ。そうに決まってる」
津惟はかぶりを振った。「あんなの、白昼夢か何かだ、きっと」
「白昼夢でもいいから、誰なの。みんなを気絶させたのは。言ってよ」
津惟は少し躊躇ったあと、言った。
「…………GOKIBURIだよ」
◇◆御簾川紗希◇◆
五時間目。私たちは、連続気絶事件の聞き取り調査という名目で、六陵高校推理探偵部の部室にいた。
「確かにゴキブリが自分の服の中を這いずり回るというのはいやだけれど、それだけで気絶するとは思えない」
「実際に見てないからそんなことがいえるんです。想像してみてくださいよ! ゴキブリが、有り得ないほど大量のゴキブリが、急に……ダメだ、これ以上言いたくない」
津惟はうなだれた。
確かにな、と宇治川先輩が頷く。「私ならば大丈夫だっただろうが、確かに、普通のものには難しいだろう。恐怖を前にして、立っているなど」
「じゃあその件はよしとして、酉饗津惟さん、あなたはどうしてあの場所にいたの」
え、と津惟が言う。「テニス部の練習に参加していたからです」
「あなたは気絶したの? 大量のゴキブリを目の前にして」
「いや、少しショックで倒れてたってだけなんだけど」
「そう」
有田先輩は私に目を向けた。「カワサキさん、あなたはどう思う」
カワサキさん、というのはおそらく私のことだろう。
「私もさすがに、そんな目に遭えば気絶なりすると思いますよ」
有田先輩は、静かに私の出方をうかがっているようだった。けれど静かに踵を返した。
「……まあ、いいわ」
有田先輩は、私たち――――宇治川先輩に、津惟に、私――――を、ぐるりと見渡した。
「ところで、ダリア。結局、犯人は捕まらなかったわけだが、次はどうするんだ。次の被害者は、もうわかっているのか? 今回は予想通りだったんだろう?」
「次はない」
有田先輩はそう言った。「次はないわ」
「何?」
「だって、もう犯人は、これ以上の行動を起こせないから。今回の犯人の狙いは、相槌先輩だったはずよ。実際、酉饗さんも、先輩のロッカーの中にゴキブリがいるのを見たんでしょう?」
津惟は頷く。
「だけど今回は、私たち推部が動き出したことによって、余計な被害者を三人も作ってしまった。それは間違いなく、犯人の誤算だったはず。これから先、犯人は迂闊には動けない。それに――――」
そこで有田先輩は言葉を切った。そして口元に微笑を浮かべ、言った。
「私にはもう、犯人が誰なのか分かったから。今犯人がどこにいるのかわからなくても、いつもいる場所ならわかる」
自信たっぷりに、有田先輩は宙を仰いだ。
「誰なのだ、その犯人というのは」
「それは、今回の被害者からの証言が集まってからにしましょう。推部部員は、放課後、保健室に集合、ということで」
私と津惟は、顔を見合わせた。津惟は眉をしかめている。
◇◆御簾川紗希◇◆
「紗希にはもうわかってるのか? 例の『ゴキブリ爆弾事件』の犯人」
ホームルームが終わった1-Eの教室で、津惟が私に声をかけてきた。
津惟の目撃情報によって、連続気絶事件の噂は瞬く間に学校に広まり、二日前の剣道部女生徒や昨日の五位鷺醍醐さんがやっと証言を始めたことから、事件は『ゴキブリ爆弾事件』へとその名を変えた。
「いやー、さっぱり」
私はバッグを手に取る。「あの有田先輩は、多分この学校の中で、一番頭がいいほうだから」
「謙遜だなー、あれ、謙遜、で、意味あってたっけ」
合ってるよ、と言う。
「でも、あの事件、ちょっと分かった気がするんだ」
「え? 分かったって……何のことなの」
「もちろん、犯人だよ」
「じゃあ誰なの」
ふっふーん、と津惟は鼻を鳴らす。「分からないと思ってるんだな? よーしいいぞ、それでこそ驚かせがいがあるんだよなー」
「いいから早く言ってよ」
「じゃあいうぞ? 言っちゃうぞ?」
「いいから」
津惟は息を吸い込み、言った。
「犯人は、超能力者だ!」
「……え?」
「まぁ聞いてくれれば分かるさ! まず第一に……」
驚く私をよそに、津惟は説明を始めた。




