第二十八話 「赤富士」
今回でおおよそ折り返しです。
長いです。
籠に服を突っ込み、俺はタオルと石鹸の入った木桶を片手に浴室へと入った。五人ほど人がいた。浴室は湯気が立ち込め、むんむんとした湿気が肌にへばりつく。タイルの壁面いっぱいに描かれた、霞がかった赤富士は、しっとりと水滴を滴らせていた。
シャワーの前の椅子に座り、赤のカランと青のカランを回し、適温を作って桶で被る。優しいお湯が、俺を癒してくれる。極楽だ。
置いてあるシャンプーで頭を洗い、石鹸でタオルを擦り、そのタオルで体を念入りに洗った。カコーン……と、木桶を打つ音が響く。俺の他にも、木桶を持参している人がいるんだろうか。何故だか妙に嬉しくなった。2050年の今、木桶なんて持ってる方が珍しい。
体を丹念に流し、俺はタオルを絞って頭の上に乗せ湯船に浸かる。体に染み付いた疲れが、炭酸のように勢いよくしゅわしゅわと弾けて消える。短いため息を漏らす。
ぼんやりと赤富士を眺める。どこから見た絵なのだろうか、朱色の空ともうもうと立ち込める雲々を背負った紅の富士が、穏やかな湖面にその雄大な影を落とし込んでいる。富士が生きているかのような、躍動感のある絵だ。
耳を澄ませば大地のうねりが聞こえるような気がして、俺は耳を澄ます。代わりに、ケロリン桶の鳴る心地よい音が聞こえた。
たまには銭湯も、悪くないな。
そう思った矢先、目の前で、小学生ほどの小さな子が、足を滑らせて転び、後頭部がタイル張りの床に叩きつけられた。痛そうな、鈍い音が鳴る。
「大丈夫かね?」と、俺の近くで湯船に浸かっていた老人が聞くと、その子はよろよろと起き上がり、だいじょうぶ、とぎこちなく微笑んだ。涙が滲んでいる。
「血が出てるぞ」
俺はそう囁く。その子は打ったあたりをさすった。
「嘘だよ。本当は痛いんだろ? 一回出るか?」
キッと俺を睨み付ける。容赦ない目付きだ。「本当にだいじょうぶだもん」
「どれどれ、打ったとこ見してみろ、ほれ」
手招きをし、その子を湯船に招く。少し警戒したが、温度を確かめるようにゆっくりと足を浸けると、波を掻き分けるように湯の中を歩いてきた。
「だいじょうぶだって言ってるのに」
「どれ、ここは一つ、とっておきの呪文を伝授しよう」
俺がそう言うと、その子は目を輝かせた。「お兄ちゃん、まほうつかい!?」
「まぁまぁ、見てな」
近寄って来たその子の頭を撫でながら俺は控えめに叫ぶ。
「痛いの痛いのとんでいけーっ!!」
やった後で、周りの大人たちから向けられる暖かい笑顔に気づく。いや、これは人助けだから!恥ずかしくないから!
「あれれれ、いたくなくなったぁ!! お兄ちゃん、ありがとーっ!」
その子は無邪気に笑った。ぼさぼさの髪がぴょこんと跳ねる。子供の笑顔には癒される。「どういたしまして」俺は微笑む。民間療法と呼べるのかはわからないが、伝統というものはそれなりに意味があるものだ。
「名前、なんていうんだ?」
「海里だよ!! まほうつかいのお兄ちゃん、なんて名前なのー?」
「俺はなー……」
どうやら海里は、俺のことを魔法使いだと勘違いしてるらしい。
なら、それっぽい名前を言ってやろう。
「―――――クローバー、って言うんだ」
「クローバー? それって、あの、もさもさしてるの?」
「よつばのクローバー、って知ってるだろ? そのクローバーだよ」
すごーい、と海里は赤ん坊のように手を叩く。「カッコいい」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
独り言のように呟く。この名前は、なかなかいいな。宗田さんや御簾川には悪いが、宇治川さんがつけたあだ名の中では、上位に入るんではないだろうか。「実はこの名前、今日もらったばっかりなんだけどな」
「なんかカッコいー!」
それから俺と海里はのんびりと風呂に浸かり、そして風呂から上がり、タオルで汗を拭いながら俺たちは、湯屋から出たところの三叉路で別れた。海里は常連なのか、それとも番台のお婆さんが子供には甘いのか、分からないけれど、海里は番台のお婆さんから差し出されたあめ玉をもらい、嬉しそうにしていた。海里は、あめ玉を食べるためだけにここに通っているのかもしれない。そう思えるくらい、海里は美味しそうにあめ玉を舐めていた。
なぜだか急に、アイスクリームが食べたくなった。
◇◆白詰朔◇◆
家の近くに、誰かが立っていた。
刺々しい格好をした、中年の男だ。鍔の長い真っ赤な帽子を深く被り、きょろきょろと辺りを窺っている。
どうかしましたか、と俺が声を掛けようとしたその時、店の中からすさまじい音が響いた。
ガシャーン、という破壊音が、連続して鳴ったのだ。
「母さんっ!?」
俺は帽子の男をひとまず無視し、家の中へ飛び込んだ。何かが起こっている。誰に説明されなくとも、それはわかった。それだけに、俺は嫌な予感に襲われた。
家の中は惨状だった。
家の中にあった割れる物は全て床に叩きつけられ、調理器具から食器から、家財道具に至るまで、何もかも破壊されていた。窓も割られている。
一体何が起こっているんだ?
家の奥から下卑な笑い声が聞こえた。俺の部屋の方だ。
誰かいる。この家の中に。
俺は階段を駆け上がり、ドアを蹴破った。
「おぉ、久しぶりじゃねぇか、坊主。死にに来たか」
金髪ピアスが、そこには立っていた。
八年前のあの時、俺を気絶させるまで蹴り続けた、その男だ。
八年分きっちりと老けてはいるものの、あの時の邪悪な瞳は、今も色濃く残っている。
母さんは金髪ピアスの足元で、震えながら縮み上がっていた。その側で、肩にカメラを乗せた男が、カメラのレンズを覗き込んでいた。
金髪ピアスは、サバイバルナイフを片手に持ち、切っ先を母さんに向けていた。そばに、ずたずたに切り裂かれたエプロンが転がっていた。幸い、母さんに怪我はなさそうだったが、それは時間の問題に思えた。
「何………してるんだ」
一体どうなってる。
「あはっ、いや何、お前ら自殺家族がここにいるって情報手に入れてよぉ。聞いたぜぇ、お前ら、罪人家族にランクアップしたんだって? いや、ランクダウンだな」
「だから、何してるんだよ」
これは何だ?
「………んなムスんなよ、罪人が。調子ってんじゃねぇぞ」
金髪ピアスは右手で俺を捻り上げた。俺の踵が床を離れる。手を外そうと首を掻くが、金髪ピアスの腕が邪魔で触れられない。
金髪ピアスは、左手に持っていたナイフを床に落とした。にぃ、と歯を見せる。
「しっかり撮っとけよ。今からコイツ、マジで殺す」
金髪ピアスの左拳が俺の顎を殴り揺らす。カメラがそれを捉え、俺は血を吐いた。朔、と母さんが叫ぶ。
「何か言い残すことはあるか、坊主」
殺す、だって?
俺がここで、こんなやつに殺されるだって?
俺が死んだら、この家はどうなる。
店は。
母さんはどうなる。
八年間、あの日からずっと姿を見せていなかったにも関わらず、のこのこ舞い戻ってきたこいつらに、俺が殺される、だって?
「――――――死にたくない」
俺は、知らないうちにそう言っていた。それは本心だった。死にたくない、と俺は繰り返す。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないッッ!!!」
「黙れ!」
もう一発拳が飛んできた。俺は金髪ピアスの腕を振り払って床を蹴り、それを避ける。
「俺は生きる! お前みたいな、何も考えてない金髪ピアスに、俺たちの人生をめちゃくちゃにされて堪るか!! いきなり出張ってきて、これから頑張っていこうって、夢を探そうって、そう思ってた矢先に!! 俺たちの生活を、横槍でぶち壊そうとしてんじゃねぇよ!! 何なんだよお前は、何なんだよ、パワードって奴らは!! お前らがどれほど偉いんだよ! 今さら、俺達に何の用があるんだよ!」
金髪ピアスは無言で俺に蹴りを入れた。彼の右踵が俺の腹に食い込み、呻いて倒れかける。「何も考えてないだぁ? 本気で言ってんのか」
「大本気だ。ついさっきまで、のんびり風呂に浸かってたってのに、何の脈絡も無くずかずかと人の家に土足で上がり込んで来やがって。八年前から何一つ進歩してねぇじゃねぇかこの金髪ピアス! さっさとこの家から出ていけ!!」
「言ったな、クソ坊主」
金髪ピアスは俺にアッパーをかました。俺の視界がぐらりと傾き、床に片膝を落とした。
「俺だってなぁ、ちったぁ考えてやってんだよ。この世界に必要なのは金だ! それを得るためなら、何だってやっていいんだよ! 実際、金持ちの連中はそうしてる! 人生の勝ち組になるには、手段を選ばないことが絶対なんだ! クソ坊主、お前にだって、それくらいはわかるだろうが! それとなぁ、クソ坊主。俺には土台今男って名前があんだよ。誰が金髪ピアスだぁ!!」
土台はそう言って俺の横腹に何発も蹴りを入れた。蹴りがやんだところで、俺はふらつきながら立ち上がる。
「土台今男……お前はパワードの、エンターテイメントを演出するただの道具なんだ! お前だってこんなこと、好きでやってるわけじゃないんだろ!? お前にだって、ちゃんとした夢があるだろう! パワードに頼まれたから仕方なくやってるだけなんだろ!?」
俺は、土台にそう言って欲しかっただけなのかもしれない。俺と同じ、非能力者は、超能力者を憎んでいる。そう信じたかったのかもしれない。
けれど土台は、俺を嘲り笑った。
「あはっはははははは!! つくづくおめでたい奴だ、お前は!! 仕方なく!? 俺が仕方なくこんな嫌な仕事を引き受けてるってのか!? そんなわけないだろが! あぁ、そうだよ、俺にはお前の言う通り、夢があった!! だがなぁ、それはもう叶った!! 俺の夢は、金を手に入れて超能力者になることだったんだよ! 正真正銘のパワードに!! お前が憎み、俺が憧れていた超能力者に!! この世界を牛耳る、超能力者の一員に、俺もなれたんだ!! 俺が超能力者になる前、俺はお前らの家族や他の色んな家族を脅して回って、蹴って殴って弄んで殺してた!! 依頼人の連中は優秀な新人が入ってきたって喜び狂ったさ!! あぁ、そうとも、俺にとっちゃぁ、弱い奴らをいたぶるのは、最高に楽しい余興だった!! けどなぁ、それじゃ足りなかったんだよ!! 俺の力じゃあ、超能力もないただの肉体の力だけじゃあ、壊し足りなかった! だから、もっともっともっと殴って蹴って引きずり回して切って壊して潰して殺した!! 金ももうかってパワードも俺も喜ぶ、まさに一石二鳥だろ!? そして俺はついに、超能力獲得の切符を買うことができたんだ!! 超力場に入り、俺は正真正銘の超能力者になったんだ‼ それからは、この超能力を使って、さらに愉しいいたぶりをしてきた!! これが最高なことだと、お前だってわかるだろう!!」
狂っている。
土台今男の思考回路は、富裕層のそれと同じだ。
人を壊して楽しむなんて、尋常ではない。
「お前の家を知ったのは偶然だ。今は別の依頼を受けててな。まぁそれより、外で見張りの後輩が待ってんだ、早く行かなきゃなんねぇ。今回は見逃してやるけどな、またすぐ、戻ってくるぜ、坊主。俺の能力は、いつか見せてやるよ。そうだな、もしかしたらどこかで会う機会もあるかもしれねぇ。その時まで、爪くわえて待ってな!! うはっはははははは!! そうだ、コレ作っといてやったぜ。ホントは暖簾に貼っ付けてやるつもりだったが、お前が貼った方が早いだろ。集客アップに繋がるぜ」
土台は、ポップな字体の文字が出力された一枚の紙を俺に投げた。
それには、『罪人ノ家』と書かれていた。
「ふざ……けるな……!!」
俺がそう呻くと、土台は、俺の頭を床に蹴り付けた。畳の繊維が口の中に入る。
「さぁ行くぞ。そこのババァも、今回は命拾いしたなぁ。また今度、じっくりと殺しに来てやっからよぉ。次のときは、逃げたりすんじゃねぇぞコラ」
床のサバイバルナイフを拾い上げ、土台はカメラマンと共に部屋を出ていった。
「お前なんかに! 俺の家族を殺させたりしない! その前に俺が、お前を殺してやる!!」
俺は、土台に向かって叫んだ。立ち上がって土台を追いかけようとするが、足が動かない。
「クソッ……動け! 動け!! 動けよぉぉぉぉ!!」
八年前、土台に向かって包丁を振り回したあのときの俺は、影を潜めていた。
今はただ、土台に対する恐怖だけが、俺を支配していた。土台今男は、俺の敵うような相手ではない。それを俺は、理解してしまっていた。
土台の嘲笑が、耳に響いた。
◇◆白詰朔◇◆
母さんに外傷は無かった。
けれど、母さんは、心に傷を負ったようで、もうほとんど口をきかなかった。
俺は申し訳程度に母さんを慰めてから、布団に横たわった。
一体これからどうする。
このままだと俺たち家族は、間違いなく土台によってこなごなに砕かれるだろう。ならどうする。
八年前のように、尻尾を巻いて逃げ出すか。
それともあいつらを、ぶっ倒すか。
俺は横を向いて窓から空を眺めた。皮肉なことに、空には、いつも以上に美しく星が輝いている。
貪欲にならなければいけません、と誰かが囁く。八年前、あの病院の先生に言われた言葉だ。
だが俺は、貪欲になるということは、あの病院の先生が言っていたような、自分一人の幸福を求めることだけを指しているのではないと思う。
この世界の総ての人たちを幸せにする。
それこそが、真の『貪欲』だ。
「けど、そんなこと、不可能だよな」
声に出すまでもなく、分かりきっていることだ。世界中の人間が幸せになる世界なんて、存在するはずがない。人は集まれば必ずどこででも徒党を組む。地獄であろうが天国であろうが差別は終わらない。
ディスパワードが、罪人、すなわち六陵高校生とその家族を迫害するように。
「なら俺は」何をする。
「俺には」何が出来る。
罪人の俺が、非能力者の俺が、何をする。
答えは、『何も出来ない』。
それが現状だ。
近くの母さんですら、俺は満足に守れない。
お遊びで人殺しに来た連中を、追い返すことが出来ない。
それはどうしてだ。
何故俺は何も出来ないんだ。
何があれば俺は、あいつを返り討ちに出来る。
恐らく父さんを追い詰め自殺に追いやり、そして今は母さんを脅しているあいつらに、俺はどうやったら仕返してやれる。
近くの一人を守るためには、何が必要だ。
『人を守りたい』。
それが俺の、夢なのではないか。
今の俺に何が必要かなんて、そんなことは、分かりきっていることじゃあないか。
あの土台今男に対抗する手段が一つしかないことに、俺はいつのまにか気づいていた。
――――長い夜が、ゆるゆると尾を引くように明けた。
次回、『神託の間』です。




