08
殿下の冷たい指摘のあと、場を圧するような沈黙が流れた。食堂の高い天井に反響するのは、揺れる燭台の鎖のわずかな金属音だけ。
誰もが次の言葉を待ち構える中、殿下は視線を逸らさず、真っ直ぐに私を射抜いた。
「セリーヌ・フロルベルク嬢。学園内で、君が虐げられているという噂がある。事実か」
ジュリアンとマリーベルは同時に顔色を変え、身を乗り出しかけたが、すぐさま側近の鋭い視線に制され、言葉を呑み込むしかなかった。
胸の奥が、ぎゅっと痛むふりをする。私は小さく肩を震わせ、視線を落とした。睫毛の影が頬に長く落ち、潤んだ瞳を隠す。
殿下の低く抑えられた声が再び響く。
「事実のみを話すがよい。その発言によってヴァルトハイムがフロルベルクへ何らかの制裁を下すことは、我が名によって禁ず」
──逃げ道は用意された。殿下がここまで言う以上、今この場での私の言葉は守られる。
観念したように、私はそっと顔を上げる。濡れたように揺れる瞳で、王子を真っ直ぐ見返した。
「……初めての顔合わせの際に、ジュリアン様は仰せになりました。この婚姻は白い結婚であると。ジュリアン様が真に愛するのはマリーベル様であり、私には立場を弁えるようにと……声を荒げられました。その後も、お二人に……」
声を掠れさせ、言葉を途切れさせる。
ジュリアンが「誤解だ!」と声を上げかけた瞬間、王子の側近が冷ややかに制した。
「殿下の許可なく発言するなと、申し上げたはずだ」
その一言で、ジュリアンは押し黙るしかなかった。マリーベルも顔を蒼白にして固まっている。二人の焦りは、逆にこちらの言葉を補強する。
私はほんの一瞬目を伏せて息を詰まらせ──震える声を紡いだ。
「……きっと、私に至らぬところがあったのです。婚約者として相応しく振る舞えなかったから」
そこでわざと、喉を詰まらせる。指先を握り、かすかに震わせる。
沈黙を挟み、しとやかに小さく首を振った。
「殿下のお耳を煩わせるほどのことではございません。ただ……私の不徳ゆえに、皆さまを困らせてしまって、申し訳なく存じます」
その言葉は、自らを卑下しながらも、周囲に「哀れで、しかし健気な子爵令嬢」という印象を残す。
食堂に居並ぶ生徒たちの視線が一斉にこちらに集まった。
驚き、戸惑い、同情。同じ場に居合わせた令嬢たちの目には、確かに憐憫の色が浮かんでいた。令息の中にも眉をひそめる者がいる。視線を交わし合いながら、確かめるように首を振る姿さえあった。
今まで噂だけを耳にしていた者たちが、いま目の前で「か弱い被害者」を見せつけられ、心を動かされている。
殿下はやがて低く息を吐き、厳しい声音で告げた。
その言葉は、場にいる全員にとって揺るぎない裁定のように響く。
「ヴァルトハイム公爵子息とフロルベルク子爵令嬢の婚約については、王家──すなわちこの私が預かろう。改めて調査の上、仲介のもとで行く末を決する」
その宣告に、ジュリアンの顔色は見る間に蒼白へと変わった。
「殿下……! お待ちください、婚約はすでに両家の合意のもと成約されております! 今更翻すなど、家門の威信に関わります!」
その場を取り繕おうとジュリアンが必死に食い下がるが、殿下は片眉をわずかに上げ、まるで騒ぐ子供を見るような眼差しで一瞥すると、冷ややかに告げる。
「君たちの言動に問題がなければ、婚約はそのまま継続となるだろう。……それ以上でも、それ以下でもない」
それ以上の言葉を封じられ、ジュリアンは奥歯を噛み締めることしかできない。
私と彼、そしてマリーベルの三人は「下がれ」と命じられ、視線を集めながら階段へと向かった。
階下にはまだ大勢の生徒たちが残っている。彼らの好奇の眼差しが、まるで矢のように突き刺さる。
階段を降りる最中、周囲からの無数の視線を受けながら、私は静かに呼吸を整えた。
顎を引いて前髪で視線を隠し、目立たぬようわずかに唇を開き、あと数段で地に足が着くというところで、私は一段先を降りるマリーベルに囁いた。
「──庶子風情が子爵令嬢に楯突くからこうなるのよ。ざまあないわね」
その一言で、マリーベルの顔色が変わった。
「──ッこの……っ!」
「きゃっ……!」
振り返った彼女の両目は、激情に濁りきっていた。
次の瞬間、強い衝撃。
マリーベルが突き飛ばしたのだ。体がぐらりと傾き、視界が大きく揺れる。踏み外した足が空を切り、
──落ちる。
その瞬間。ぐっと腕を掴まれ、誰かの胸に受け止められた。
衝撃で目を瞑った私を支えるのは、硬い制服の生地と、しっかりとした腕の感触。
「大丈夫ですか?」
低いが澄んだ声が、すぐ耳元で響く。見上げると、真剣な眼差しでこちらを覗き込むリュカがいた。
……なるほど。いつの間に近くにいたのか。階下から一部始終を見守っていたのだろう。
「え、えぇ……。ありがとうございます」
初対面を装い、あえて敬語を使う。周囲の生徒たちが固唾を呑みながらこちらを見ていた。彼らの間に、やがてざわめきが広がり始める。
階段の上には青ざめたマリーベルの姿。突き飛ばした瞬間を見ていた者も少なくなかったはずだ。人々の表情に「まさか」という動揺と、「やはり」という確信が交じり合う。
「今、突き飛ばしたよな……?」
「なんてこと……」
「見間違いじゃないわよね……」
囁き声は波紋のように広がっていく。信じられないという驚きと、隠しきれぬ好奇心に満ちた視線がマリーベルに突き刺さる。彼女はかすかに首を振り、何かを否定しようとしたが、震える唇から言葉は出てこない。
私は俯いたまま、震える手で胸元を押さえた。儚げな少女を演じながら、私は胸の奥で、小さな笑みを忍ばせた。
これ以上の展開は望めぬほどに好都合──そう確信した瞬間、リュカが前へと一歩進み出た。
彼は姿勢を正し、殿下に向かって深く頭を下げる。鉛色の髪が揺れ、その仕草に居並ぶ生徒たちの視線が自然と集まった。
「殿下。恐れながら、この件に関して一つ申し上げたいことがございます。発言の許可を賜れますでしょうか」
「許す」
厳格な沈黙の中、殿下はゆるやかに顎を引き、許しを与える。
端的に返された声に応じ、リュカは懐に手を入れると、ゆっくりと一振りの扇を取り出し、側近に差し出した。
「っ──それは……!」
マリーベルが短く悲鳴のような声を漏らす。
殿下の側近がそれを受け取り、卓上に静かに置いた。象牙の骨組みに金糸で刺繍が施された濃紺の絹を張った高級品。
「先日、人目につかない校舎の陰にて──フロルベルク子爵令嬢に向けて投げつけられた扇でございます。私は偶然現場を見つけ、この扇を拾い上げました。証拠として、ここにお納めいたします」
リュカの淡々とした声が、場に重く響く。
「出鱈目ですわ!」
マリーベルは即座に反駁した。高鳴る声色に、焦りが滲む。
……あの時の扇だ。確かに、私は地面に落ちたそれを放置して帰った。
拾い上げて返そうものなら、「盗んだ」とか「勝手に触れた」と難癖をつけられるだろうと踏んで、あえて触れなかった。まさかリュカが、こうして証拠として持ち出してくるとは。
「その扇は……いつの間にか失くしていたのです! 貴方が盗んだのではありませんの!?」
必死の抗弁が食堂に響き渡る。
その言葉に、ざわりと食堂が波立った。だが、次の瞬間、群衆の中から別の声が上がる。
「……その件について、もしかしたら私も見ていたかもしれません」
視線が集まる。声の主は、最高学年と思われる男子生徒だった。背筋を正し、ためらいなく王子殿下に向かって証言を始める。
「西校舎の角あたりの出来事ですよね。私は東校舎の窓からその様子を偶然目撃しました。距離があったため顔までは判別できませんでしたが……髪色はお二人と同じでした。茶髪の方が立っていて、その前に黒髪のご令嬢が地面に蹲るようにしていたので、どうしたのかと訝しく思ったのを覚えています」
食堂に、ざわめきが広がる。
先ほどまで半信半疑だった生徒たちの表情に、確信めいた色が混じりはじめていた。
殿下は静かに目を伏せ、深く息を吐いた。
「……なるほど」
短い沈黙ののち、彼はゆっくりと視線を巡らせ、周囲に告げる。
「この件については、生徒諸君にも協力を要請することになるだろう。改めて証言を求めることがあるやもしれぬ。その際は真実を恐れず、正しく語ってほしい」
低く、しかし揺るぎない声音だった。食堂にいた生徒たちは一斉に頷き、あるいは姿勢を正す。
ジュリアンとマリーベルは、互いに顔を見合わせる余裕すらなく、ただ青ざめて硬直している。
マリーベルの指先は震え、握った手をどうすることもできずに空を掴んでいた。ジュリアンもまた、唇を噛みしめながら必死に感情を抑え込もうとしていたが、その表情からは焦燥が隠し切れていない。
噂や曖昧な印象だけであれば誤魔化せただろう。だが今や「証拠」と「証言」が出てきた。しかも王子殿下の面前で。
二人に残された逃げ道は、ほとんどない。
私は俯きながら、目元にそっと手を添えた。
震える仕草で隠しながら、口の端をかすかに上げる。
──そう、最初に煙を立てたのは彼らだ。
私はただ、種火が大きく燃え広がる様を静かに眺めるだけでよい。




