ハーフタイム 99
それからしばらくの間、彼は朦朧とする意識の中、どこかへ運ばれている記憶や、何か治療を受けている記憶が断片的にあるだけだった。
そうして、はっきりと意識が戻ったのは、殺風景な部屋のベッドだった。
「ようやく起きたか。気分はどうだ?」
そんな風に話しかけてきたのは、少し年上に見える男性だった。
「……あの?」
「ああ、先に言っておく。僕は君のことを知らないし、知るつもりもない。だから、君の話は何もしないでほしい」
まだ頭がぼんやりしていて、上手く働かなかった。何より、今どんな状況なのかわからず、混乱してしまった。
「僕が知っていることは、君に命の危険があったこと。怪我をしていたから、その治療を受けたこと。そして、これから別人として生きるため、整形手術を受けたこと。それぐらいだ」
「……整形?」
「鏡を見た方が早いだろう。ただ、自分の顔が違うというのは、戸惑うはずだ。覚悟を持ったうえで見ろ」
そう言われた後、彼は鏡を受け取った。その際、点滴がつけられていることに気付いて、チューブが絡まらないように注意した。また、身体が固まっているような感覚があって、少し戸惑った。そうした中で、彼は鏡を顔の前にやった。
そうして鏡を見ると、そこには見慣れない顔が映っていた。
「それと、君……名前がないと不便だ。自分で決めてくれ」
「え?」
「自分で自分の名前を決められるなんて、なかなかない機会だし、いいじゃないか」
そんなことを言われたものの、何がいいのか、全然わからなかった。
「それで、何て名前にするんだ?」
「そうですね。僕の名前は……」
ただ、少しずつ頭が働いてくるにつれて、彼は自分の目的を思い出した。それは、復讐することだ。
そう考えた時、鏡に映る自分は、相変わらず自信なさげだった。そして、単に顔が変わっただけで、表情などは何も変わっていないと感じた。
そのため、彼は目を閉じると、様々な決意を固めた。
まず、今よりも強くなる。少なくとも、冴木のように自分自身を守れるだけの力を手に入れる。そして、「あいつ」と、TODを開催している者に必ず復讐する。そんな強い決心を持ったうえで、彼は目を開いた。
その時、鏡に映っていたのは、今までの自分とは違う、まったくの別人だった。
「俺の名前は、翔だ」
春翔が男として生まれていたら、付けられていただろう名前。彼は、その名前を自らの名前にした。
「それじゃあ、これから君は堂崎翔ということだ」
「……堂崎?」
「君……翔は、堂崎団司に引き取られて、その息子として生きることになった」
「待て。俺はしないといけないことがあるんだ。だから、これからは一人で生きていく」
「悪いけど、翔に選択権はない」
そう言われて、翔は察した。
「人身売買か?」
「物知りで助かる。ただ、しないといけないことがあるなら、むしろ翔にとってはいいことだと考えてほしい。というのも、堂崎団司は富豪だ。何をするにも金が必要だから、その点で翔の目的を叶える力になるだろう」
そう言われたものの、どれだけの金が使えるかなど、不明な点が多く、今後については不安しかなかった。ただ、従うしかないという状況のため、翔は素直に受け入れた。
「翔が回復次第、堂崎家へ行かせるよう、指示を受けている。まあ、しばらくリハビリが必要だろうし、普通に動けるようになるまで、かなりかかるかもしれない。僕が一緒にいるのは、それまでの間だけど、よろしく」
「ああ、わかった。ところで、おまえのことは何て呼べばいい?」
「僕は何者でもない。だから、ヌルとでも呼んでくれ」
「ヌル?」
「プログラムにおいて、『何も示さないもの』を表す言葉だ」
そんな説明を受けたものの、翔は理解できなかった。ただ、ヌルと一緒にいるのは短期間だろうと思って、そこまで深く追求することはしなかった。
「食事などは僕が用意する。といってもデリバリーだけど、何か希望があれば聞く」
「わかった」
「まあ、食事が取れるようになるまで、少し時間がかかるかもしれない。でも、焦らずにゆっくり時間をかければいい」
そう言われたものの、翔はいてもたってもいられず、無理やり身体を起こした。
「あまり無理するな」
「なるべく早く、身体を動かせるようになりたい」
そうして、身体を起こしたところで、翔は周りに目をやった。そして、近くにある小さな棚の上に置かれた、ミサンガに目が行った。
「そのミサンガ、ここに翔が来た時、一緒にあったんだ。大事な物なのか?」
「……ああ、大事な物だ」
そして、翔はミサンガを手に取ると、改めて強い決心を持った。
その後、翔はリハビリとして、少しでも身体を動かすようにした。調べてみると、三ヶ月近く寝たままだったようで、真面に動けるようになるだけでも、長い期間が必要だった。
ただ、ゆっくりとでも歩けるようになったところで、翔はヌルにあるお願いをした。
「ヌル、パソコンを使いたい。貸してくれないか?」
「ああ、わかった。そこにあるのを自由に使っていい」
「ありがとう」
それから、翔はパソコンを操作すると、インターネットを利用して、様々なことを調べた。
まず、春来や春翔などの死が、どのように公表されているかを調べた。その結果、明らかにおかしなことに気付いた。それは、春来や春翔の死について、ほとんど情報がないことだった。それだけでなく、ガス爆発があった現場で、春来と春翔の遺体が見つかったといった、明らかに誤った情報があった。
また、その現場からは日下の遺体も見つかったとのことで、何かしらかの事件に巻き込まれたのだろうといったことが書かれていた。ただ、それ以降、この事件に関する報道は一切なく、何があったのかといった情報は全然見つからなかった。
これは、情報操作が行われていることを表していた。また、それより気がかりだったのは、「あいつ」の生死について一切書かれていなかったことだ。それは、「あいつ」が今も生きている可能性が高いということだった。
そのことを知ったうえで、今度はTODについて調べた。しかし、それこそ何の情報も見つからず、翔は行き詰まってしまった。
これだけ調べても見つからないということは、マスメディアだけでなく、インターネットの方でも情報操作が行われているということになる。そうなると、どこがかかわっているだろうかと考えたところで、翔の中に一つの考えが生まれた。
それは、セレスティアルカンパニーやインフィニットカンパニーのような、ネットワークの管理をしている企業がかかわっているんじゃないかというものだ。そして、その考えは調べれば調べるほど、確信に変わっていった。
ただ、そうだとしたら、どうすればいいかといった疑問をすぐに持った。というのも、それらの企業とかかわりがある人物となると、それこそ社員しか思い浮かばず、そんな人と知り合いになることすら困難だった。
そうした中でも、翔は頭を働かせ続けた。とはいえ、春来が死んだことになっている以上、これまでかかわった人に協力をお願いするという選択はできなかった。それは、ビーや篠田、速水などにも相談できないということで、翔の頭を悩ませた。
ただ、そうして誰にも頼れないことで、新たな繋がりを作る必要があるといった考えに移ることができた。その結果、翔はライトの存在を思い出した。
以前、少し話を聞いただけなものの、ライトのリーダーと、セレスティアルカンパニーの副社長は、かかわりがあるとのことだった。そのため、セレスティアルカンパニーに近付くなら、ライトに入るのがいいだろうといった結論を持った。
とはいえ、どうやったらライトに入れるのかわからず、ここでも行き詰まってしまった。何より、今は外に出られないため、ライトに近付くことすら難しいと判断して、翔は諦めた。
その代わり、翔は単にリハビリするだけでなく、格闘技を覚えたり、ナイフや銃の使い方を覚えたり、そうしたことに時間を費やした。
それは、春翔からできないと思っていることにも挑戦してほしいといった言葉を受けたことも関係していた。
そうして、ある程度の期間がかかったものの、翔は普通に日常生活をこなせるだけでなく、独学で覚えた格闘技を扱えるほどになっていた。そして、翔は堂崎家へ行く日を迎えた。
「もうすぐ迎えが来て、これからは、本格的に堂崎翔として生きることになる」
「ああ、わかった」
「あと、移動する際、ここがどこかわからないよう、目隠しをしてもらう」
「結局、最後までヌルが何者なのか、わからなかったな」
「僕は『何も示さないもの』だと言っただろ?」
「そうだったな。でも、これまで世話になって、感謝している。ありがとう」
「僕こそ、久しぶりに誰かと一緒に過ごせて楽しかった。だから、ありがとう」
詳しく詮索しなかったものの、ヌルはこの場所に閉じ込められているように感じた。ただ、自分にはしないといけないことがあると考えて、翔はかかわらないようにした。
そうして、ここを離れる時、翔はミサンガをポケットに入れた。というより、翔が持っていくものは、このミサンガだけだった。
それから、翔は目隠しをされると、手を引かれる形で外に出た。その後、車に乗せられると、目隠しをされたまま、車が走り出した。
そして、ある場所で車が止まると、翔は目隠しを外された。
そこには、いかにも大豪邸といった感じの家があった。建物自体が大きいだけでなく、庭も広く、どこか現実感のない場所のように感じた。
「降りろ」
そう言われて、翔が降りると、車はすぐに行ってしまった。その様子は、何かから逃げているかのように感じた。
それから少しして門が開くと、自分と同年代に見える女子が出てきた。
「翔様ですね? 私は翔様のお世話をさせていただく、飯島伊織と申します。よろしくお願いいたします」
あまりにも丁寧な挨拶をされて、翔は戸惑った。
「ああ、よろしく」
「すぐ中へ案内します。ついてきてください」
そうして、翔は伊織についていく形で、家の中に入った。
この家は、洋風というより、映画やアニメで見た西洋の家といった感じで、ただただ豪華な家といった印象を持った。そのため、翔は先ほどよりも現実感がないといった考えを強く持った。
そうした形で圧倒されていると、奥から年配の男性がやってきた。
「おまえが翔か?」
どこか威圧するような雰囲気の男性を前に、翔は少しだけ戸惑いつつ、頭を下げた。そして、この男性が団司だろうと確信した。
「はい、翔です。これから、よろしくお願いします」
そう言ったものの、その言葉は、どこか団司に届いていないように感じた。
「よろしくしなくていい。私はいつも部屋にいるから、会うこともほとんどないだろう。おまえの世話は伊織がする。それと、何か指示がある時も、伊織が伝える。おまえは、その指示に従え」
この時点で、団司は自分と温かい家庭を築きたいといった気持ちが一切ないことを理解した。そのうえで、翔は言いたいことがあった。
「わかった。その通りにする。だが、俺はしないといけないことがあるんだ。そのために、自由に動ける時間がほしい」
「勝手にしろ。金を使いたいなら、いくらでも用意できる。私の指示に従うなら、それ以外は何をしてもいい」
もしかしたら、束縛されるかもしれないといった不安があったものの、そういうことはないようだと知って、ひとまず安心した。ただ、それ以上に、この堂崎家が異常だと強く感じた。
堂崎家の人間としては、団司一人しかいないとのことだった。そうなると、ここに引き取られた翔は唯一の家族ということになる。しかし、団司は翔と家族のように過ごす気が一切ないようだった。
お手伝いとして住み込みで働いている伊織も、あくまで団司の指示を聞くだけといった形だった。また、学校などへ通っている様子すらなく、どういった経緯でここにいるのかだけでなく、どんな人物なのかも、一切わからなかった。
ただ、復讐を目的としている翔にとって、こうした関係はむしろ都合がいいと感じた。そのため、特に意見を言うこともなく、従う形にした。
その後、団司とは何度か会う程度で、途中からは一切会うことすらなくなった。
また、食事も当初は伊織と一緒にリビングで取っていたものの、なるべく人とかかわりたくないといった思いもあったため、ある時から食事を部屋まで持ってきてもらい、一人で食べるようになった。
そんな異常といえる堂崎家で暮らしつつ、翔はライトに近付こうと行動を始めた。それは、いかにも不良といった雰囲気の服を着たうえで、夜の街を徘徊しつつ、ライトのことを知っている人がいないかと聞き込みをするといったものだった。
そうしていると、時には聞き込みをした相手が怒り、そのままケンカになることもあった。ただ、翔は独学で覚えた格闘技を駆使して、そうした者を相手に圧倒した。
そうしたことがありつつも、ライトに近付くことはできないまま、時間だけが流れた。その間、翔に対して団司から指示のようなものは一切なかった。そのため、このまま何の指示もないんじゃないかとすら思えた。
ただ、春を迎えたところで、伊織から翔に話があった。
「翔様、団司様からの指示です。四月から、城灰高校に通ってください」
「高校に通えというのか? 俺はしないといけないことがある。それに、今更高校に行ったって、勉強に追い付けないだろ」
「これは、団司様からの指示です。従ってください。学力が心配なら、こちらに教材を用意しましたので、使ってください」
断ることはできないのだろう。そう思って、翔は素直に従った。
それから、ある程度自習という形で勉強したことで、すぐに学力は追い付いた。そのうえで、翔は城灰高校に入った。
どうやったかわからないものの、堂崎翔という人間が、ずっと以前から存在したかのように経歴が作られたため、翔はそれに従った。その代わり、緋山春来として生きていた自分は、とにかく隠し続けた。
そして、学校では、なるべく人とかかわらないようにした。
そうして、ただ復讐することだけを目的に生きていこうと、翔は強い決心を固めた。




