ハーフタイム 97
春来は、「あいつ」の姿を確認すると同時に、立ち上がった。
「冴木さん!」
「ああ、わかっている! 車に乗れ!」
休憩していたものの、冴木もすぐ気付いた様子で、運転席に座った。そのため、春来と春翔は、後部座席に座った。
そうして、冴木はエンジンをかけると、車を走らせた。その間に「あいつ」は、バイクで迫ってきたものの、どうにか逃げられるだろうと思った。
しかし、こちらの想定と違い、「そいつ」は、こちらを追いかけるというより、むしろ突撃するといった形で、速度を一切緩めることなく迫ってきた。そして、こちらが出口に向けて、丁度右へ曲がろうとしていた時だったため、バイクは運転席の側面辺りにぶつかり、大きな衝撃があった。
それにより、運転席の横のガラスが割れただけでなく、冴木が上手く制御できないまま、車は柱にぶつかって止まった。
「この車は無理だ! 急いで乗り換えろ!」
冴木の指示を聞いて、春来達は車を降りた。しかし、「そいつ」が前に立ちはだかり、足を止めた。
「二人で逃げろ! 俺が時間を稼ぐ!」
そう言うと、冴木は「そいつ」に向かっていった。
しかし、「そいつ」は冴木を払うようにして横に吹っ飛ばすと、そのまま春来の方に向かってきた。また、その手には、ナイフが握られていた。それは、春来を殺すことしか目的にないといった雰囲気だった。
これまで、合気道などを冴木から習ったのに、それを活用しようといった思いすら浮かばないまま、春来は大きな恐怖を感じつつ、身動きが取れなくなってしまった。
「春来!」
ただ、春翔の声が聞こえて、このままでは春翔まで「そいつ」に殺されてしまうかもしれないという考えが生まれると同時に、春来は「そいつ」に向かっていった。
この時、春来は「そいつ」をこのままにするより、何かしらかの方法で止めるべきだと直感的に確信していた。その結果、頭で考えるより、自然と身体が動くような形で、このような行動を取った。
合気道は、相手の攻撃を受け流す、いわゆるカウンターに近いもので、そのために相手の攻撃を誘うような行動も重要になる。そうしたことを理解したうえで、春来から攻撃を仕掛けるかのように、「そいつ」のすぐ近くまで距離を詰めた。
その直後、想定通り、「そいつ」はこちらに向かいつつ、ナイフを振ってきた。それに対して、春来は体勢を低くすると、その攻撃をかわした。それと同時に、「そいつ」の足を引っかけるようにして、蹴りを与えた。
それは、サッカーでファールになる可能性の高いラフプレーの一つで、春来は試合で何度も受けてきたため、しっかりと対策した。それだけでなく、自分がファールにならないよう、あえてどういったものかを理解したうえで、春来自身もそうしたラフプレーができるようになっていた。
足をかけて転ばせるというのは、単純な悪戯でも行われるものの、対策していないと避けるのは難しい。「そいつ」も同じで、特にサッカーの知識や技術も活用した春来の蹴りは、「そいつ」の体勢を崩し、転ばせることに成功した。
その拍子に、「そいつ」がナイフを落としたため、少しでも攻撃手段を減らそうと、あえて「そいつ」に近付きつつ、春来はナイフを拾った。それと同時に、「そいつ」が転んだ際、ヘルメットが少しずれて、肌色が見えていることに気付いた。それは、全身が真っ黒なため、より目に入った。
この時、考えるよりも先に、そこへの攻撃は無駄にならないという結論だけを春来は持った。そして、その結論に従う形で「そいつ」に駆け寄ると、見えている肌色に向けて、ナイフを振り上げた。
「ダメ!」
ただ、そんな春翔の声が聞こえると同時に、自分がナイフを刺そうとしている場所が、首だと春来は理解した。そうして理解した瞬間、春来の手元が狂い、ナイフはヘルメットに弾かれた。
その直後、「そいつ」が身体を振るようにして立ち上がると、春来はナイフを落としつつ、吹っ飛ばされてしまった。それからすぐに体勢を戻したものの、すぐ目の前まで「そいつ」が迫ってきていることを確認すると、また恐怖を感じて動けなくなってしまった。
「春来、そいつの相手をするな! すぐに逃げろ!」
そう言うと、冴木はまた「そいつ」に迫り、どうにか押さえ付けようとした。
それから少しの間、春来の身体は硬直したように動かなかった。その時、そんな春来の腕を春翔が掴んだ。
「春来! 逃げるの!」
春翔は、強く訴えるような形で、大きな声を上げた。それを受けて、春来は戸惑いつつ、春翔や冴木の言う通り、逃げることを選択した。
そして、春来は春翔と一緒に、別の車に向かった。
「僕が運転するから、春翔は……」
車の近くまで来たところで、春来は何か嫌なものを感じて、自然と振り返った。
何があったかわからないものの、冴木は左肩を怪我したようで、血が流れていた。そして、「そいつ」は冴木の妨害を振り払った形で、こちらを向いていた。
とはいえ、ある程度の時間、冴木が止めてくれたようで、「そいつ」との距離はそれなりにあった。また、「そいつ」の足がそこまで速くないようだということは、これまでのことで何となく理解していたため、このまま何もなければ逃げられるとも思った。
しかし、「そいつ」の手に銃があり、しかもその照準の先に自分がいると理解した時、春来は自らの死を覚悟した。
ただ、このような状況にもかかわらず、「そいつ」から殺気のようなものは一切感じられなかった。それは大きな恐怖で、震えることすらできないほど、春来は身体が固まってしまった。
その時、春来は春翔に突き飛ばされた。その瞬間、何発か銃声が鳴った。
それから少しの時間、何があったのか、ほとんど春来は覚えていない。記憶にあるのは、いつの間にか車に乗っていたところからだ。
「春来、春翔はもう助からない。だから、最期の言葉をしっかり聞いてやれ。理解できなくてもいい。何を言われたか、しっかり覚えるんだ」
冴木は運転しながら、そんなことを言った。そして、春来は顔を下に向けた。
春来は、春翔を抱きかかえていた。ただ、春翔の腹部や胸部からは、血が溢れていた。
「……春翔?」
春翔は、呼吸するのも苦しそうだった。そして、春翔が自分を庇って銃弾を受けてしまったことを、春来は理解した。
「そんな……僕のせいで……」
春来は、何が起こったかを理解すると同時に、それを受け入れられず、混乱してしまった。そして、ある考えに少しずつ浸食されていった。
「僕があいつを殺さなかったから、こうなった」
ナイフを振った時、手元が狂わなければ、「あいつ」の首を切って、殺せていたはずだ。そうしなかったから、こうなってしまった。春来は、そんな考えしか持てなかった。
「僕のせいで……」
「春来、私の話を聞いて」
春翔は、呼吸することすら苦しい様子なのに、それでも必死に話し始めた。そのため、春来も必死に春翔の話を聞こうと、春翔の目を見た。
「春来は何も悪くないよ。だから、自分のせいだなんて考えないで」
今、春翔は少しでも言葉を伝えようとしてくれている。それに対して、春来は何も言葉を返すことなく、ただ聞くことに集中した。
「命を懸けて守るなんて、絶対にしないって約束したのに、破っちゃってごめんね。勝手に身体が動いちゃったの。でも、後悔はしていないよ」
春翔は、苦しいはずなのに、笑顔だった。
「それに、前も言ったけど、誰かを恨んだって、何も変わらないよ。世の中、許せない人はいると思うけど、誰かを恨んだり、復讐しようなんて思ったり、そんなことだけはしないでよ」
そう言われたものの、春来は受け入れることができなかった。そして、言葉にはしなかったものの、そうした春来の考えは、春翔に伝わったようだった。
「春来が人を殺したり、復讐したり、そんなことをするのは嫌なの。だからお願い。そんなことしないで。どうしよう……私、死にたくない。春来を一人にしたくないよ」
春翔は、悲しそうというより、どこか焦っているような様子だった。ただ、軽く目を閉じた後、また笑顔を見せた。それは、春翔にとって、最期の瞬間に見せたい表情なのだろうと感じた。
「春来、一人にならないで。一人で悩まないで。きっとこの先も、私と同じか、それ以上に春来のことを大切に思ってくれる人がいるから、その人の思いに応えてあげて。その人のことを大切にしてあげて」
そして、春翔は話を止めた。というより、先ほどよりも苦しそうで、話せなくなった様子だった。そんな春翔を見て、春来は黙ったままでいるなんてできなかった。
「春翔!」
「春来……愛しているよ」
春翔は、最後にそう伝えると、満面の笑顔を見せた。そして、そのまま目を閉じると、眠ったかのように穏やかな表情になった。
「春翔?」
春来は、短い間に、多くの人の死に触れてきた。そのせいで、春翔が目を開けることはもうないということが、自然と理解できてしまった。そのため、名前を呼び続けることもなく、言葉を失ってしまった。
それからしばらくの間、春来も冴木も何も話さず、ただ車の音だけが響いていた。
そうした中で、切り出すように冴木が口を開いた。
「守ることができなくて、すまなかった。俺の力不足だ」
冴木は、本当に申し訳ないと思っている様子で、そんな言葉を口にした。ただ、その際、どこか声に震えがあることに、春来は気付いた。
「何でまた潜伏先が特定されたのかわからないが、こうなると、このまま移動し続けるのがいいかもしれない。いや、もしかしたら監視カメラの映像などから、位置を特定している可能性もあるな。それだと、移動し続けるのはむしろ危険か。だが、安心しろ。ここまで追い込まれても、まだチェックメイトじゃない。あと24時間もないんだ。とにかく逃げればいい」
言葉にも焦りがあり、その中には聞き慣れない単語もあった。思えば、これまで冴木は、自分のことについて話すことがほとんどなく、普段何をしているのかすら話していなかった。銃を持っていることから、一般人ではないと感じていたものの、今でも春来は冴木のことをほとんど何も知らない。
それは、冴木の中でどこか一線を引いていたからだと感じるとともに、今の冴木にそんな余裕がないことも感じた。そうした中で、春来はある質問をした。
「冴木さんは、今までに人を殺したこと、ありますか?」
そう聞くと、冴木は戸惑った様子を見せた。
「何で、そんなことを聞くんだ?」
「冴木さんは、人を殺したことがないと思ったからです」
その言葉に、冴木は何も返さなかった。ただ、それが答えそのものだった。
そして、春来は決断した。
「冴木さんは、逃げてください。ここからは、僕一人で大丈夫です」
そう言うと、冴木は驚いた様子を見せた。同時に、春来の考えを察した様子で、首を振った。
「死のうだなんて考えるな! 俺が最後まで守る! だから、そんなことを言うな!」
「大丈夫です。僕は生きたいと思っています。何より、死ぬのは怖いです」
それは本心だったものの、こうして言葉にするのは、強がりに近かった。
「でも、僕はあいつを前にして、恐怖を感じました。冴木さんもあいつに恐怖を感じていますよね?」
「それは……」
春来の質問に答えることなく、冴木は言葉を詰まらせた。
「冴木さんは強いです。あいつを相手にしても、殺されることはないと思います。でも、あいつから僕を守ることは、冴木さんでもできないと思います。現に、僕を守ろうとしたから、肩を怪我したんですよね?」
運転しているものの、冴木の左肩の傷は深いようで、左腕が上手く動かせていない様子だった。
そして、春来の言葉を、冴木は一切否定しなかった。それは、冴木も自覚しているということを表していた。
「だから、冴木さんは逃げてください。それで、その力を、別の形で役立ててほしいです」
「いや、俺は……」
「もう、僕のせいで誰かが死ぬのは嫌なんです。僕のためと言うなら、僕のために逃げてください」
そこまで伝えると、冴木は悔しそうに唇を噛んだ。
「……途中で車を降りる。この車は、春来が使ってくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
「感謝なんてするな。俺は何もできなかった。本当にすまなかった」
それから、春来と冴木は何も話すことなく、またしばらく車を走らせた。そして、人気のない道に入ったところで、冴木は車を止めた。
「俺はここで降りる」
「はい、わかりました」
「その手だと、運転しづらいだろう。拭いた方がいい」
そう言うと、冴木はウェットティッシュなどを使い、丁寧に春来の手を拭いた。それは、冴木にとって、春来のためにできる最後のことと思っているように感じて、春来は何も言うことなく、その様子を見ていた。
「それじゃあ、俺は行く……逃げる」
冴木は、あえて「逃げる」と言い換えた。その言葉に対して、春来は軽く笑顔を見せた。ただ、もう言葉を伝えることなく、黙ったまま頭を下げた。
そして、春来は運転席に座ると、車を走らせた。




