第十四話 遊びは始まったばかりですわ
数字の羅列と紙の擦れる音だけが続く。とはいえ、帝国側にとっては見慣れた数字。驚いているのは王国側だろう。
「この条項をご覧くださいませ、殿下」
私はある契約書を取り上げ、該当箇所を指で軽く叩く。
「講和条約第七条。『王国が賠償金支払いを滞らせた場合、帝国は北方領の再占有を含む条件見直しを行える』」
「……分かっている。だが、帝国もそこまでのことは」
「その条項に殿下の署名と印章が並んでいるのは、ご記憶になく?」
「わ、私は……」
「わたくしが先王陛下の元で作成した草案には、この条項はございませんでしたわ。帝国側が示してきた案に王国側の要求を押し込み、その結果生まれたのがこの形。『今だけ楽になりたい』というご希望を反映した結果ですわね」
セシリアが思わず口を挟む。
「そんなはず……リーティア様が帝国に有利なように……」
「わたくしは帝国ではなく王国側の契約統括者でしたわよ? 当時は」
冷静に言い切ると、謁見の間の空気がぴたりと止まった。
「わたくしが提示した原案は王国にとっては苦しくても十年後に残る形でした。ですが殿下と当時の陛下は『今は民心が持たない。愛ある政治を示さねばならぬ』と仰って、一部条項の先送りと負担の後ろ倒しをご希望なさいました」
「そ、それは……」
「当然そのように修正いたしましたわ。契約とは望まれた形で結ぶものですもの」
私は次の書類を重ねる。
「こちら王都大聖堂への支援金に関する補助金条項。こちらも『聖女の活動を広く示すため、一時的に増額を』という殿下のご要望でしたわね」
視線をゆっくりとセシリアに向ける。
「セシリア様の名義で決裁されておりますわね」
「そ、そんな私、そこまで……」
「ご安心くださいませ。数字は感情ほど残酷ではございません。こうして丁寧に追えば誰がどこで何を選んだのか、きちんと辿れますもの。まとめますと、王国が今立ち行かなくなっているのは、わたくしの署名があるからではございませんわ。殿下と王国の皆さまが望まれた通りに契約を『優しく見せかけた』からです」
シリウス殿下は、その場で拳を握り締めた。
「では、あの日。お前を断罪した時、私は……」
「ええ、ご自分で結んだ契約の結果をすべて一人の『悪役』に押し付けようとなさった。数字を見ずに物語だけを守ろうとして。実に分かりやすい構図ですわ」
ヴォルフガング陛下が低く笑う。
「なるほどな。だからこそ王国は一度崩れかけた、というわけか」
「陛下のお目にかなう説明になりましたようで光栄ですわ」
◇
「……リーティア」
帝国側の儀礼が一旦終わり、使節団が控室へ移る直前。シリウス殿下が震える声で私を呼び止めた。
「少々、お時間をいただけないか」
「帝国の客人として礼儀は守っていただきませんと。場所を変えましょう」
小さな応接室。
帝国の紋章だけが飾られた簡素な部屋。
向かい合って腰を下ろすと、以前との立場の違いで笑いさえ溢れそうになる。
あの時は、私が一段下。
今は王太子殿下が帝国側の応接室で椅子の端に腰掛けている。
「あの日のことを詫びようと思って来た」
最初に口を開いたのは、意外にも彼の方だった。
「私はお前を愛したことはなかった。それは今も変わらない。だが――」
「相変わらず正直なお方ですこと」
「黙って聞け。お前がしてきたことを理解しようともしなかった。王国がどうやって立っていたのかも。『悪役』にすべて押し付け、自分だけが綺麗な場所に立とうとした。そのツケが今、国中に回っている」
「なかなか良い自己分析ですわ」
「……だから今度は正式に頼みに来た。王国を助けてくれ」
「断りますわ」
即答すると、シリウス殿下の顔が固まった。
「ま、待て! 王国は本当に――」
「先ほど陛下の前でも申し上げましたでしょう。わたくしは帝国財政顧問です。帝国の利益のために働く者。元王国の便利な金庫番ではございません」
「それでもお前は民を見捨てるような真似はしないはずだ」
「面白いことを仰いますのね。わたくしを断罪した時には、そんな期待など一欠片もありませんでしたのに」
「違う! あの時、私は怖かったんだ。お前が正しくて自分たちが間違っていると認めるのが」
私はため息を一つだけ吐き、椅子の背にもたれて彼を見た。
「感情の整理をなさるのはご自由ですが、わたくしに謝罪されても数字は一つも動きませんわ」
「くっ……」
「王国を本当に救いたいのでしたら、まずはこちらにサインなさってくださいませ」
シリウス殿下は紙を手に取り内容を読むと、その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「こ、これは……」
「『王国国政監査契約書』ですわ。帝国、王国共同監査団による財政介入と、主要契約の再設計を正式に認める文書。王家の予算も、王都貴族の利権も、すべて含めて」
私は淡々と続ける。
「わたくし個人が王国を助けることはもうございません。ですが帝国顧問として監査団を率いることならできますわ。違いがお分かりになります?」
「つまり……」
「今度はわたくし一人ではなく、帝国まるごと首を突っ込む、そう申し上げておりますの」
「そ、それは王国の独立を捨てろと言っているに等しいぞ!」
「いいえ、殿下。もうとっくに捨てていらしたでしょう? あの日、数字より『きれいな物語』を選んだ時に」
シリウス殿下の手が、わずかに震えながら紙を握りしめた。
「このサインをすれば我らは二度と自分だけでは立てなくなる……」
「ええ、ですが民は生き延びるでしょうね。どちらを選ぶかは殿下次第ですわ。今度こそご自身の手で」
「……ペンを貸してくれ」
かすれた声で彼が言うと、私は静かにペンを差し出す。あの時と同じように、その指先が紙へと伸びるのを見届ける。
(今度こそ、最後まで読みなさいませ)
インクが滲み、署名が記される。
――王太子シリウス・アウルム。
彼はペンを置き、深く息を吐いた。
「こ、これで満足か……?」
「いいえ」
首を横に振ると、彼が驚いた顔をする。
「満足などという感情を今さら殿下に求めるほど、わたくしも若くはありませんもの」
「では、これは……」
「契約ですわ。殿下が『愛』とやらのために投げ捨てたものを、やっと拾い直しただけです」
立ち上がり、軽く裾を払う。
「これでようやく、あの日の断罪の帳尻が合いましたわね」
◇
その夜。帝都ヘルツェイン、リーティアの執務室。
「――というわけで、王国は帝国との共同監査を正式に受け入れました」
クラウスが興奮気味に報告書を置いた。
ミーナがお茶を置きながら、そわそわしている。
「リーティア様、シリウス殿下が泣きそうな顔してたって廊下で噂になってました」
「そうでしょうね」
「さすがにちょっと可哀想かなって……」
そう言われて、私は少しだけ考えるふりをした。
「民に押し付けてきたものを自分の手元に引き取っただけですわよ?」
「……あ、そうか」
「あの方が本当に可哀想になるのは、これから数字と向き合い始めてからですわ。逃げなければですが」
レオンハルト殿下が笑う。
「相変わらず容赦はないな」
「数字の前では誰も平等ですもの。陛下も、殿下も、王太子殿下も、聖女も。わたくし自身も含めて」
そこで机の端に積まれた別の封筒に視線を落とす。
「所で殿下、こちらをご覧になりまして?」
「ん?」
封蝋に刻まれているのは、波と船の紋章。
「西方商業都市エルネシアより『帝国財政顧問殿に当都市、及び周辺諸都市連合の財政再建について助言を仰ぎたく』。だそうですわ」
「もう次の国が、お前に目を付けたのか」
殿下の呆れた声に思わず微笑が溢れる。
「大陸は広いですもの。王国だけで終わらせては勿体ないでしょう?」
「帝国一国だけでも手一杯だと思うがな」
「積み木は高く積んだ方が崩れ方が綺麗ですわ」
ミーナが不安そうに手を挙げた。
「あ、あのリーティア様。まさか大陸全部を……?」
「さすがに一人では大変ですわね。いずれは部下も増やさないと」
冗談めかして言うと、レオンハルト殿下が肩をすくめた。
「世界が本格的にお前の遊び場になる前に、帝国の帳簿だけは健全なまま保っておきたいものだな」
「そこはお任せくださいませ。帝国はわたくしにとっても『今の所』は一番居心地の良い飼い主ですもの」
窓の外には冬の星がまたたいている。
王国の上にも、エルネシアの上にも、同じ星空が広がっているはずだ。
(さて。次はどこの契約書にわたくしのサインを並べましょうか)
ペンを取り、新しい白紙に手を伸ばす。
断罪された悪役令嬢の遊びは、まだ終わらない。
ただ一つ変わったのは、今やその遊びに振り回されるのは一つの王国だけでなく、大陸そのものになる、ということだけだった。
――帝国財政顧問、リーティア・ヴァーレン。
そして大陸中の契約書に名を刻み続ける、ただの悪役令嬢の署名者として。
これにて第一章が終わり、次話から第二章に入ります。
ブックマークと、↓【★★★★★】の評価や、リアクションを是非よろしくお願いしますm(__)m




