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過ぎたもの

脇役たちの問題を解決して、あと5、6話くらいで終わらせられる予定ですので、もう少しお付き合い頂けると嬉しいです。

「遠くから、サミア様の姿をお見かけしたので、慌てて走って来てしまいました」


 走るには不向きそうな、教皇らしい長めの法衣の襟元を崩し、息を整えながら、マルクス・ミュラー教皇は嬉しそうに微笑んだ。

 私の前世が天使だったものだから、信仰心の強いマルクスは私に重めの好意を寄せてくれている。しかし、ディミウスを連れている今だけは彼に会いたくなかった。


「何も走って来なくても、用があるならマルクスが呼んでくれたら良かったのに。忙しいんだろう?」


 最近のマルクスは、戦地から帰還した聖女たちを『説教』していると聞いていた。聖女たちは戦いで負傷した兵士たちを癒すうちに、自分たちが一番偉いのだと驕り高ぶり、魔導師たちを巻き込んで、対立を生んだ。


 私はどうしたものかと思っていたが、聖女たちが所属するのは教会なので、教皇たるマルクスが個別に彼女たちを呼びつけ、半日くらいかけた長いお説教という地味に恐ろしい罰を与えている。


 マルクスにはそういう厳しい一面があるということだ。私はディミウスの存在をどうにか隠したく、さりげなくかき抱く。ディミウスは罪なき子犬に見えてくれないかな。


「いいえ、敬愛するサミア様を呼びつけるなど、恐れ多いですから……おや?」


 マルクスの神秘的な紫の瞳が、私の腕の中にいるディミウスに向いた。


「あ、マルクス。私は急用を思い出した」

「お待ち下さい」


 彼の紫の瞳は、魂に刻まれた過去を見透す、とんでもない能力を有している。マルクスの双眸が強く私たちを見据え、何だか時空が歪んだみたいな感覚で、私は背筋がゾクッとした。


 逃げたい気持ちから、じりじりとディミウスを抱いたまま後退りをしてしまう。ディミウスが何事かと、普通の子犬のふりをして鼻を鳴らした。だけどそんなことをしても、マルクスには過去の行いが全てお見通しなんだ。


「み、見逃してくれ! ディミウスは十分過ぎるくらい、自分で自分を罰しているんだ」


 私は視線に耐えられず、すぐに許しを乞うた。ディミウスを庇い、甘やかすのは、兄だからと贔屓しているに過ぎない。ディミウスが魔王と恐れられていた頃は、この地上の全ての生き物を根絶やしにしようと多くの命を奪った。その中にマルクスの知人や、大切な人もいたかもしれない。


 だけど、だけど――


「ご心配には及びません。私は、サミア様が望まぬことなど致しませんよ」


 何て優しく響く声なのだろう。マルクスは若くして教皇を務めてるだけあるなと感動してしまう。マルクスは元々整った顔をしてるが、人類史上最高の教皇に思えてきた。


「本当に? いいのか?」

「ええ。それに何をしても、過去は覆らないものです。ですがもしよろしければ後学のため、もう少し見せて頂きたいです。長い長い月日を、共に過ごされたのですね。ああ、そうだったのですか……」


 マルクスの不可思議な紫の瞳は潤み、涙が静かに頬を伝った。まあ別に減るものじゃないし、と私は好きに過去を見てもらう。


「おい」


 私とマルクスはしばらく黙って立ち尽くしていたが、沈黙を破ったのはディミウスだった。子犬が低い声で、おいと喋りだしても、もちろんマルクスは驚かない。幻を追うかのように、ぼんやり遠くを見つめている。


「この気持ち悪い男、何か見えてるのか?」

「こら、口が悪いぞ。マルクスは魂に刻まれた過去が全部見えるんだ」

「何だと?」


 ディミウスは猛然と手足や尻尾を捩って暴れだした。私は絶対に逃がさないよう、ぎゅっと抱きしめる。


「ちょっと、ディミウス?」

「放せ! お前は馬鹿か! 私はこんな男に過去全てを見られたくないぞ! ベルギエルの美しい姿も、私と神だけのものだ! もう見せるんじゃない! 行くぞ!」


 私が天の国に居た頃の名前で呼ぶくらいに、ディミウスは興奮して怒ってるようだった。ディミウスの声だけは昔のままだから、ベルギエルと呼ばれると懐かしくて切なくなる。

 ――あと、ベルギエルのときは今よりずっと美人だったからな。私の過去の姿を知らないシウはかわいいと言ってくれるし、今の普通くらいの容姿の方が、生きるのに不都合ないけれど。


「ええ本当に、美しい日々でしたね。まさに楽園の暮らしです」


 ぽろぽろと大粒の涙を溢し、真っ直ぐな金髪を揺らしながらマルクスは何度も頷いた。大長編の小説を一瞬で読むみたいに、ディミウスの過去を読み取ったようだ。


「くそっ、マルクスと言ったか? 気持ち悪い能力だな。いくら神が生命の不規則性を好むとはいえ、許されざる存在だ」

「だからディミウス、そんな言い方をするんじゃない」

「大丈夫です。罵倒には慣れております」


 余裕たっぷりのマルクスは、本当に慣れてるみたいで気にしている素振りはなかった。懐から取り出したハンカチで涙を拭う。


「私の能力を知りつつ、寛大なお心で受け止めてくれるのはサミア様だけですよ。それ故に敬愛しているのです」

「だってマルクスには世話になったから」


 私が完全に前世の記憶を思い出せたのは、マルクスがきっかけを与えてくれたからだ。でも、マルクスはこの能力によって人に避けられている。今だって、教皇なら神官を連れ歩いていても良さそうなのに、ひとりらしかった。


「落ちついたら、また時間を作って下さると嬉しいです。サミア様と過ごすひとときが、私にはまさに天国ですから」


 折り目正しく礼をしたマルクスは、私たちの前から去って行った。また聖女に長い説教をしなきゃいけないらしい。聖女たちも過去を一から十までお見通しのマルクスに説教されるのは、なかなか恥だし辛いだろうな。マルクスが厳格という噂も広まってしまいそうだ。


「ディミウスは、無罪放免で良かったな」

「ふん、あんな若造に説教される覚えはない」


 ぼんやり立ってるのもおかしいので、私は散歩を再開した。薄青い空には羊の群れのような雲が伸び、どこかから落ち葉を燃やす匂いが風に乗って運ばれてくる。


「ところでマルクスはうんうん納得してたけど、何のことだったんだ?」


 私はディミウスがやったことの全容を未だに知らない。なぜ神の力を盗んだのかも、何を考えていたのかも、そういえば全部、私の推測に過ぎなかった。


「さあな。ベルギエルは私と違って単純で楽観的に作られてるからな。言ったとて、お前には理解できぬ」

「ふーん」


 私はディミウスを抱き直し、風で髪が当たってかゆい頬をかいた。


「そういうとこだぞ」


 呆れたように、ディミウスが呟いた。

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