7. 佳境
横浜市内の資料館にて、年老いた磐座の子孫と出くわした翌日。その日こそが意図せず予約してしまった舞台の公演日であった。
――そういうこと、か……
薄暗い館内にて腰を下ろすなり、ナツメは深い深いため息をつく。束ねてもいない漆黒の髪のサイドを耳にかけ、同色の瞳を上向きに。
銀縁の眼鏡を通して臙脂色の幕を見つめてやっと唇を結ぶ。
再び君に逢える。
その望み一つでここまでやって来た。
演じるのはあくまでも役者。君ではないとわかっていても、そこにはきっと君の生きた軌跡が描かれている。
春日雪之丞役に抜擢された俳優はとりわけ表現力の優れた期待のホープなどと呼ばれているらしい。
幽体世界を本来とする私にとっては名も知らぬ者だった。しかし、どうせ……と捻くれるよりかはおめでたく期待をした方が楽しいのではないだろうか。こういうときこそ“踊る阿呆”になった方が人生得するというものだ。
待とうではないか。
愛しき君の残像を。
あと数分程で幕が開く。楽しみにさえしていた瞬間だというのに……
“真夏の雪”
いつか私自身がそれとなった。そして君に伝えることが出来なかった。
――夏と冬。共に在ったら素敵だと思わぬか?――
いつか自分で口にした。君の冷たい手を握りながら、晴天に舞い散る雪へ託した私なりの意味。
時折乾いた音を立てるパンフレットに視線を落とすと、早くも視界が滲んでくる。
“ご来場の皆様。本日はお足元の悪い中、お越し頂きまして誠にありがとうございます”
(足元? 悪かっただろうか?)
ぼんやりとした意識の中でナツメはふと思い出す。
そういえば雨だったな。哀しき冷感を纏ってさめざめと降り注ぐ……冬樹さん、貴方を見送った日に、よく……似ていた。
――冬樹さん。
ユキと同じ魂である貴方にも、きっと……逢えますよね……?
それなりに人気の舞台であるといつか冬樹さんが言っていたが、まさかここまで賑わうとは……と驚きを隠せなかった。こうなるとチケットを入手出来たのだって何かの導きとしか思えない。
盛大なる歓声と拍手が上がると共に、一人っきりのナツメは人知れずそっと瞳を閉じたりなんかした。
「キッスもすればいいのだよ!」
革命児の真似事なんぞして得意げに言ってのける前世の私と
「恥ずかしくないのか! こんな道の真ん中で!」
愛らしく顔を真っ赤にしてまごついている前世の君。
今この場に在るのが嬉しくて、切なくて、目尻がじんわりと滲む感覚を覚えた。
実際にはもう遠い過去だ。触れることは出来ないのだ。だけど、ユキとはまた違う形で愛し合った夏呼と、愛を与えたかった夏南呼がこうして残してくれた。だからこそ……
見届けると決めたのだ、前世と共に。
夏生まれの君。
最愛の魂。
――ユキ……
今日は君に逢いに来たよ。
秋雨に濡れた今日。待ち焦がれたこの日に、私は……
私の中の曇り空よ、どうか割れて。晴れの陽射しを見せてくれと願った。
更なる糸口が見つかるやも知れぬ演劇からもちろん目は離さぬが、どうにも蘇って仕方のない記憶がある。ここはいっそ観念し、重ね合わせて観てみようと思う。
昨日の資料館にて私は新たな情報を得た。
本来なら厳重に守られているべきであるシャーマンの歴史に触れた。こんなにも容易く……という罪悪感こそあれど、やはり知りたいという欲求の方が遥かに勝って、磐座の子孫である老紳士の後に続いた。
驚くことに案内してくれた彼・磐座氏は
――何を見ても平然と振る舞うことを約束してくれますか?――
などと言いながら、すでにガラスケースの蓋を解錠していた。まだ頷き一つ示していないうちからだ。それでいいのか、管理人。
呆気にとられながらも私の身体はすでに前へとのめっていた。取り憑かれたように、食い入るように、小さく分厚い紙面を覗き込んだ。
幾度か視線を走らせた、行ったり来たりをひと通り繰り返したナツメはついに息を飲んだ。
そこには確かに記されていたのだ。
“生きながらにして黄泉の世界に渡りし者は、如何なる困難にあっても必ず帰還せよ”
“許されるのは一度きり”
「そん、な……っ」
とっさに手で口を押さえ込んで、大声を上げることだけはかろうじて避けた。ついさっき交わしたばかりの管理人との約束をこれ以上破るまいと息を整え、恐る恐る続きの一文に目を通した。その直後。
八年間あやふやなままだった新月の夜の記憶が、磁石に吸い付く砂鉄の如くざわざわと這って形を成した。
思い出せなかったワダツミの“提案”が一つ脳裏に蘇った。あまりにも急速な覚醒に立っているのもやっとだったくらい。
ついに繋がった記憶。
これが事実ならば、ユキ、君は……!
やはりこのままではいけない。
変えねばならぬ!
新たな決意へと導くには十分な要素だったと言えよう。
激しく動揺していたものの、まずは予定通りに劇場へと赴いた。焦って突っ走って大事なものを見落とすなどもう御免だからだ。
舞台の上の躍動は絶えず続いていく。
君が私を失う瞬間まで。
そして私の最愛なる君が君を失う瞬間まで。
――ユキーーーーッッ!!――
断崖の遥か下まで身を投じた君に私の声は響かない。何故ならば、それは前世と今世の記憶を共に有する私にしか知り得ないことだからだ。
ああ、愛するユキ。
私の後を追ったりなどして……
そんな風に苦しく呻く、私の苦悩を舞台上で演じる役者たちはもちろん、この場に居る誰もが知らない。啜り泣く音こそ聞こえど、届かない。
真夏の雪……それだって、この世界では“夏生まれのユキ”として語り継がれていることを知った。そればかりではないのだよ、という、私の声だって届きはしない。
友情の物語。
パンフレットのキャッチコピーで既に気付いてはいたが、“否や”主張することもかなわない。
これが愛欲だと知る者は……もうこの世界には存在すらしないほんのわずかな人物に限られているのだろうと感じたナツメは、人知れず、声にもならない呻きを零した。
だけど仕方がないのだ。
“お母様はお父様を守る為にこの事実を伏せたのです”
冬樹さんの実家近くの図書館にて目にした記述だ。夏南呼も言っていたではないかと思い出す。
あの時代で、更に血縁上の父に先立たれた母娘は、秋瀬家と春日家が共に揉み消そうとしている事実を公には出来なかった。
だけどユキとカナタの絆だけは世に届けたいと精一杯を尽くしてくれたのだ、きっと。
ここから動くのは私の方だ。
改めて決意を実感すると共に次の行き先も定まった。
物質世界よ、ありがとう。
次に逢うのは今世を終えた後。そう遠くない頃に世話になるかも知れぬな。
感傷に浸るのもここまでだ。舞台は間もなく幕を閉じる。私はこれより幽体世界へ帰還する。
尋ねるべき者、そして提案すべきことも、すでに定まっているのだよ。
受理してもらえるかどうかなど会ってみなければわからないと思った。
それでも強き漆黒の眼差しものにしたナツメは、熱い頰の上に流れ星を伝わせながら、願う。
――ワダツミよ。
時間はかかったが、あなたが私に伝えてくれたことならもう全て思い出した。私以外には触れさせまいと遮ったあなたの思惑も、今ならばいくらかわかるような気がするよ。
だからこそ受け止めてほしい。
ユキを唯一無二の魂と見定めた私には、もう、これ意外の選択などあり得ないのだよ。
私は……
私は、やはりこの縁を振り切ることなど出来ぬ。
他の誰でもない、彼と運命になりたいのだ……!




