11. 涙雨
「ほら、辛いんなら掴まれ」
いつだって私の心配ばかりをしてきたブランチは今日も私の顔色と歩みを案じている。重苦しい肉体、浅い息遣い、ぬかるんだ足元。
物質世界へ渡る申請はブランチが出した。私が間違ってもヒールの靴など発注しないようにと何から何まで決めたそうだが、確かにそれで正解だったかも知れぬと実感している現在。
九月十二日。喪服に身を包んだ私たちの立つ地にはしめやかな雨が降り注いでいる。
葬儀が執り行われるという彼の実家は、東京に近いながらも何処か現代離れしているのどかな田舎町に在った。
木造の橋から見下ろすと、やや淀んだ川の上を紅葉が滑っていく様。簾を下ろした家屋の一つには季節外れの風鈴が幾つもぶら下がって寒々しい音色を奏でている。家主の趣味か、あるいは品物なのか。
軒下に出されている番傘が目に止まると何故この時代にと思ったが、物珍しげに眺める人々はやけに背が高く彫りの深い顔をした人ばかりだ。おそらくは江戸情緒を売りにした町なのだろう。
これ程特色の濃い町並みだが、ひとたび大通りへ出たなら景色は至って現代らしいものへと一転するのだ。車が忙しなく行き交う向こう側には横広な白い建造物……どうやら大病院らしい。
閑静な住宅街が遠くに伺える脇道付近で 『磐座冬樹儀葬儀式場』と書かれた矢印付きの看板を見つけると、なんのことはない、私たちが時空を超えて降り立った神社から程ない場所だとわかった。
ブランチの渋い表情を見上げて更に理解する。我々はどうやら遠回りしてしまったらしい。
断崖絶壁の地で保護された翌日。衰弱した状態の私を案じながらもブランチが言ったのだ。無理にとは言わない。ただ時間が無いから今のうちに聞いておく、と。
――磐座冬樹の葬儀に行くか? お前――
ドナー登録をしていたそうだから臓器の摘出が予想される。それでも葬儀が執り行われるまでにさほど時間はかからないだろうと続けるブランチに
「もちろんだ」
ナツメは二つ返事で同意を示した。後を追えなかった以上、拒む選択肢など始めから有りはしなかった。
「立派な屋敷だな」
ため息を零すブランチに続いてナツメも見上げる。厳かな旧家といった雰囲気の大きな門の前には紛れもなく愛しい彼の名が記されている。この沈黙と浄化を模したような黒と白の装飾の中に、現実は残酷な程にありありとこの場に存在しているのだ。
(圭吾くん)
一人、すんなりと名の浮かぶ姿が目に止まるも、ナツメはさらりとその横をすり抜ける。もう彼のぎこちない関西弁を聞くことも、ましてや叱られることも叶いはしない。
いつかの日、今は亡き貴方が打ち明けてくれたこと。若かりし頃の一時期は広島に住んでいたというあの情報が皮肉にも今役に立った。大学病院で世話になった当時10歳の少女とその兄。天界への申請によって私たちはそのような設定になっている。
棺の側から戻ってきた参列者の中には、苦痛に顔を歪めたり目頭を押さえたりする者が
見ていられない。
ユキちゃん先生、可哀想……
こんなことを呟いては肩を震わせ嗚咽する。それ程までに……ひやりと汗が伝う感覚に怯えながらも、ナツメは一歩を踏み出して。
“冬樹さん”
決して口にすることの出来ないその名は胸に秘めたまま、目覚めぬ貴方を目指して歩んでいく。
「先生」
貴方は……
貴方は、一面の菊の花が織り成す雪景色の中で安らかな顔をして眠っている。
左寄りの額がガーゼで覆われているのを目にして容易に察する。きっと人目には晒せない程の損傷。痩せこけた頬、化粧が施されているものの、蝋のように血の気の無い質感の肌だとわかる。
まさに“変わり果てた”と言えるだろう。尚且つ死するにはあまりに若すぎる姿。皆が苦痛に咽び泣くのも無理はない。
それでも私は知っている。
「せん、せ」
例え変わってしまっても、痛々しくても、手向ける花を通してわずかに伝わった雪肌の冷感。垂れ下がりの瞼、奥に潜んだ優しいセピア色。
――ナツメ――
今でもこうして届いてくる柔らかい音色。貴方はやはり、変わってなどいない。
「…………っ……」
何故、何故……私は、同じ魂の死を二度も見なければならぬのだ。
気が付けばいつの間にやら崩れていた私は、喪主と思しき老紳士と葬儀社の係員に両側から支えられていた。続いて後ろから駆けつけたブランチが
「すみません。子どもの頃、広島で……随分と面倒を見てもらったものですから」
至って冷静な低いトーンで言い訳をしてくれた。
辛くないはずはないのだ、彼も。
雨傘を挟んで手を引かれ、帰路を辿る途中で隣を見上げる。先日病床の上の私へ語られた事実と推測を思い返していた。
「二度同じ世界に生まれた。その原因は、磐座家の強行手段よりかむしろ肉体を見捨てる行為の方だった可能性が高い」
そう語るブランチの手にはあの星幽神殿から届いた手紙があった。目にしたナツメも徐々に思い出していく。
“試練は現世を持って乗り越えなければならない”
“途中放棄をした場合、それは許されないカルマとして天界に記憶され、来世また同じ世に生まれ、同じ試練を背負う”
こうして噛み締めてみると、ごく自然に体内へ流れ込んでくる感覚。ユキの身に起こった不可解な事態を裏付けるものだとわかるのだ。
「事実、春日は断崖から身を投じてなお、すぐに死に至ることはなかった。漁師に引っ張り上げられて病院に運ばれて……その夜に息を引き取ったんだ」
明け方から夜まで。その間に幽体世界へ渡ったと考えられる。推測が語られるごとに私の中の記憶も断片的に引き出された。あの“ワダツミ”の声を介して。
“磐座家の人間は海に還りたがる習性があっての……”
「前世のユキは磐座家の人間ではない」
私が厳しく睨むとワダツミが首を横に振って正した。
“巫女と契りを交わしたのであろう? この時点で特異な霊力を引き継いだのじゃよ”
つまり、生きながらにして幽体世界へ渡るなど誰もが易々と出来ることではないということ。どうやらあれはシャーマンの能力を受け継ぎし数少ない者が為せる技だったらしい。
「幽体世界の森に迷い込んだ春日は意識もはっきりしないくらいやつれていたそうだ」
眉間に皺を刻みながら続けるブランチのそれにも納得がいった。本来なら得るはずのなかったシャーマンの能力。幽体と馴染むまでにはそれ相応の時間が必要だったはずだと。
「ちょうど旅から帰ってきたばかりの森の妖精が、今肉体に還れば間に合うと促したんだが春日は聞かなかったそうだ。夏南汰に逢いたい。逢うまで帰らないとうわ言のように続けて、与えられた水も食い物も口にせず、その日のうちに力尽きた。死を看取った妖精たちはついに観念して春日を葬ったんだと」
――そして昨日、同じようなことが起きた。
「森の植物たちは聞いた」
――僕は許されない罪を背負った。それは君を巻き込んでしまう、この先も――
「今回の一件で、物質世界の人間の幽体はこっちへ渡ると前世の姿と記憶を取り戻すってことがわかったろ? だが実際んとこある程度の時間は必要らしいんだ。春日の前世……幽体世界に生きていた頃が何者だったのかは知らねぇが、一度目はその姿と記憶を取り戻す段階にも至らなかった」
――もう戻れない――
「つまり一度目も今回も全く同じ姿。植物たちからしたら一目瞭然だったって訳だ。あのときの男だってな」
――だからせめて今世くらいは…… ――
――僕なんかに縛られないで。幸せになって、ナツメ――
「……二度目となる今回、あいつが言ってたそうだ。君はもっと強い存在と共に居るべきだ、とか」
そこで低い声が苦しげに詰まった理由もわかる。強い存在。きっとそこには……
「あの、馬鹿……っ」
ブランチ。君の名があったのだろう?
気の利いた言葉の一つもかけられないままでいると、うつむいた彼の全身から前世の波長が滲み出して。
「なぁ、ナツメ。春日が命との関係を打ち明けた日、俺が二つ目の罪って言ったのを覚えてるか? おめぇの推測は……まぁ大体合ってた。あの頃の儂は頑固じゃったけんのう、例え命の持ち出した話だとしても、そんなもんに縋ったあいつを男の風上にもおけぬと軽蔑した」
やがてすっかり前世の兄と化した彼が打ち明ける。瞼を重く伏せ、肩を細かに震わせながら。
「だがもう一つの推測はハズレじゃ。同性愛に引きずり込んだから? いや、それよりも……」
憤りと後悔の狭間で揺さぶられているが伝わる。痛い程に。
「わかっていた。あいつも苦しんだんだと、ただおめぇが愛おしかっただけじゃと」
「ヒナ兄……」
「だが儂だって弟を最後まで見届けたかったんじゃ。許されるならずっと手元に置きたかったくらいじゃけ、海になど流したくはなかった」
膝の上で握りしめた大きな拳が限界の震えを見せる。ヒナ兄、ともう一度呼んでみたならもうたがが外れたみたいに。
「それを奪われたんじゃ。たった一人の弟の遺骨を持ち去られて勝手に死なれた。儂はどうしても許せんかった……!」
「うん、私が海に還せなとど書き残したせいじゃな。後先考えず航海へ出た私のせいで」
「もうええよ、馬鹿夏南汰」
「……ああそうじゃな。もうええ。ヒナ兄も、もうええよ」
なんと称するかもわからない想いのまましかと支え合ったこの日、満ちていく朝の光に目を細めながら私は、遠い君へとちょっぴり微笑んだつもりだ。伝えたつもりだ。
君が願いを託したこの人を精一杯支えようとは思うけど、やはりそんな関係にはなれぬよ。私には君しか居ない。
守られるばかりは辛かろう。それは私も同じだよ。
のう、ユキ……?
男が常に守り続けねばならぬと、一体誰が決めたのだ。




