10. 残映
――帰らないの?――
――悪い子だね――
哀れに感じる程の鼻声だった貴方が、静かなる大地を彷彿とさせる慈しみの茶の瞳が、禁断の扉を閉ざして間もなく形を変えた。優しい声色を保ったまま貪欲に迫った貴方が。
――もう離してあげられないよ……今夜は――
――ナツメ……!――
抑えられない期待が熱い吐息となって溢れた。半開きの隙間を塞がれる間際で目にした貴方の眼差しが、乳白色の川を伝うどの恒星にも劣らぬ光を帯びた。
火照った身体からどうしようもなく溢れる涙は全て貴方が拭ってくれた。舌先に受け入れるなり、甘い、なんて。苦しげに、切なげに、呻くような声色で。
果てて肩を寄せる私に貴方が教えてくれたのだ。これは本来尊いことであると。
こうして命は繋がれる。僕らの場合はただ状況が許さなかっただけだと、実に哀しいことを言うのだ。
やがて窓際で見つけた勿忘草の栞がついに間近まで手繰り寄せた。秘密の宵に私を愛でた貴方があの“君”であると気付くと、走り出す衝動に引きずられるようにして舞い戻り。
――もう一度だけ。
もう一度、君を確かめたい。募る想いは危ういくらい薄いシーツを握る私の手を震わせる。
ベッドに腰掛け静かに見上げた貴方の瞳がじんわりと垂れ下がりの三日月を成して。
お決まりの台詞で叱った後は私のベールをそっと解いて。
――綺麗だ。君は、本当に――
――逢いたかったよ……織姫様――
対になる名称なら知っていたけれどさすがに気恥ずかしくって、冬樹さん、好き、って。本来の方で囁いた私は、露わな己を隠すようにしがみ付くので精一杯だった。
きっと炎天下でも変わりはしないのであろう貴方の冷感が、芽生えたばかりの私の真夏を伝う。
はしたないとさえ思っていた自身の嬌声が啜り泣きに似ていることに気付いた。重なる度に、繋がる度に……
罪と知っていても、永遠には成り得ないと、知って、いても。
もしこのまま召されたなら、いっそ天の恋人にしてはくれないかと願った。三百六十四日の隔たりなど、大正から現代まで愛し続けている私にとってはむしろ短いものに感じられるのだから。
隔たりの代わりに永遠が手に入るのならと恨めしく天を睨んだ私に、この七月七日は焼印の如く刻まれ続けるのだ。永遠に。
――ねぇ、先生。
冬樹さん。
もう一度……抱き締めて。
貴方も君も居ない世界に私の幸せなどあるものか。覚悟の元で逃げ出したはずの私は、またしても……皮肉なことに。
「無茶しやがって」
「……すまない」
清潔感漂う純白の一室にて明けの明星の気配を感じている。虚ろな視線が捉える現状はもうある程度把握できているのだが。
「ブランチ……」
ベッドのすぐ側で多くを語らず拳を緩く握っている。隙間からわずかに覗く包帯にはもうだいぶ前から気付いている。
あのとき無我夢中で噛み砕いた錠剤と共に感じた味は彼のものだ。すまないどころではない。もっと丁重に、心の底から、全身全霊で詫びるべきだ。
わかってはいてもそれは事実ばかりであって言葉としては紡げない。
「何故、見捨てない? 何故、私を、助け、て」
そう。出来たとしてもこの程度だ。
「なんでだろうな」
やがて深いため息を長く長く吐いたブランチが実に不器用に続けてくる。
「夏南汰だからかなって最初は思ってたんだんだけどよ、妙なことにそれだけでも説明がつかねぇ。自分が嫌われるよりお前を失う方がよほど怖えんだなって、さすがに気付いたっつーか……」
不器用な笑みと共に結論らしきものを告げてくる。
「愛してんだろうな、きっと」
「ブランチ……」
やっと嗚咽に似た震えを喉の深くに感じた。流れ落ちる寸前で拭ったナツメは顔を上げる。
また傷付けるのだ、きっと。そんな恐れを感じながらも意を決しこうべを垂れて。
「すまない! 君をそういう風には……!」
「俺もそういう意味じゃねーよ! 安心しろ!!」
ぬ?
違うのか。ならばそれに越したことはない。彼もこう言ってくれているのだ、ここは安心させてもらおうではないか。
――なぁ、ナツメ。
一人で納得していたところへ低い声色が流れ込む。
「俺だって本当はこんなことしたくねぇ。こんな……」
ベッドに固く拘束された私の身体を見つめながら。甘えてばかりもいられまいと、いよいよ決意が固まっていく。
聞いたところによると私は断崖絶壁で倒れていたところを保護されたそうだ。
ワダツミなどと名乗る少女に出くわした。話したことも幾つかは覚えているがどうも全てではないような気がする。現実だったのか、あるいは夢か。
やがてふっとため息を零したナツメはやんわりと滲む笑みを浮かべた。あんな不鮮明で遠回しな言葉……いずれにしたって覚えていても仕方のないことだと気付いた。
そして、もう一つ。いずれにしても。
「こうまでして救われた命だ。二度も投げ出そうとは思わない。ユキのことだってもう追わないよ」
「ナツメ」
「……もう追わない」
それが君の魂を守る唯一の術だと答えを見出していた。未だなおぶれずにいるのはただ一つの信念くらいのもので。
「だけど研究は続けたいと思う。二度同じ世界に転生するという不可解な現象が如何にして為されたのか……!」
両の漆黒に込める力を確かに、ぐいと身を乗り出して意欲を示そうとしたときだ。
「もうわかったよ」
思わぬ返答に口を紡ぐことさえ出来ず。
「春日の奴、地質調査に行くって言ってたんだろ? ヤナギが近隣の森の植物たちから聞き出したんだ」
呆然とするしかない私にブランチが問う。真摯な表情をして、大丈夫か、聞けるか、と。
もとより拒む発想など有りはしなかった私にやがて、分析と推測により形を成した事の経緯が告げられた。
「植物たちは覚えていたんだよ、春日を。あいつがこの世界へ渡るのはこれが二度目だったらしい」
――二度目。
その響きだけで、もう。
君の苦痛と孤独がこの身に染み渡っていくようだよ。




