2. 清涼
まるで現代から昭和、ついには君との出逢いの日、大正の世まで遡るくらいの目まぐるしい流動が、広大な世界の片隅の小さな一夜に訪れた。
安らぎの途中で一度は騒がしくなったものの、再び訪れた静寂は疲れ果てた私たちを労ってくれた。勝手にせぇ! などと言い放って出て行った、あれはやはりヒナ兄だったのだろうか。
それでも私たちは大いに感謝せねばならないだろう。後から訪れた医務室の先生から伺った。
茂みの中で倒れて動けなくなっていた私たちに迫る霆を寸前で駆け付けた操縦士が魔力光線で相殺したのだそう。こうして生きて帰ってこれたのも、ブランチが研究室内から外まで駆けずり回ってユキを探しながらも、職員から知人友人に至るまで片っ端から連絡を取ってくれたおかげだ。つくづく彼には頭が上がらないというもの。
波打つごとに寒色の色合いを変えていく極光のベールに包まれて眠った。共に衰弱が見られ点滴を打つ必要があったから、結局別々のベッドで眠ることになったけれど、心は手を繋いだまま。互いの息遣いが心地よい音色となって降り注ぐ、赤子に還ったみたいに安らかな夜だった。
そして目覚めた翌日の朝。私は今、紛れもない“ナツメ”だ。
――どちらの君であろうが、どちらの僕であろうが、この想いは変わらないから――
昨夜のユキの言葉に安堵でもしたのだろうか。あんなに表立っていたカナタの波長も、今となってはこのふっくらとした胸を寝床にするみたいにちんまりと丸まっているようだ。
又、今がチャンスとも言える。この姿、この思考であるからこそ、君に伝えるべきことを順を追って説明出来ることだろう。
――ユキ。
相変わらず険しい表情のブランチと、眉を寄せて何か言いたげに目を潤ませているヤナギに見守られながら、床の上のナツメは意を決して隣の彼に告げるのだ。
「冬樹さんとしての記憶を取り戻したならもうある程度は見えているかも知れないが、今ここにいる春日雪之丞は磐座冬樹の前世だ。時代も違う、そして世界も違う。幽体世界のこちらへ移ったことで、君の幽体は前世の形を取り戻した。我々もまだ調査中なのだがな、どうやらそういう仕組みになっているらしい」
話の節目節目で、うん、うん、と小さく頷くユキの動作にはまだ遅れが見られる。戸惑いがあることは明白。まだ油断してはならぬぞと自らに言い聞かせつつ、ナツメは慎重な解説を続けていく。
「交通事故に遭ったことは覚えていますか? 冬樹さん」
時折質問を交えながら。問いに合った名と口調を用いて、彼の手を握りながら。
「うん……わかってきた気がするよ。多分、死んじゃったんじゃない?」
「いいえ。確かに貴方の肉体は意識不明の重体ですが死に至ってはいません。死は肉体だけではなく幽体にも訪れる。ゆえに、ここに貴方の幽体が存在することが何よりもの証拠です」
「そう、なの?」
震える茶の眼差しにどれ程胸が痛んだことだろう。こんな残酷なこと……出来れば告げたくなどない。固く唇を結んだナツメは微睡みのカナタからほんの少し分けてくれと請う。ほんの少しでいい、破天荒とさえ呼ばれたお前の勇気を、と。
「ユキ。ナツメの前世は秋瀬夏南汰だ。昭和六年、あの嵐の大西洋にて、私の肉体は確かに死を迎えた。君の元へ帰った小さな骨も私で間違いないだろう。わずかばかり染み付いていた私の残留思念が君を覚えている」
「秋瀬……」
「そしてナツメへと生まれ変わった。肉体の存在する世……物質世界と呼ぶのだがな、そこで死を迎えると次は幽体のみのこちらへ生まれ変わる仕組みになっている。こちらの生涯を終えたらまた肉体を与えられてあちらへ。そうやって交互に繰り返すんだ」
目覚めゆくカナタがゆっくりと手を伸ばす。雪肌を伝い落ちていく涙が誰に対するものなのかを悟ると、もう、触れずにはいられなくて。
「特殊な申請で肉体を借りたナツメは生態系研究の目的で物質世界を訪れていたのだ。君に出逢えるなんて思わなかった……ユキ、もう性別すら変わっている私に、君の魂は気付いてくれたんじゃな? いけんとわかっていても……嬉しかったよ」
「秋瀬……あき……」
…………!
表面はこんなに冷たいのになんという温度差か。指先に染み渡る君の熱に身悶えるカナタがたまらず頬をすり寄せて。
「あぁ、ユキ、ユキ……ッ、凍てつく海中での死は確かに苦しかったが、私は何より君がおらんことの方がよほど寂しかったんじゃよ。君のくれた想いに応えられないまま死にゆくしかないことが何よりも。ありがとう、ありがとう、ユキ。ナツメに気付いてくれて……私を見つけて、くれ、て……っ」
脇目も振らずしかと抱き合っていた。
んん、んん!
というブランチの咳払いに睨みをきかせたのはしばらく後だ。負けじと睨みで返されたのだがな。
ここに春日雪之丞が居る以上、どうやったって本能に忠実なカナタがしゃしゃり出てしまう。やはりお前にばかり任せてはいられないとばかりに一呼吸置いたブランチが
「春日、そうは言ってもお前の本来の世は物質世界。お前の今世は磐座冬樹だ。このまま肉体を放っておくってのはいただけねぇ」
実に冷静な表情で流れを戻すのだ。その淡々とした物言いは気に入らぬところなのだがな、そもそもここまで事態をややこしくしたのが己である以上、意義を唱える立場ではあるまいと渋々受け入れたナツメも後に続く。
「物質世界と幽体世界の人間は本来通じてはならぬのだよ。仮の肉体はいずれ返還されてしまう。物質世界では肉体のみが形を為す。だからこそ私も秋瀬ナツメの痕跡を消した。君の場合は……どうやら例外だったようだが、な。我々は今、君が本来の器である肉体に戻れる方法を探している」
「ナツメ、でも僕は」
「ユキ。私は君が生きていてくれるだけでいいのだ。転生は確かに存在するとこれでわかったであろう? 今世に執着せずとも私たちなら……」
実に女らしい、しなやかな両脚を立ち上げて。硬い地の感触を確かめたところで君に告げる。はっきりと。
「時も性も超えてみせた。これ程までに愛し合った私たちならいつかまた……必ず。出逢えるさ」
これを口にしたのはどちらの私だったのだろう。いや、もしかすると。
ユキには今しばらくの療養をと促して、饅頭みたく泣き腫らした瞼のヤナギともの言わぬブランチに続いて医務室を去ろうとした。流れが変わったのは
――待って。
閉鎖の音が鳴り響く、寸前だ。
「僕に提案……いや、お願いが」
続いた言葉に驚き、目を見張った。遅れて満ちていった私は確かに感じたのだ。
君は。君の魂は確かに前に進んでいる。これはあのときの感覚に似ている。
「そうか……そうじゃのう、ユキ」
実に感慨深い。私は独りではない。独りではないのだと。




