六. 迷者不問
人里離れたその場所への道のりは決してなだらかなものではない。万が一に備えた羅針盤を片手に生い茂った森を掻き分け、こじんまりとした北の市場を通過すると、今度はひたすらに続く登りの坂道へと入るのだ。
これまでの“申請”であれば何もこのような労力を使わずとも郵送で十分だった。しかし今回ばかりは事情が違う。それ程離れていない研究所からならば、自らの足で向かってしまった方がよほど早いとの判断であった。
暑い……
七月。それも白昼の斜陽が容赦なく片側の額を焦がしていくかのよう。一目が無く更に感覚が男であることから、はだけさせた胸元に涼風を取り込もうと仰ぐ動作にも特に躊躇などは無かった。
「…………っ」
そして不意の痛みに小さく呻く。それはちょうど首筋を降りていった汗の球があの場所で砕けて滲む瞬間だった。
大部分は内出血であるが未練がましく自分で抉ってしまったが為に未だありありと残っている。本来借り物の肉体に負った小さな傷などここに在りはしないはずだ。よほど強い魔力、妖力の類、あるいは幽体ごと貫く程の想いが無ければこうはならない。
(冬樹さん……)
貴方の想いがこれ程までに。
此の期に及んで密やかな悦びを噛み締めたりなどしている己をつくづく愚かだと思う。しかしそんな夏南汰も次第に想いを遡らせていくのだ。なんのことはない、自分もそうだったではないかと。
――わからないなら教えてあげるよ――
(ユキは何故、ここに?)
頬を切なく紅潮させ、その場所へ問うように拳を添える。答えと思しきものは思わぬところから。
――上書き、ではなかろうか。
己の中から冷ややかに伝わった。そうか……すでに冷静さを取り戻したかのようなナツメの声色に夏南汰の二つの漆黒が揺れて、濡れる。
きっとユキは見てしまったのだ。何をする気でこの襟を裂いたのかはわからぬが、あのとき私の肌には夏呼と交わし合った痕があった。
首筋、鎖骨、きっと背中にも。気遣い屋の彼女のことだ。私に隠す発想が無いことを考慮してあの薄紅色の唇から密やかに散らしていったのだろうが。何処で気付いてしまったのだろう、な。どんな想いで自分のそれを刻んだのだろう。
あの頃の私にほんの一片でも今世の思考があったなら、君の涙を止めてあげられたのだろうか。
「……どっちもどっちじゃな」
結局行き着いたのはそれだ。表向きばかりの冷静沈着も、取って付けた知識も、君を前にしたが最後、実に無力だったではないかと、ナツメと揃って苦笑を漏らした。
ふと風向きが変わる気配に天を仰いだ。次第に強さを増す疾風の出処はすでに頭上まで迫っていたことに驚いた。
「おぉい! 顔見知りだけど一応初めましてだねぇぇ! 夏南汰くぅん、乗っていきなよぉぉ!!」
もはやそのようなスピーカーを介せずとも十分届いたのではないかという程の大音量が、頭上に留まっている小型機の左右へ傾ぐ動きに合わせて揺れている。
「無鉄砲だと聞いていたけど本当だったんだねぇぇ! 言ってくれれば連れて行ったのにぃぃ!!」
ハハハ! と混じる笑い声は何故だか脳内にて懐かしい“英字”に変換される。
確かに。効率重視のナツメならば、真っ先に小型機を所有する生物保護班へ赴いて頭を下げたことだろう。だけどそれ以上に可笑しくなって肩を震わせてしまう夏南汰は。
「ありがとう、アインさん」
やがてひらりと軽やかに降りてきたロープを強く握って笑みを返した。こんなところにも無鉄砲が居るではないか、のう?
頂上へ向かうごとに開けていた地面が緑に覆い隠されていくのがわかった。白い壁面に好き放題ツタを絡ませた密やかなる場所。茂みに隠れるがの如く佇むが故に表向きは決して明るそうには見えないが。
『賜りの間』に関しては、ステンドグラス張りの天井から神々しい七色の光の梯子が惜しみもなく降り注ぐ。古びた円柱の柱、それから、訪れる者を360度ぐるりと囲む天使の絵画が相俟って幻想的かつ厳かな雰囲気に満たされている。
それでいてすうっと自然に息が通る、マイナスイオンの温床とでも言うべきか。
星幽神殿。
ここ幽体世界では為し得ない特殊な申請を受け付け、難解な疑問に応えて下さる。言わば、天界の出張所なのだ。
「少しばかり時間がかかるやも知れぬがのう」
「承知しております。厚かましいことも痛い程……しかし人命がかかっている事態ゆえ、できる限り明確かつ迅速なご返答を頂きたく!」
賜りの間に足を運ぶなど、ましてや返答を求めるなどそう多いことではない。少なくともナツメにこの経験は無かった。
ゆえに伝達人と称するこの少女と思しき人物と対面するのも初めてだ。いや、正確には面を晒しているのはこちらだけ。いささか心配になる程の頼りなげで小さい彼女の方は、身体といい顔といい、純白の布地で覆い尽くされていて表情も伺えはしなかった。
「受諾してもらえたのだからきっと大丈夫! 気長に待とう!」
「……気長な事態ではないのだが」
「こんなときこそだ!!」
さすが緊急時の対応に慣れた操縦士とでも言おうか。操縦席から後方の私へでっかい拳を突き出し、反応を期待するかの如く白い歯を見せ付ける。ちゃんと前を向いてくれ。
しぶしぶ拳で応えた夏南汰は、危なっかしいながらも助け船となってくれた操縦士のアイドクレース・フォーマルハウト……通称・アインといくつかを語り合った。
噂には聞いていたがなんでもこの男、両の指を優に超える程の女性を虜にしてきたのだとか。私の生きた時代で言うところの“色男”。またの名を“プレイボーイ”。現代の物質世界で言うなら“チャラ男”といった具合だろうか。
「言っておくけど、僕は遊びで恋をしたことなんて無いよ!」
こう言ってはいるが。
中でも私が強く興味惹かれたのは彼が経験した壮絶なる修羅場だ。しかも!
「ベクルックス所長と恋敵じゃて!?」
「あぁ! 当時は僕の上司だったのさ。肩書きとか関係なく拳でぶつかり合ってさぁ~。僕は負けちゃったけど。今じゃ腹心の友なんだよ!」
懐かしい響き……“恋敵”。
もうしっかり前方を見据えている彼に、薄い微笑みを落とす私の姿など見えやしないはずなのに。
「君は何か後悔をしているね?」
一体何処で察したのだろう。実は魔族なのではと疑ってしまったくらい。
不思議な彼は相変わらずの胸を張った姿勢で語るのだ。
「大事なのは本気だったかどうかだよ。君の中に真実が在ったのか」
「…………っ」
「夏南汰くん。君の為にもその人の為にも、君の中の真実を信じてあげなきゃ!」
…………
「……うん」
やっと頷くことの出来た私は、あの翻弄される秋の木枯らしの中から一つ、正しかったと感じられるものを見つけて。
――おはよう、夏呼。
……ありがとう。
花弁を携えたまま哀しげに微笑んだ、約束を果たしてくれた彼女。
忘れて、だなんて。過ちだなんて。そんな言葉で君は救われなかったはずだから。




