四. 胡蝶之夢
時間が止まったかのような中で、先に取り戻したのは嗅覚だった。ナツメなら慣れているはずの消毒液の匂い。むしろ落ち着くとさえ思ってきたはずのこれだって、こんな心理状態ではまるで違う感覚となる。
経験が無いがゆえの安易な発想、かつその職の者にとっては失敬極まりないかも知れないが、これではまるで手術台の上だ。今まさにさばかれようとしているまな板の上の鯉だ。
きっと今に口にせねばならなくなる。
「夏南汰の頭でピンとこねぇならナツメの頭で考えろ」
ヒナ兄、いや、この口調はブランチ? いや……もうどちらだっていい。そしてわざわざナツメの思考に変換する必要もあるまい。
ああ、わかるさ。夏呼と男女の関係になっていたか、そう訊きたいのだろう。
もちろん忘れた訳ではない。その気になれば今でもはっきりと思い出せる。罪悪感と共にこの魂へ深く刻まれた記憶だ。
「私は夏呼の笑顔を見るのが好きでの、旅に出ているとき以外は毎晩、寝床まで一緒じゃったよ」
「毎、晩……っ! じゃと!!」
「そうじゃ。夏呼は私の冒険話が好きでのう」
「あ……あぁ?」
私の話の進行に合わせて太い眉を上げたり寄せたりするヒナ兄を見て笑みが溢れてしまう。女々しいのはどっちだ? どれだけ言い返してやりたいと思ったことだろう。
しかし、嘲笑はやがてその対象を変えるのだ。
「夏呼が喜ぶことこそが正解なのだと信じていた。いや、信じている己を信じていたんじゃ」
移り変わるのだ。他でもない、自分に向けて。
「のう、ヒナ兄。私は彼女を抱いてなどいない」
「は? そんなはず……」
ヒナ兄が何か言いかけたのに気付いていながらも被せてしまった。欠片ばかりの一雫を落とすかの如く。
「……抱かれたんじゃよ」
重苦しい沈黙が占める中で、何故か笑っている自分が可笑しい。心がすうっと通る感覚、まるで涼風が吹き抜けるみたいだ。
今まで誰にも打ち明けられなかった。やっと、解放されたからなのか。
「おめぇ、意味わかって使ってるか? それ」
「うん」
「一応、言っておくが。ハグのことじゃねぇぞ」
「知っとるけん」
きっと呆気にとられているのであろう、ヒナ兄の顔も見ないままうつむく。長らく閉じ込めてきた記憶の封にやっと指先をかけてみる。
――貴方様が壊れてしまいます――
紐解いたら最後、甘い微睡みと罪の渦に巻き込まれてしまうと本当は知っていた。
あれは旅立ちの前年、昭和五年。神無月の下旬。
理解出来ないことが重なり、心細さに押し潰されそうになっていた頃。
――夏南汰様の痛みを私に下さい――
自己犠牲とも思える彼女の言葉に、あろうことか私は甘えてしまった。今、誰よりも自分を見てくれている、傍に居てくれている、そんな束の間の安心感に勝てなかった。
夏呼に支えられるようにしてベッドに腰を下ろした。照明が落とされた後、ゆっくりこちらへ歩み寄る足音がした。
両側から優しく頬を挟むぬくもりが彼女のものだとわかると、私の目からは音も無い一雫が伝い落ちた。次第に目が暗闇に慣れていき彼女の姿を捉えていく。
ここを、と示すかの如く唇を寄せる彼女に向かって、私は掠れた声で問いかけた。
――そうしたら、笑ってくれるのか?――
小さな頷きを確かめると恐る恐るそこを食むようにした。まるで月の女神のように青みを帯びた彼女の熱い吐息が、私の脳に強烈な麻酔をかけた。
気が付けば草原を彷彿とさせる冷たい布地の上を彼女と二人で転がっていた。もはや夢か現かさえわからないその渦中で、彼女は精一杯私に尽くしてくれた。甘い刺激と優しい囁きで。
だけど、のう、夏呼……?
私はこれが君を笑顔にする行為とは思えないのだよ。
彼女へ向けて紡いだはずの問いかけも実際は切ない吐息にしかならない。
予感が全く無かった訳ではない。夏呼に対して愛おしさは確かに感じていたから、いずれ恋愛感情と呼べるものになってもおかしくないとは思っていた。
いつかこういうときが来たのなら、それはもう全身の血液が熱く滾って逆流するような官能を味わうのだと思っていた。現実というのは大抵、想像より遥かに生々しく、決して美しいものではないのだと覚悟さえしていた。しかし。
――夏呼……っ!――
繰り返す度に実感はつのる。時折自分が表に返ってみてもやはり変わりはしない。包まれているのも、与えられているのも、やはり私の方ではないか。
――泣かない、で――
――夏南汰、さ、ま――
全てを受け入れる確かな眼差しで。こんなに乱れてなお美しいのは、大人だったのは、彼女ではないか。
「綺麗、じゃよ……夏呼。ほんまに、綺麗じゃけぇの」
まさか現実が幻想を上回るだなんて。
地に堕ちてなおもつれ合う二匹の蝶となったこの夜が、彼女にとって、そして私にとっても、初めてだった。やんわりと私を遠ざけ、彼女自身もまた遠ざかったのはその後のことだ。
「一度だけ。これが最初で最後じゃよ」
「ほ、ほんまに一度なのか?」
「? ああ、そうじゃ」
「お前……すげぇな。一度ってなかなか……」
なんだかズレている返答に苦笑を漏らした後は、何が、とあえて返してみるのだが。
「えっ! いや……ホラ、だって、十七の娘と一つ屋根の下だろ。断言する、俺なら我慢できん!!」
やはりブランチの本音だったか。それを表で言ってみろ、犯罪だぞ。
「きっとその一夜だけじゃない。私は何度となく彼女を傷付けてしまったと思う。決して拒みはしない彼女に甘えることでの。いずれはこんな私のことなど忘れて幸せになってほしいと切に願っていたんじゃ」
そう、彼女が本当に解き放たれるべきは他でもない、この私だったのだよ。
「ヒナ兄、夏呼を嫁に迎えてどうじゃった? 幸せじゃったか? いろんな場所へ出かけたり、子をもうけたりは、したのか?」
いつまでも湿っぽいのには耐えられん。ここぞとばかりに話を転換すると、あぁ、と遅れた返しが続く。
「まぁ、その……夫婦らしい関係とも言えんかったがな。あの後戦争が始まって儂の元にも赤紙が届いた。儂は、戦闘機で敵陣に突っ込んで死んじまったけんのう」
「そう、じゃった、のか」
兄の辿った最期に衝撃を受けた夏南汰は絶句してしまう。しかし。
「だけど娘はおったぞ。ナナコと名付けた」
「!」
後に続いた言葉はまさに朗報だ。大きく見開いた夏南汰の瞳にはみるみる夏の陽射しが集まっていく。おのずと身を乗り出して。
「そうか……そうか! ナナコはどんな子じゃ!?」
「産まれた瞬間から綺麗だとわかった。玉のような子じゃ」
「ええのう。そりゃあ夏呼に似たんじゃのう」
「どういう意味だ、おい」
からかいつつも、胸の内などでは抑えきれない喜びを噛み締めている。憮然とした表情を続けていたヒナ兄も次第に頬を赤らめたりなんかして。
「……儂らの子じゃ」
今さっき聞いたばかりだというのにまだ繰り返す。ちょっとばかり気持ち悪いが、認めるのはちょっとばかり、癪なのだが。
「ありがとう。夏呼の夫がヒナ兄でほんまに良かった」
これが最も相応しかろう。
朝飯を持ってきてやる、と切り出したヒナ兄が立ち上がる。床に着いたままぼんやりと見送っていたときだ。
――のう、夏南汰。
ふと立ち止まったヒナ兄が、こちらに背を向けたまま問いかける。
「お前は……夏呼を愛していたか?」
夏南汰はしばらく静止していた。
これを言っていいものなのか、言えた義理なのか。繰り返した自問もやがて結論へ辿り着いた。やはり本音はこれであると。
「当たり前じゃ。今だって変わらない、愛おしくて大切な魂じゃけぇの」
今ならわかる。もう遅いけれど、ユキにはユキへの、そして彼女には彼女への想いの形。
示し方もわからないが為に己一人で済むはずの痛みを与えてしまった、こんな私を許してくれとは言わないよ。




