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二. 好機到来



 それは柔らかな春の香りと凛と冴えた空気の振動。この身をいだく冷感には確かなぬくもりがある。


 不思議だ。これか、それともこっちかと、幾つ比喩を並べてみても、忠実に表せている気がしない。



――冷たい。



 なんとも矛盾している。こんなに心安らぐのに何故、と。全身の毛穴がきゅっと引き締まる感覚の正体を確かめようと、薄く瞼を開いたところへ……



 純白の天使たちが舞い降りる。



 仰向けのまま伸ばした指先へ落ち着いたのはほんの刹那。もう形さえ見えない。それでも何度でも、何度でも、私の元へ舞い降りるのだ。決して見放しなどしなかった。傍に居続けてくれた、まるで君のよう。



「ユキ……」



 伝った雫は今にも氷の結晶と化しそうだ。




 母国から遠く離れたここは北欧の果ての田舎町。純度の高い空が魅せる幾千もの輝きを是非ともこの目に焼き付けたいと、心配する面々を愛想笑いで誤魔化して、寝袋片手に天体観測へ向かったのだ。


 ちょうど良い角度に傾いた土手を見つけてためらいもなく寝そべった。あれからどれくらいの時が過ぎたのだろう。



 ……ぁ……



 ……夏南汰ぁ……



「あっ、こんなところに居やがった!」



 ついに見つかってしまったか。



 顔を見ずともわかる声の主の、づかづかと遠慮のない足音でその表情まで容易に想像がつく。深いため息が白く、高く、彼方の空へ昇っていく光景までありありと。


「まさか寝てたんじゃねぇだろうな。ったく、そんな寝袋一枚で乗り切れる訳がねぇだろ。凍死すんぞ」


「命さんも一緒に見ようよ」


「やーだね。俺は花より団子、浪漫ロマンより食い気さ。星が腹を膨らましてくれんのかい?」



 しし、と肩をすくませて笑う命さんは後ろ手に組んでふらふら歩きながら教えてくれる。宿主の婆さんが作った美味そうなシチューが待ってるぞ、などと。


 対して夏南汰はいいね、などと呟きながらも寝袋ごと上体を起こしただけだ。縮まったさなぎみたいになんとも滑稽な形を作りながら。


「みんな元気かのう」


 飽き足らずに天を仰いで続けるのだ。


「ユキの肺炎は本当に治ったんかのう?」


 ついには二度目のため息を落とした命さんが隣に落ち着く。



「ピンピンしてる、とは言い難かったが、港まで駆けつける体力があるなら大丈夫だろ」



 それに……



「それに?」



「あんなことをしたお前にうつってねぇのが何よりもの証拠だ」



「――――っ」



 何故だろう。あのときは迷いなどなかったのに、この命さんの勝ち誇ったような笑みを見ているとやたら熱が込み上げてたまらない。今更だ。今更なのだが。



 多分、なかなか恥ずかしいことをしてしまったのだろう。



 疼く感覚を振り払わんとばかりに私は方向を変える手段に出た。そう、遠く離れたこの地に在っても、ありありと思い浮かべられる者なら他にも居る。



「夏呼も……今頃は恋人と寄り添っているかも知れんのう」


「おぉ! いいじゃねぇか、その話。俺も詳しく聞きたかったんだ。どんな男か見たのか、夏南汰」



 ずい、とこちらへ身を乗り出した命さんに思わず笑った。輝いた両の漆黒、左右に大きく揺れる黒髪の束はさながら歓喜に舞い上がる犬の尻尾のようだ。



 見てはいない。そう示す為にかぶりを振った。好奇心溢れる眼差しへ、同じように返したつもりだった。しかし。



「出発の前に打ち明けてくれたのだよ。いつも買い出しに行く市場に新しい店が出ていたと。気になって立ち寄った。そして出逢ったのだ、と」


 向かい合う笑みの片方に憂いが滲む。それを知ったのは、遅れて滲み出した命さんの表情を捉えてだった。




――夏南汰様――



――この夏呼にも想う相手が出来ました――



 そう、これこそが彼女の“覚悟”。逸る気持ちで出発の日時を伝えたその後へと、夏南汰の意識は遡る。




「本当……か?」



 瞬きすら忘れて見入る夏南汰の前で夏呼は恥ずかしげに小さく頷いた。


 合点がいった。この頃いくらかふくよかになったと思っていたのだ。私が忙しかったからかも知れぬが顔を合わせる時間も随分と減った。きっと外出する機会も増えていたのではないだろうか。


 そんな彼女がやがてうつむき、影を落とした。ゆっくり、確かに、覆い尽くす雨雲のように、哀しく。



「私を嫁にしたいと言って下さいました。なので夏南汰様、私は貴方様をお見送り出来ません」


「夏呼……」


「許して頂こうなど毛頭考えておりません。生涯貴方様に支えようと誓った立場でありながら、私は……こんな私には、もう、貴方様の門出に立ち会う資格など」


「何を言う!」



 思わず伸ばした両手で強く、彼女の肩を掴んだ夏南汰は、今できる精一杯を見せ付けて力強く。



「めでたいことじゃけぇ、君が思い詰めることなど何もない。だけどそうじゃな……夏呼が心苦しく思うなら好きにしんさい」


「夏南汰様……」


「夏呼の花嫁姿かぁ! そりゃあさぞかし愛らしかろう。挙式はいつがええんじゃ? それまでには帰って来るけぇ」



 出逢ったときから愛して止まなかった彼女の円らな瞳の揺らぎを見た。それから届いた。



「いくらか落ち着いた頃が良いと考えております。出来れば来年の……」


「来年か!」


「……夏南汰様から頂いた季節に」


「夏じゃな!」


「はい。それまで夏呼はここでお待ちしております」



 止まない滴りをいじらしく拭う仕草にこの胸は震えた。良かった、本当に良かったと。





「ごれでよがっだのじゃよぉぉ! なづごはぎっど、じあわぜにぃぃ(これで良かったのだよ! 夏呼はきっと幸せに)」



「がなだ! なみだどはなみずをふげ! がおがごおるぞぉぉ(夏南汰! 涙と鼻水を拭け! 顔が凍るぞ)」



 星と天使たちが彩る幻想的な夜空のもと、しゃがれた涙声を張り上げる大の大人二人の姿は決して似つかわしいとは言えぬだろう。



 めでたいな、そうだな、などと交わし合いながら寝袋を丸めて土手を後にする頃には、共にすっかり冷え切っていた。目の前で揺れる犬の尻尾がうっすらと白くなっているのに気が付いた私は。


「氷みたいだな。握ったら割れそうだ」


「えっ!? おい、待て待て、触んな!!」


 おのずと手を伸ばしていたんだ。焦燥を露わにする命さんの顔に悪戯いたずら心は更に加速して。



「パリーン、っていきそうじゃな! どれ、もっと男前にしてやるけんのう」


「何ぃ!? こんな極寒の地で坊主なんて御免だぞ。お前がその気なら俺も……!」


「わっ、駄目駄目! 風邪引いちまうけぇ!」


「おめぇも男前にしてやんよ、夏南汰ぁぁ!!」



 待てぇ! と熊のように両手を上げて追いかけて来る命さんから必死になって逃げたのだ。いっそこの極寒の地で頭を丸めて男を気取るのも良いかも知れない。一瞬ばかりよぎった目論みも、駆け抜ける身体が真っ向から否定する。



 だって、私は。



――秋瀬――



 君にも。



――夏南汰様――



 それから君にも。



 きっと何も与えられはしなかったのだ。つくづく男らしさとは程遠かったのだ、と。



(遠いのぅ……)



 実に遠い。まだだ。まだ足りぬぞ。



 かすれた苦笑を純白の天使たちが受け止めてくれた。



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