9. 夏疾風
夜露を携えた茂みを踏みしめる頃、今夜は案外冷たかったのだと今更ながらに知った。天を仰げば満月が見下ろす。今にもとろけそうなやんわりとした眩しさに視界はどうしようもなく揺らぐのだ。
いつだってそうだった気がする。この胸を掻き乱すのは動きの読めない嵐に他ならないというのに。こんなときに限って……何かが優しい。
「何故だ……」
呟きが薫風に攫われる。
まさかと思ったが本当に彼だった。
後ろ髪を引かれる想いで何もかもを無かったことにした。
一糸纏わぬままあの世界を後にした、あれから約一週間程の今日。今夜。
「ナツ……メ……」
懐かしい。潤んだ茶の垂れ目で見つめられると息遣いの欠片さえ失った。確かにこちらを捉えているその姿の輪郭がいくらか不鮮明に感じたのは、霞みがかった私の視界のせいだったのか。だがそれよりも何よりも、わからないことがあった。
「何故……私を、知って……」
いや、何故覚えているのだ?
思考回路が滅茶苦茶にもつれていくのがわかった。“君”が今世で言うところの“貴方”なのは気付いていた。勿忘草の栞を貰った夜に、初めて抱かれた夜に、私はそれを知ったはずだ。
このままではいけない。それもわかりきっていた。だからこそ私は“秋瀬ナツメ”を消したのだ。今やあの世界に私の痕跡など一片たりとも残ってはいないはず。貴方の記憶にだって、もう、在りは、しない、はず。
「ここに居たんだ? ねぇ、ナツメ……一緒に帰ろう。早く、逃げなきゃ……」
怯えた眼差しのユキは薄く笑みながら私に手を差し伸べた。震える指先を見下ろしてわずかばかり悟った。
こんな見知らぬ場所で見知らぬ者たちに囲まれて、見知らぬ一室のベッドに無理矢理寝かされたのだ。得体の知れない点滴を無理矢理打たれた。着替えさせられたのだろうか、パジャマの袖から覗く雪肌には擦り傷がある。もしかしたらあの戦火を目の当たりにしたのかも知れない。
危険な状況だと思うのも無理はないだろう。それでも、私は。
「もう一度訊く」
確かめねばならない。
「貴方は……誰だ。名はなんという」
「ナツメ……?」
「答えてくれ」
…………
「……春日雪之丞」
だろうな。姿形ばかりではない、波長だってあの頃のままだ。
そしてここから先が更に重要となると実感を覚えたナツメは、覚悟を決めて両の拳を強く握った。
「何故私を知っているのだ。何処で会ったか、覚えているか?」
まぁるく目を見開いた君はためらいながらも答えた。
「何言ってるの、ナツメ。だって……君とは……」
学校で……
…………?
「え……僕が、教師?」
言うまでもないが私は大いに混乱していた。そして、君も。
「どうして? 僕はまだ……大学院に……学生、だった、はず……」
「ユキ」
「でも……っ、確かに君を知ってる! 君と出逢って、僕は……」
――ナツメ!
ガシャ、と点滴の器具が揺れると共に白衣の裾を掴まれた。痩せ細った腕とは思えない程の強い力に息を飲んだのも束の間。
「行こう! 早く逃げよう! ここは、何だか、おかしい!!」
「ユキ、まっ……」
「早くッ!!」
おぼつかない動きで立ち上がると何度も何度も私を揺さぶった、そのときだ。
――――!
突如肩を鷲掴みにされたユキが固まった。彼がおずおずと見上げた先を追った私も、また。
「させねぇよ」
「は、離して……!」
恐怖に慄いたユキがベッドの淵へすとん、と腰を落とす。いや、押し戻されたのか?
実際、ユキの肩には未だに在る。のしかかっている。無言の抑制、不動の威圧。
「……ブランチ?」
第一関節までくっきりと浮き上がる大きな手に強い力が込められていると気付いた。こんな細い肩に容赦もなく。
砕けてしまうではないか。
表情だってよく見えやしない、陰った顔。何やらただならぬ様子のブランチを捉えたナツメの血の気が、引き潮の如くざわざわと不穏な音を立てて失せていく。
「やめろ!」
とっさにユキを抱き寄せた。もはやなりふり構わず。虚ろな視線を下方に彷徨わせている彼の身体にためらいもなく跨って。
「何をするんだ! こんなに怯えているのに……っ!!」
強く睨み上げながら泣き叫ぶようにして怒鳴った。
やがて、獣の牙のようなブランチの指先が、ようやく落ち着いた。ガタガタと壊れそうに震えるユキの手が、私の白衣の裾をやっと掴んだときだ。
「……すまねぇ」
解き放たれた、ユキ。
ずっと逢いたかった……君。
この冷感の白い肌も、弱々しい息遣いも、柔らかな匂いも。
「ユキ」
頼りなげな眼差しも、常に静電気を纏ってる猫っ毛も……
やっぱり、君だ。
「お、おい。ナツメ」
制止するブランチの声も遠く感じた。気が付けば覚えのある全てを、求め続けた君の全てを、ゆっくりゆっくりさすっていた私の中がついに入れ替わる。
状況が入れ替わる。
今思えばブランチを咎められた立場じゃない。ここで良からぬ感情に駆られたのは私だったのだ。
「私は……? 覚えて、いるか?」
「ナツ、メ」
「そっちじゃない。私じゃよ」
どうしようもなく溢れてくる涙を携えたままその頰に触れると、ナツメ! と更に咎める声が側から上がった。邪魔をしないでくれ、ブランチ。
「のう、ユキ……?」
「よせ、ナツメ! 記憶が混乱しているんだ。無理に引っ張り出せば精神崩壊を起こす危険性がある。お前ならそれくらいわかるだろう!」
君と私。肩やら腕やらを両方から掴まれ、引き離され、引き剥がされ、それでも必死に指先だけでも触れようと手を伸ばし合う。
「どういう意味なの? 教えて、ナツメ……!」
張り裂けんばかりの悲鳴を放つ。それでも、君は。
「やめて! お願い、ナツメを連れて行かないで!!」
“私”を呼んではくれないのだ。
こんなの、違う。
「じゃけぇ! それは違う。君にとっての私は……ナツメではない……ッ!!」
耐え切れず身を翻したが最後、もう音の一つも受け入れられなくなった。
月夜の下に躍り出ていくらか歩いた。草原を越えて彼方まで。
まるで何十年と歩き続けたみたいに、疲れきった関節がいよいよ悲鳴を上げる。ついにはひしゃげて崩れてしまう。乾いた骸のように。
のっぺりと白い研究所をぐるりと囲むように茂った森の入り口で、私は。
「何故じゃあ……ユキ……ぃ……ッ!」
カナタは今、両膝を着いて、泣いている。




