6. 静電気
もし“普通”が許されるのならば。
もし貴方と私が紛れもない“准教授と生徒”だったなら。
一度や二度踏み外してしまってもまだ策はある。やり直しは効く。同じ世に生きてさえいれば、彼の言うことに尤もだと頷きで返せただろう。
ここに生きてさえ、いれば。
それでも私は季節外れの冷たい痺れの中へ身を投じる。頷く代わりに口付けで返し、ついに固めた決意の下で願ったのだ。
今日は……いいですよね?
しばらく触れられない、なんて、寂しい。
往生際の悪い私を苦笑を浮かべた彼がお決まりの台詞で叱った。
身を預けると一転する。天も地もひっくり返って、白昼は傾き乳白色の星々と斜めの月を連れてくる。
今、きっと、私の目にはあの色が写っている。
哀に染まらないでと願い続けた愛の色が、いっぱいに、満ちて。
絡ませた指同士を強く握って、状況に相応しからぬ時間帯を忘れて、更には抑え続けてきた甘い悲鳴までこぼして、私の我儘はなおも続いた。
「もっと、強く」
泣き濡れた私の肌に紅梅色の花弁が散る。これでもまだ足りないから。
「……残して」
足りないから。こんな優しくっちゃ残せないから。
何故か今日に限って貪欲なあの目をしない彼にもどかしさを感じた。噛み締めていたのは一体いつからだったか。
――ナツメ。
突如腕を押さえつけられ、涙目のまま見上げた。悲しそうな彼の視線の先は、どうやら歯型のくっきり残った私の小指のようだ。
「駄目だよ。こっちにして」
そうして彼は言うのだ。自分の同じ部分を私の唇に宛てがって。
「君をこんな風にしたのは僕だから。痛め付けるなら僕にしてよ」
これを言っているのは冬樹さんなのか?
「今から君にもっと深く、残す。きっと痛いから、君はそれ以上に、僕を……罰して」
それともユキなのか?
共に頷いた後、私たちは互いに刻んだ。
やっと吸血鬼みたいに歯を立てられたその場所に、“君”を見た。
「――――っ」
貫くような痛みに息を詰まらせ、嚙み締めながら知った。
冷感の雪肌の内側はこんなに温かな血潮で満ちていたのだと。
ほとぼりが冷めればここは実に静かな場所だ。人口の多い横浜市内であるのを忘れるくらい。まるで異空間みたい。真冬の煌めきが降り注ぐ雪景色を切り取ったみたい。
――勿忘草。
そんな景色の中にもそれは在る。いくつ季節が巡ろうが、淡くも冴える青色がいつだって私の世界の中に。
腕の内側の私に、え、と聞き返す貴方に届くだろうか。
「初めての夜……あの栞をくれた日、教えてくれましたよね。勿忘草の花言葉」
「ああ、そうだね」
「驚きましたよ、あんな意味があったなんて。男の人にしては随分とマニアックだなぁって」
「はは、そうかも、ね」
本当はもっと前から知っている。照れ笑いを浮かべている貴方がそれを覚えたのはいつなのだろう。
いや、もう期待はすまい。貴方は貴方の見たものしか知らないはずだ。きっと偶然。
「僕も何処で覚えたのかよくわからないんだ」
偶然……
見つめ合ってくすぐったげな笑顔を確かめた後は、ごく自然に互いの身体へ腕を添わせる。慈しむ冷やかさが心地よくて微睡みそう。ナツメはそっと額を寄せて。
「少し眠りましょう」
そんなまやかしを呟いた。
やがて安らかな寝息が耳元をくすぐった。
同じように見せかけていたナツメは、ゆっくりと、身体を起こす。
――カナタよ。
かすかな吐息の中に想いを託す。
――天よ……
私はもう限界です。
申請の期限を早めて下さい。
出来るならば今すぐに。
可能かどうかもわからなかった願いはいとも簡単に受理されたようだ。天井であるはずの場所から眩い光の柱がめがけて降りてくる。
一糸纏わぬ姿だが焦ることもない。この世界における私の痕跡は全て消え、あちらの世界に戻ったら代わりの衣類が用意される。申請の規約に明記されていることだ。
この世界に在るべきものだけが残る。ハンガーにかけてあった私のシャツが消えると、胸ポケットだったところからはらりと落ちていく勿忘草の栞。
在るべきものだけが残る。
私が消えて、貴方は……ここに。
「ユキ」
カナタが呼びかける。
――君に逢えて良かった。やっと君に伝えられた。私は幸せだったよ――
「冬樹さん」
ナツメが呼びかける。
――勿忘草の無い世界に生きる私のことはどうか忘れて。貴方の謎は私が解明してみせます。だけど……ここには居られないから――
時を超えて重なり合う。二つの想いが共鳴する。
――愛しています――
消えゆく最中でたった一つ、消えゆく火照りの一部分で、無防備にはだけた額に触れた。
光が薄れる頃にはすでに、おぼつかない足取りで森林を進み、還るべき場所を目指していた。申請通り、この世界における衣服を纏って。
「ナツメ……!」
研究所の玄関から飛び出してきた小さな重みを受け止めて。
「ヤナギ」
「ナツメ、その、顔……」
至って表情の乏しい中で琥珀色の瞳だけが大きく見開かれていく。まだ冷めていなかったか。苦笑したナツメは滴りを指先で拭って微笑む。
「ただいま」
――そして、さようなら。




