4. 逃水
学生たちの夏休みはまだ先だけれど、休日ともなればそれなりに賑わうのだな。行き交う男女の番を横目で見送ってはそんなことを思った。
炎天下の昼下がり。虚ろな面持ちのナツメの力ない足取りは、いつの間にやら海へ海へと傾いていた。
すべきことなら明白。それを遂行すべき場所も然り。それなのに珍しく行く宛を失ったような気がしていた。
――ユキちゃん先生?――
――そういえば来てないねぇ――
ご教授願いたいことがあるのだが、なんて、もっともらしい理由で話しかけた生徒の一人からあんなのを聞いてしまったせいだ。きっと。
教職員だって年中無休ではないのだ。それくらい知ってはいるさ。
何遍か己に言い聞かせてみたのだが、未だにこうして彷徨っている現状。大した効力も持たなかったと実感せざるを得ない……無念。
ついには開けたとある敷地内に足を踏み入れて、出会ってしまう。
「シュウちゃん、シュウちゃん! はいっ、あーん」
「おい、やめろよ、こんなとこで~」
(おやおや)
ベンチに腰掛けた二十歳前後くらいの男女が黄土色の器からはみ出した渦状のクリームらしきものを分け合っている。とろりとした質感だから元々冷却されているものなのか?
若草色のワンピースを身を包んだ淑女の方が嬉しそうに目を細めて。
「おいし?」
ごくり、と喉が鳴る。食したことは無い。だけどきっと甘いのだろうと。
「うん、まぁ……美味いよ」
だろうな。そんな渋い顔をしていたって満更でもなさそうに見えるぞ、シュウちゃん。
かつてこの地にて“ハマの破天荒”と呼ばれていた私が知るものとは随分と変わったように思える。この公園だってそもそもは大震災の復興事業として計画されたものだ。昭和五年三月十五日。かつての私が年を重ねるその日に開園した。
今ではデートスポットとして名高いとのことだが、始まりまでの過程を目の当たりにした私の脳裏には未だ、災害による無残な爪痕の残る地で懸命に前を向いて生きようとした人々の姿が焼き付いている。
「いい人たちだったなぁ」
本当にそう思う。むしろ今だからわかるのかも知れない。
広島弁を外で使ったことがほとんど無いとは言え、この地の生まれでないことは明白だったであろう。にも関わらず彼らは私に横浜の二つ名を与えてくれた。
荒んだ顔を持つ時代だった。だけど少なくとも私の周りはそうだったのだ。なんだかんだと守られてきた。
ふと足を止めて、天を仰ぐ。
別れの日となってしまったあの日の空に似ている。雲ひとつ無い快晴を目を細めながら、ナツメは想いを馳せるのだ。彼方へ。
わかるであろう?
だからお前はあんな好き勝手に出来たのだよ。
――カナタへ。
それは罪なる無邪気さへの戒めに他ならなかったはずだ。いっとき、本当にいっときばかりの。
足取りは向きを変え、人混みから遠のき、海沿いの道を歩む。
近付いては消え、近付いては消え。何処まで行っても踏めやしない銀の水たまりを息を切らして追いかけながら。
行かないで。
夏の自然現象と知りながら。どうしようもないと、知りながら。
そしてついに辿り着いてしまった場所にて深い深いため息をつく。涼風にカサ、と鳴る乳白色のビニール袋に視線を落とし、確信したのはただ一つ。
(またカナタにしてやられてしまった)
それは今更とも言える。だからこそ考えを転換することも出来た。
だってずっと逢いたかったのだ。己を悔いたまま、罪に怯えたまま、ずっとずっと長らく私の中に閉じ込められていたのだ。
ただ一つの希望を私に託して。
やがて汗ばんだ指先は向かう。ローマ字書きの“磐座”の下へ、願いを込めて、鳴らす。
はーい。
……えっ、ナツメ?
ドアを開く前からすでにわかるとは。随分と便利な世になったものだ。
感心して頷いたのはほんの一瞬。すぐに我に返ったナツメはキリッと強くドアを睨み。
「早く開けて下さい。アイスが溶けます」
アイス? と驚く彼の訪れを待ったのだ。
きっとあたふたしながらこちらへ向かっている。ドアの間からカッコのつかない顔を覗かせて。
休み、だから。寝癖がついていたりするんだろうか。眼鏡がずれていたり? ボタンを掛け違えていたり? そそっかしいあの人のことだからと思うと、どれもこれもあり得そうで、可笑しい。
「ねぇ、冬樹さん……」
本当はもう、溶けたっていい。
もうどっちがどっちの願いなんだかわからないけれど、大体想像通りな姿を目にするなり綻んでしまう。きっと彼も同じなのだろう。
閉ざされたこの内側で、今にどうしようもなく綻んで、火照って、絡み付く。そんな私が目に見えているからそんな顔をしているのではないか?
なぁ、カナタ。約束だよ。
お前の願いを叶えてやった後は、どうか私の願いを聞いてくれ。




