3. 海神
空気は変わった。気まぐれな初夏からしっとり満たす恵みの梅雨を経て、現在、うだる熱の真夏へと向かっている。
時の流れを止められないのならば、いっそのこともっと駆け足なら良かったのに。夏休みに入ってしまえばこんなときを迎えることも無かったかも、なんて思ってしまう己を胸の内で嘲笑う。
「ねぇ、何かあったでしょ?」
「…………」
「……ユキちゃん先生と」
自分で望んだことではないか。
思えば彼とはいつだって此処だった。長い階段が教壇へと続く、だだっ広くて人気の無いこの場所で、あの人と再会した場所で。
「何故」
やっとそれだけ返してみると、隣に座る圭吾くんの前髪が深くまで被るのが見えた。深く長いため息を落としながら。
「ナツメちゃん、それもう、認めてるのと同じ」
「だから何故」
「わからない? 訊いてるのは俺なんだよ」
こちらへ流し目を送る圭吾くんは、呆れたような気だるい表情をしながらもどういう訳だか悲しそうに続けるのだ。人は何か誤魔化そうとするとき、質問に質問で返すのだと。うむ、勉強になる、な。そこまで悟られているのならやむを得まい。
「いつから気付いていた?」
「やっぱりそうなんだ」
「誰かに言ったのか?」
「……言ってないよ」
こうなってしまったが最後、私に出来るのはやはり質問くらいしかない。ただ一つ一つ形を変えただけの無力なものだ。
「冬樹さ……失礼。磐座准教授はわかりやすいからな」
自分もまたうつむいて、乾いた笑みなんかをこぼしていた。時が来てしまった。そればかりが寂しくて、虚しくて、涙さえ出やしない私の元へ。
――違うよ。
低い、声色が届く。
「言っちゃ悪いけど、ユキちゃん先生は元からあんなじゃない。挙動不審っていうか、よく噛むし。よくドジするし。俺はナツメちゃんを見て気付いたんだよ」
「私を?」
やっと上げることが出来た、私はどんな顔をしていたのだろうか。見たこともない圭吾くんの表情に動きを封じられてしまう。
「きっとみんなは気付いてない。上手くやってると思うよ。だけどね」
見たこともない、笑みに。
「見る人が見れば、ナツメちゃん程わかりやすい子はいないんだよ」
「私の……せい……」
瞬きすら忘れたナツメは愕然とした呻きをやっと紡ぎ出す。確かに望んだことではあったけど、こんなのは想定外だったのだ。
もう知っている。冬樹さんはわかりやすい。馬鹿が付くほど正直で、なんでも逐一報告せねば気が済まぬ人だ。
腕の中の私がどんな反応をしているかまでいちいち告げてくる。それが結果的に嗜虐心にまみれた言葉責めのようになっていることさえ気付かないような人だ。
だから引き出そうとしたのだ。そうなれば私は、例えどんなに嫌でも最終手段を取らざるを得なくなる。
「まぁ普通に考えればユキちゃん先生が悪いよね。どっちからだったのかは知らないけど、ちゃんと大人として止めてあげるべき……」
「私のせいなんだ!」
彼を守る為に。
目を大きく見開いてナツメちゃん……とこぼした圭吾くんは、やがてゆっくりとそっぽを向いてしまう。肘をついた浅黒の手が明るい色合いの襟足を落ち着きなく弄っていて。
「本当に好きなんだね」
何処へ投げかけているかもわからない遠い声は、それでも確かに私へ言うのだ。
「本当にわかりやすいよ、ナツメちゃん。さっきからユキちゃん先生のことしか見えてないでしょ? 隣に居るのは……俺なのに、さ」
「圭吾くん?」
「鈍いよね。可愛いけど」
最後のあたりでナツメは眉をひそめた。言われたことが無い訳ではないけれど、どうも今の自分にはしっくり来ない、というか、受け入れる気になどなれなくて。
持ち手の無い折り畳み式の鞄を小脇に抱えた圭吾くんがものも言わずに立ち上がると、ナツメもとりあえずとばかりに荷物を手繰り寄せた。今にも歩き出しそうな彼の背中に焦燥がつのっていく。
(言いたかったのはこれだけなのか? 本当に?)
もつれる足取りはまたしても危うかったのか。カン、とヒールが鳴ったあたりで突如歩みを止めた圭吾くんの背中にぶつかった。
「すまぬ」
「ごめんね、ナツメちゃん。意地悪しちゃったかも」
振り返った彼の悲しげな表情に息が詰まる。案ずるな、この涙目は鼻をぶつけたせいだ。きっと。
「言うつもりはないよ……今は」
今は? 訊き返してもいないのに彼は頷く。でも、と続けながら。私の髪へそっと触れながら。
「これ以上俺の中でナツメちゃんの存在が大きくなったら……そのときは、約束できない」
「圭吾く」
「ごめんね」
小走りとも言える速さで去っていく彼の背中を見送る途中で、何故今なのだと思った。
――どうか覚えておいて下さい、坊ちゃん――
今となってはもう何処に居るかもわからない恩人の言葉が蘇ってくる。何故今なのだ?
――海は決して優しいものではありません――
――生が芽吹くばかりではない。我々の足下では何千、何億と死に絶えているのです――
――荒波はときに地上の生物にさえ牙を剥く。実に容赦の無い猛獣でしょう?――
「こんなに綺麗なのに」
希望の光から絶望の深みへ、力なく視線を落とした私の隣で、年相応らしからぬ逞しい佇まいのその人はひたすらに前を見据えて微笑んだ。綺麗なオールバックの白髪が絹糸の束のようになびいていた。そして。
「坊ちゃんの心がそう見せているのです。この世の仕組みと同じですよ」
「私の?」
「そう、この世界も決して優しいものではない。美しく見えるのは見る者の心に優しさが在るからです」
ボー、と長く長く続く汽笛の下で目を細めるその頃には私も顔を上げていた。当たり前だ。前を向いたからこそ眩しかったのだ。
鴎の群れと、泡立つ波の白さ、そして見下ろす広大な青空が目にしみて。
「大丈夫です。海神は知っていらっしゃる」
頼もしい声色でそう締め括られた遠い日を今になって思い出すのは何故だろう。
「……責められた方が良かった」
“今”へ戻って来るなりそんなことを呟いた。だって期待していたのだ。この世の残酷さがきっと壊してくれると。
そうなったときの選択はただ一つ。
私の存在をここから、消す。
それで愛しい人が守られる。本当は今すぐにだって出来ることだけど、こんなにも熱に浮かされてしまった私は、きっと極限まで追い詰められねば動けやしない。
期待していたのだ、他でもない私が。それなのに。
――ごめんね――
何故なんだ、圭吾くん。何故そんなに優しいのだ。悪魔のような笑みで蔑んで、お前たちは罪深いと、言いふらしてやると、何故言ってくれなかった。




