其ノ弐~夏の蕾は冬に咲く~
季節は夏の頃。七月七日。鉢合わせたあの方へ向けて、バンと音を立てるようにして突き付けたその日は奇しくも私が一つ歳を重ねる日でした。
“確たる証拠”
何のことはありません。あの夜、夏南汰様の寝床には二つ分の枕が置いてあった、そう伝えるだけで十分でございました。
貴方はいつも涼やかな音色と共にいらっしゃる。夏南汰様も同じものを……この話題は結局出せずじまい。
低い位置から精一杯、見下ろすように顎を突き上げる私の仕草だって、高い高いその人からしたら滑稽に映るやも知れない。写真に納めた訳でもあるまいし。足の長いその人が何食わぬ顔でそう言って、さっさと何処ぞへ歩き去ればそれで終わってしまうようなことだったのです。
だけど私にはある程度の勝算があったのです。動揺を隠しきれず、そらすことも出来ない。熟した林檎のようになっているこんな不器用な人には、向き合う以外の選択など有りはしないでしょう、と。
そして思った通りです。我が恋敵こと春日雪之丞は実にあっさりと首を縦に振りました。もう少し楽しませてくれたっていいんじゃありませんの? と、嫌味の一つも言いたくなったくらいです。
かくして恋敵と認め合った私たちの間には、表向きばかり円満に振る舞うという暗黙の了解が居座りました。一方で出し抜く機会を共に伺っている。私はそう信じていたのです。しかし。
――嫌じゃ、ユキぃ! こんなの、嫌じゃあ……ッ!!――
秋の訪れ。神無月の終わりに事態は一変したのです。
――――!!
早く助けなくてはと扉に張り付いた私は、あろうことかすぐに足止めを食らうことに。実に情けない話です。けれども、あんな光景を目にして一体何が出来たと言うのでしょう。
術を知る者が居るというのなら、是非とも教えて頂きたかったくらい。
それからわずか一週間程で病に伏せられた春日様に続いて、夏南汰様も一日のほとんど床に伏したまま、瞼を腫らし泣き濡れて、なかなか起き上がろうとはなさりませんでした。
そして……なんということでしょう。私はついに確信を覚える羽目となってしまったのです。
それは聞いているだけで胸が締め上げられる悲痛な呻き。痛みに耐える荒い息遣い。初めから全てを察した訳ではございません。
徐々に、徐々に、あの方の声色が変わっていく。妖艶に。聞き覚えがあるようで聞いたことのない声です。
私を抱いて下さったときとはまた違うものでした。
――ユキ……――
ああ、貴方は今、あの方に刻まれた胸の傷痕を消させまいと爪を立てていらっしゃる。激痛と疼きに耐えきれず枕などを握り締めて。
――ああ、ユキ――
「夏南汰、様」
私はその行為をはしたないとは思いませんでした。いくら繊細な容姿と言ったって二十代の男性ですもの。そういった気分になることもあるでしょう。むしろ聞き耳を立てている私の方がよほどはしたないです。
それより何より聞き捨てならないのは、あの方のお名前と共に行われているということ。
扉越しの妖しく切ない音色を聴きながら、せめてもの慰めとばかりに降りたのは生温かい雫一つ。
愛する人の本当の気持ち、わかってはいたのですが。
改めて思い知らされました。忌まわしき名称“恋敵”なる関係さえ、私は手放したくはなかったことを実感したのです。
それからしばらくの師走の頃。
私は初めて最愛の人を突き放しました。貴方がいつまでも落ち込んでいることを望まない、悔いるよりも前を向いてほしいと示したつもりです。
本当はあのとき、私には一つ手段があったのだと思います。本当のことを告げれば夏南汰様は責任を感じて私の元に留まっていてくれたでしょう。
だけど私はそんな計画を立てていた訳じゃありません。反対に言うと我ながら呆れるほど無計画だったのです。
もう自分には勝ち目が無いとわかっていながら……いえ、わかっていたからこそ、最後に一度だけと思って関係を持ったのです。これは私の責任。
「強くならなければ。二人で、生きていく為に」
だけど後悔はしていません。
今、私の中に新たな希望が在るのです。
そして年末を跨いで次なる年へ。
月は卯月。春ではありますが、冒険家・秋瀬夏南汰の復活は、まさにその名に相応しき初夏のような息吹の朝でした。
なのに、なんということでしょう!
「春日様」
「夏呼、さん……」
出発の日時なら文にて伝えてあったはず。なのに何故貴方がここに居るのです? 庭の手入れの最中だった私はいよいよ目くじらを立てました。
「わかってるよ、本当は。かな……秋瀬には僕なんかより、君のような素敵な女性が……」
此の期に及んで何をふざけていらっしゃるのです?
「此度の船旅の意味は、ご存知で?」
まさかと思って尋ねてみました。嫌な予感は的中しておりました。春日様はそれは見事に、大いに勘違いなさっていたのです。
“同性愛者の生きやすい世を実現すべく武器を探す旅”
“きっかけは同情”……ですって?
「本気でそのようにお考えなのですか!?」
「夏呼さん……?」
「私はしかと聞きました。貴方が結核でなかったという朗報を受けるその日まで、毎日、毎晩、この耳で!」
我ながら哀しいくらいのお節介でした。まぁるく見開かれていく茶色の垂れ目を目の当たりにして、本当に自分が、無様で、情けなくて、たまらなかったのですが。
「何度も呼んでいらっしゃいました。貴方を」
あの七夕の日を遥かに上回る衝動に突き動かされ。
「あれは……その、ご自身を慰められる声、ですよ。もうおわかりでしょう」
「秋瀬……が? 僕、を……」
「何を自惚れていらっしゃるのです。純粋無垢で蕾のようなあの方を、目覚めさせたのは貴方でしょう? あんな乱暴に引き剥がしておいて! 責任くらい取ったら如何です!?」
…………っ!
言葉を失ったままでくのぼうみたく立ちすくむ、こんな、こんな人でも、私の最愛の人の最愛だからこそ。
ありったけの想いを叩きつけた私は、ちょうど手元に在った青い花を鋏で切り取って春日様にお渡ししました。
私が知る限り殿方というのはお花に疎い人ばかりです。知っていてせいぜいあっちの意味。哀しげな眼差しで見下ろしているこの人もきっと、と思って口にしました。
「勿忘草。その意味は……」
私は最愛の人に伝えることが出来なかったのに。なんというお節介でしょう、ね。
やがて目が覚めたとばかりに踵を返し、一目散に走り去った春日様の背中を見つめながら、私は一つ、思い出しました。
“私はよく同じ夢を見るんだ”
その話を聞いたのは私が脅威におののく少し前。横浜の地に慣れていたはずの貴方が頻繁に故郷の言葉を口にするようになった頃です。
今思えばもう始まっていたのですね。
「夏南汰様」
貴方が恥ずかしいと仰ったあれは……私には、決して触れることの叶わない甘美な音色なのです。
今でもしかと覚えています。扉の隙間から垣間見たあの日、あの夕暮れ時。闇夜に目覚めゆく獰猛な吸血鬼に貪られるようになりながらも、貴方の震える手は確かに求めていらっしゃった。瞼を伏せ泣き濡れたその御顔は、実に妖艶かつ恍惚としていて。
それはずっと前から繰り返し続けた貴方の望み。そうでしょう、ねぇ? 夏南汰様。その夢は……
あの方に抱かれる夢、ですね?
昭和六年四月十五日
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こじんまりとした机の片隅に乗っかった間接照明がぼうっと滲むように照らすそこは、三割が橙の光、七割は……
「何度綴ってみても“冒険記”になどなりはしませんでしたわ」
大部分の闇に溶かし込むよう呟いたつもりでした。しかしすぐさま返ってくる、は? という訝しげな低い声。遠慮でもしていらっしゃるのか片隅の床に直接座っているその人は、離れた私へと首を傾げるのです。
「なんか言ったか?」
「いえ。どうかお気になさらず」
「お前……」
そしてどうやら勘付いたようです。貴方が鋭いのか、あるいは私の変化がそれ程わかりやすいのか。
「なぁ、ヤナギ」
いや、とすぐに続けて切り替える。私に合わせるように。
「今は、夏呼か」
「そうですね。貴方も今は、あのときの目をしていらっしゃいます」
「わかるか」
「はい」
仰りたいこともなんとなく、ですが。出来れば聞きたくはありません。避けられないのでしょうが。
「もし“昔の男”があの男なんだとしたら」
やはり避けられませんね。
「俺は……認められねぇ」
「元より天がお許しになりませんが?」
「それだけじゃねぇ。お前ならわかるだろう」
ああ、もうすでに声ではなく音となりつつあります。それでもただ一言だけ、確かめることが出来てしまった。
「あの男はアイツを連れ去った不届き者だ」
それに対して私はぼんやりと、微睡みの最中からこう返した気がします。
「それでもあのお方の最愛の人です。あんな、人でも」
再び物質なるものを纏って冒険の旅に出たあの人が禁忌をおかして結ばれた日は、七月七日。私はこれを偶然とは思えません。
かつて同じ日に生を受けた私は、長く時を経て辿り着いたこの場所で願ったのです。ちょうどその夜に。まろやかな甘さが彩る天へ、今だからこそ、と。
どうか私の最愛の人の最愛の願いが叶いますように
天よ。
そう願った私もまた、罪ではないでしょうか。




