八. 海誓山盟
港に駆け付けてきたユキを見た瞬間、私はあの日のことを思い出した。早いものでもう半年は前になる。
旅の仲間である迅さんと命さんを初めて屋敷に招いた日のことだ。
一通りの計画を話し終え皆が帰った後、夏呼も夕食の買い出しに出かけた。静まり返った応接間にはユキと私だけが残った。私はそこで彼に“面白い話”を持ちかけたんだ。ちょっと遊び心を交えた謎かけのつもりだった。
――私は夏が好きなんだ。
赤みがかった夕方の窓辺で、最初はこう一言だけ告げた。まぁるく見開いた目ん玉を次第に柔らかな垂れ気味の瞼で細めていったユキは、うんと小さく頷いた後に笑みをこぼした。
そうだね、そんな名前だもんね、なんて、早々に納得しかけているところへ割って入るようにして届けた二言目。
「だけど冬も好きなんだ」
「うん……?」
「特に雪がいい。しんしんと舞い降りて、天使の如く労わってくれるあの、粉雪が……な」
…………
「……秋瀬?」
何か感じ取ってくれたのか、ユキは無意識に自身の胸元を握ったりなどした。眉を寄せる表情は何処か不安げにも見えた。実際そうだったのかも知れない。なのに申し訳ない話だが、それすら愛らしく感じた私は勿体ぶりながらも訊いたのだ。
「夏と冬。共に在ったら素敵だと思わぬか?」
「夏と冬……? 真逆じゃないか。そんなことが出来るの?」
「ふふ、そうじゃな。だけどもし出来たなら見てみたくはないか? 君が望んでくれると言うのなら、私は君に見せてやりたいと思う」
何処まで意味が伝わったかなんてわからない。今明かしてはならない、でもそこはかとなく匂わす。それはなかなか至難の技と言えるからだ。
「……うん」
だいぶ後になってからだ。どれくらいって窓辺の紅に藍が滲み始めた頃なのだから、きっとこちらが感じる以上に時間を要したのだと思われる。そんな頃になってユキは言った。
「見せてくれる? 秋瀬。少しは……期待して、いいの?」
闇に飲まれし下の方で、こつん、こつん、と触れ合った指と指。少しばかりじれったく思った私は、彼の手を強く握った。大きく頷いて彼の問いかけに答えた。
「ああ! 大いに期待してくれ!!」
今思うと私は本当に無責任だった。
ユキが一体何を期待したのか確かめようとしなかった。ただ自分にとって面白かっただけだ。実に独り善がりだった。
事実、それからわずか数日後にユキは激しく傷付いたのだ。私に襲いかかった自分を責めて泣いていた。元は優しいユキだ。私の身体の痛み以上に彼の心は痛んだに違いない。
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「秋瀬……ごめん、遅く、なって……」
そして今もそうやって苦しそうにしている。こちらからでは遠く小さいがゆえに大まかな顔のつくりくらいしか伺えない。だけどその痩せた身体がどんな状態であるか、察するなら咳と吐息で切れ切れなその声色だけで十分だ。
「無理をしなくても良かったのに、ユキ」
「ごめん、ごめんね、秋瀬。僕は、僕、は……」
ゲホゲホッと一層激しくむせ返った彼をもう一度呼んだ。たまらず駆け出した私は得意の俊足であっという間に彼の元へ辿り着く。
危うげな息遣いの中に微かに混じる声の形を確かめようと顔を寄せる。
「この、旅の、目的……聞いた、んだ。僕の、為……だって。君の気持ちも、知らないで、僕は、君に酷いことを」
「もういいんだ、ユキ。私かて君を沢山傷付けて」
「わかってないのは……っ、僕の方だった……!」
「……もう、ええんじゃよ。私なんて未だにわからんことばかりなんじゃ。ほんまにすまんのう、ユキ」
「だけ、ど……あき、せ……ちが、うん、だ……ぼくが、すき、なの、は……ただ……」
「大丈夫じゃ。大丈夫じゃよ、ユキ。私は怒ってなどおらぬ」
ユキの声は次第に掠れて聞き取りづらくなった。あまりに咳を繰り返したせいか、酸欠なのか身体が小刻みに震えている。潤んだ目で何か訴えかけているのはわかる。もう謝らなくてもいいのに。
そんな彼の手を握ってやろうとしたときだ。
「ユキ、それは?」
彼がすでにあるものを握りしめていると気付くなり、鮮烈に飛び込んでくる色。真っ白な手によく映えるそれを確かめると、反して周りの全ての色が抜け落ちたような錯覚さえ覚えて息を飲む。
「これ、を、君……に、とど、け、たく……」
そうか、ユキ。わかったよ。何も言わなくていい。だってそれなら知っているから。
「勿忘草」
いつか夏呼から聞いた。その花が持つあまりに儚い意味も。悲しい言い伝えも。
思い出すなり熱く滲んでくる感覚を振り払おうと抗う私は、せめてもの笑みを君に見せ付けてやるくらい。
「ユキ、私が死ぬとでも?」
それとも君がそんな覚悟を決めていると言うのか? やめてくれ。
ユキは何か言いたげに唇を震わせている。大きく開かれた瞳の傍へ私はそっと手を宛てる。見えもしない涙を拭うみたいに指先を行ったり来たりさせて。
「大丈夫だ。私は死なない。君ももちろん、死なないよ」
「あき、せ……っ」
「もう帰って休め。な?」
何度でも私を呼ぼうとする君の声は、もうそんなに掠れきっているではないか。ならば私から手離してやらねば、な。
あき、せ、まっ……
秋瀬……っ
不揃いな勿忘草の束を受け取った私は、やがて船に向かう途中で耳にした。
「おいおい、大丈夫か? 兄ちゃん」
絶えず続くユキの咳と、案ずる誰かの声と。
「なぁ、もしかしてコイツ……肺結核じゃねぇのか?」
『えっ!?』
誰かの、声。それは確実に数と密度を増していくようだ。いくらか離れた背中からでも感じられるくらい。
おい、勘弁してくれよ。
なんで結核の奴がここに……
耐えきれずしゃがみ込んだりなんかする、君の姿も見えるようだよ。
――違う。
すぐ目前だった船も、目を見張っている命さんにも、迅さんにさえ一言も告げず、振り返った私はただ一言を放つ。他でもない君の方を向いて。
「その人は結核じゃないよ」
そこから先も迷わずだった。思った通り膝を着いてうずくまっている彼を……ユキを、目指して歩む足取りは次第に速度を増していった。
波と人の騒めきが占める穏やかならぬ港の淵。
夢中で走って落ち着いたところはもちろん。
「なぁ、そうじゃろ? ユキ」
君だ。迷わず触れるのだって、手を伸ばすのだって、もちろん。
「駄目……だよ、秋瀬……そん、な」
「ユキ、じっとして」
君なのだよ。
「そんな、に、近付いた、ら、うつっ……」
――――!
それはいつか彼にしたのとそっくりだ。甘く香って酔わせようとするような息遣いを制するものだ。だけど触れた場所は違う。君のじゃなくて私のだ。
もう、指先などではなく。
「あ……っ、秋瀬……」
君の髪から私の手が、かすれた息から熱い息が。
そして呆気にとられた君が今、その手で押さえているところから、私の唇が遠のく頃、うおお! と沸き立つ唸りがやっとここへ届いたようだ。
ハマの破天荒がまたやりおったぁ!
こんな場所で信じられん。それも男同士だぞ!?
そんな風に色めき立っている彼らにも言ってやりたいところだか、まずは誰よりも君に伝えたい。
「えーがの!!」
真っ赤な顔をしてもはや言葉すら紡げない君に向かって目一杯に咲かせた、私の夏。
ユキが結核じゃないことはもちろん、男同士の触れ合いが気持ち悪いものじゃないことを私は示したかった。これくらい大切に思っている、だから悪く言わないでほしいと願いを込めた。
……とは言え、ユキの同意を得た訳ではなく。
驚かせてしまったのは間違いないだろう。うむ、さすがにやり過ぎだったか? どうも私は身体が先に動いてしまうものでな。
だからこれで良かったのかなんてわからない。君にとって何になるかどころか、自分でさえはっきりしないのだ。もしかしたら私はまた一つ、罪を重ねてしまったのかも知れない。それでも。
「心配するな。必ず帰るから」
再び駆け出した私は彼方から高らかに言ってのけるのだ。唯一これだけははっきりしている。そう君に伝えてやる為に。
「大好きじゃけぇのーっ、ユキ!!」
君が何を求めようと、この想いは決して変わりはしないから。
低くとも確かな唸りは青々とした天を貫く。動き出してしまった船から、こちらから見るユキの姿はもう豆粒のようだ。
「夏南汰……お前、やっぱり?」
「ああ、そうじゃな」
迷うことなく返すと丸くしていた命さんの瞳の形が変わっていく。眩い光でも目にしたかのようなちょっと渋い笑み、らしきものだ。
「実に美しいですぞ、坊ちゃん! 旅路の前からこのような清々しい光景に出会えるとは……この柏原、心から拍手を送りますぞ……!」
「ああ、そうじゃろう!」
進む先へ向けて厚い胸板を張る迅さんの豪快な笑い声にも迷わず答えた。
無責任だったかも知れない。罪だったかも知れない。このときはまだ感覚でしかなかった。
だけど、世は無情。
感覚はやがて確信となった。それは遠い遠い時を経た、遠い遠い場所でのことだ。稲光りが貫く夜に。
これは罪であった。
私はついに認めざるを得なくなる。
何故なら再び目覚めたそこに、君は居なかったのだから。




