8. 空蝉
多くの言葉を交わした訳ではないが、ごく自然に場所を移そうと視線だけで理解し合った私とブランチは、施設内でも奥まったところに位置する食堂へと向かった。
午後十六時より少し前という中途半端な時間帯もあって人の姿は無く、恐らくは栄養士たちも厨房で夕飯の仕込みに勤しんでいる。それでも私たちは用心深く、窓際の更に一番奥の席に落ち着いた。
「は? マジでそうなっちまったのかよ」
もはや遠回しな比喩など無駄。いずれせよ打ち明ける気だったのだから率直に越したことはないとの判断で打ち明けると早速この反応だ。
それにしたってその表情は何だ。まるで阿呆を見るような目ではないか。いや……紛れもなく阿呆なのだが。言い訳など出来ぬ、それはわかっているのだが……!
羞恥心やらいたたまれなさやらがふつふつと沸いてきたナツメは恨めしげな上目遣いで。
「君があんな予言をするから」
「俺のせいかよ」
更に冷感を増したブランチの眼差しに対し、わかってる! と、もう少しで噛みつくところだった。
それでも結局は何やら思考を巡らせて唸る、この男の前だと私はまた違った意味で実に我儘なのかも知れない。
「七夕の夜、か。まぁな、女はそういうの弱えからな。いつもと違う日にちょっと強気に迫られりゃあお前だって……」
「いや。多分、その……私が誘った」
「積極的かよ! 何やってんだお前!」
いや、むしろ何してんだその男、などとぼやいているその意味も大体察しがつく。
軟弱者嫌いなブランチのことだ。一回りも目下の娘にホイと流される男など理解しかねると言ったところなのだろう。そのような渋い表情になるのも無理はない。
そう、この男はなんだかんだと私の味方で居てくれようとする。厳しい口調で叱りつつも、時には家族のように……
「聞いていいか?」
「何だ」
「女の身体ってやっぱ……すげぇのか? 男の何倍も感じるっつーアレは!」
「……セクシャルハラスメントで訴えても良いだろうか」
前言撤回。言うまでもないがこんなけしからん好奇心に応答すべく帰ってきたのではない。呆れるのも憤るのもこちらの番と言って然るべき。なのに、何故だろうか。
「お前にだから聞いてるんだけどな。滅多に起こることじゃないとは言え、俺だって次は女かも知れねぇんだし」
そんなことを言ってる彼に。
「痛かった。息が出来ないくらい苦しくて、十二も上とは思えないくらい、力強く」
「おめぇも生々しいじゃねぇか」
はは、と苦笑混じりに始めた彼の声も表情も固まらせるところまで自分でも気付かなかったくらい、自然な現象だった。
「……痛かったんだ。なのに、こっちには持って来れない。手放したくなくても、留めておきたくても、何度刻まれても、かなわない、なんて……」
「お、おい」
「女として生きるのがこんなに辛いなんて思わなかった……っ!」
気がつく頃にはもう大量に零している。さすがのブランチも困り果てているだろうと容易に察することができても、こんな頼りにならない己ではもうどうしようもない。
「まぁ、だけどよ。いい経験になったとでも思えよ、お前。もちろん上に知れたらただじゃ済まねえだろうけどよ。お前が後腐れなく終わらせるってんなら、俺も言うつもりはねぇし?」
「…………」
「な、そうしろよ。傷はいずれ癒える。お前なら無かったことにできるんだ。昔の男に罪悪感を感じてるのだってわかってるけどよ」
――違う。
苦肉の索とばかりにやけに前向きな促しを続けていたブランチの言葉もついに遮った。ついに、せきをきって。
「無かったことになんて……無理だ。私がここまで生きてきた意味は、ただ一つしか、無いんだから!」
「ナツメ? お前……何、言っ……」
「彼が“昔の男”なんだよッ!!」
溢れ出した長年の想いは儚い破片となって星屑の如く赤みの宙を舞う。昔のって……やっと理解し始めたブランチの声色も表情も、全てが遠のいていく中で。
――ナツメ、好きだよ、ナツメ……――
――本当は離したくなかった――
“二度と”
――愛してる――
身体にこそ刻めなくとも奥深くへ刻まれたあの夜がこの場に在るかのように蘇って、泣いてしまう。
きっかけは青い花が閉じ込められた栞だった。事を終えた後に彼が私にくれた。私に持っていてほしいと言ってくれた。
その青い花には二つの花言葉がある。
一つは“私を忘れないで”
そしてもう一つが……
――真実の愛。僕はこっちの方が好きでね――
照れくさそうに微笑む彼を見つめていた途中、私の脳内に凄まじい閃光が訪れた。
そん、な。貴方は……まさか……!?
そして私は恥じらいすら忘れて彼に二度目を求めた。どうしてもそうする必要があった。貴方の正体を知る為に
今度は“カナタ”として抱かれる必要があったのだ。
過去の私の波長で接すれば、過去の君を見つけられるかも知れないと考えて。
女に生まれてからは一度も経験が無かった。そんな私に対して優しく、それでいて冷たい吹雪のように激しく、想いを全身で伝えてくれる彼に爪を立てている自分に気付く頃、見出したばかりの可能性はついに確信へと変わった。
ああ、私はこれ程までに望んでいたのか。本当は、きっと、あの頃から……?
君が生きてる。その息吹を、鼓動を確かに感じられる。今だけは喜んでもええのか、のう?
私は冬樹さんと恋に落ちたことで君を裏切ったと思っていたんだ。だけど違った。これは出逢いじゃなくて再会だったんだ。姿形変わっても、こうして君とまた出逢うことが出来たんだ。
忘れたことなんて無かった。ずっと、ずっと、逢いたかったよ。
――ユキ。
胸の内だけで繰り返すしかなかった無力な一夜。天の恋人たちは私たちに同情でもしてくれたのだろうか。




