6. 栞
翌る日の朝、ナツメは物思いにふける。
今更だけどそういえば……
この世界のこの国のこの街へやってきて、この名を名乗るようになってから、休日を休日らしく過ごしたこともない。必要すら無いと思っていた。
しかし流石に今回ばかりは甘んじて受け入れるしかなさそうだと全身で実感している。力ないため息をこぼしながら寝返りを打つ、一人暮らしの自室。
(あの人は眠れただろうか?)
薄いグレーの天井を仰ぎ、今更と知りつつも案じてみる。初めて共に過ごした晩はほんの数時間程度しか眠っていない。体力有り余る自分でさえこうなのだ。十二も上で更にか細いときている彼にはさぞかしこたえたことだろう、などと。
決めていたライフスタイルもみっともなく崩れている今、私はベッドの上で寝転がりながら暇つぶしの本へと手を伸ばしている。あまりしたことがないからどの体勢へ持っていけばいいのか思考した末に、仰向けの顔の前で大きく開いた。そのときだ。
はらりと落ちてくる何かを捉えて反射的に目をつぶった。しかしそれは閉じた方ではなく半開きになったままのもっと下で落ち着くのだ。
(こうしてまた私の手に……)
いや、唇に。もはや書物の方は脇へほっぽり投げて、小さく頼りないそればかりにひたすら魅入った。
まるで半透明を彷彿とさせる、それでいて凛とした青色の押し花。それは今となっては遠い、遥か彼方の記憶の中にも確かに在る。
(しかも苗字が“磐座”、地域も関東……)
偶然とはとても思えない。
昨日の夕方あたり、同じ研究に勤しむ最中で彼は私に向かって一つ質問をしたのだ。
「ねぇ、ナツメってさ、広島に住んでたことあるんじゃない?」
でも出身は海外か……なんて、早々に思い直している様子の彼を凝視した。単純に知ってみたくなって。
「何故です?」
「いや、青痣を“あおじ”って言ってたから。昼休みも“昼休憩”って言ってる。そう遠いニュアンスじゃないから何となくわかったけど、思い出すまでにちょっと時間がかかったよ」
「冬樹さんも、そちらの?」
困ったような笑みでかぶりを振るその人は言った。自分は違う、ずっと関東だと。この神奈川に住み始めてからも割と長い。だけど。
「ほんの一時期あったんだよね。大学生の頃さ。多くの友人が都内へ出て行く中で、何故か僕が真っ先に行きたいと思ったのがそこだった。あの厳しい両親に多分初めて我儘を言った」
くすぐったそうに笑っている彼に、とりあえずは何か結論を与えておかねばと思った。ナツメはただ涼しく微笑んで見せただけで。
「ええ、私もほんの一時期居ました。偶然ですね」
――偶然なんかじゃない。
本当はドクドクと不穏な鼓動が胸の奥で続いていた。
まさか君がそこまで動いていたなんて。
今では決して知ることの出来ないその数年、この寂しげな顔がどんなであったのか。もしかして今よりもっと……? 想像するだけで胸が痛んだことなど、当然ながら打ち明けるなんて出来なかった。
ベッドの上でナツメは再び瞼を開く。
いい加減気持ちを切り替えねばと思った。これから行くべき場所があるからだ。
鈍痛の冷めやらぬこんな状態で動くのは少々、いやだいぶためらわれたが、連絡一つ取れない現状で約束を放棄する訳にもいくまい。時間を定めていなかったことだけを幸いと己に言い聞かせた後は重い腰を上げて身支度へと勤しんだ。
部屋を出る間際で名残惜しく振り返った。
(これは連れていけない)
だからこそこの世界に居る間は大事に残しておこうと決めた。繊細な青い花が閉じ込められた栞は、ひっそりとテーブルの上へ。
後ろ髪を引かれる思いでナツメは自室を後にした。
海岸沿いの道にはヒールの高音が規則的に響く。しかしそれ以上に、眩しい陽射しの下でやたらと騒いでいる波の音がナツメの胸の奥を揺らす。
(一線まで超えてしまったなんて、ブランチには知られたくない)
想像するだけで怖かった。何故怖いのか、私にとっては明白。
この世界の人間と関係を持つなど本当はいけないことだったからだ。
わかっていながら私は我儘を抑えられなかったという訳だ。この世界にいる間だけでも、一度だけでもいいから彼が欲しいと思ってしまったのだ。
いずれ全て無かったことになるのだから……などという甘えた考えで距離を詰めてしまった。そんなことしたらもっと欲しくなると予想できなかったのか、私は。実に、情けない……っ。
(だけどブランチだけには話しておかねば。怒られるのは目に見えてるけど……知られないままでは、恐らく、もっと、困る!)
何故困るのか。それもまた私にとっては明白だった。
共に過ごした夜、あのときになって初めて、彼の正体に気付いてしまったのだ。
“磐座冬樹”……確かにそうなのだけど……私が知っているのはその人だけじゃない。彼と繋がっている最中に、私は確かに見たんだ。
――可愛いよ、秋瀬は――
“貴方”の中に“君”を見たんだ。
このまま無かったことになんて出来る訳がない。
だからと言って、ずっと傍に居るのも……不可能だ。
交互の足取りに合わせて行ったり来たりする、それは困惑と困惑がせめぎ合う歩みだった。




