4. 冷夏
夏なのに、木枯らしを彷彿とさせる寂しげな人。貴方をこれ以上悲しませたくなくて、だけど悲しむ顔さえも独り占めしたくて、自分の我儘に心底呆れながらも受け止めてくれる貴方に甘える日々が続いた。
隣に居られるだけで十分と自分に言い聞かせてきたはずだ。それなのに欲というのは何故にこうも拡大していくのか。貴方の存在ばかりが気になって、あんなにのめり込んでいた研究にも集中できなくなってくる。腑抜けていく己に悔しさがつのる。
そしてついに七月七日。
私は少しばかり疲れてしまったようだ。もはや放心状態に近いと言ってもいい。
研究室に居ながら顕微鏡に指一本触れない日がよもや訪れるなど思いもしなかった。いつものソファの上、彼と並んで過ごす夕暮れはやがて季節外れの冷たい夜へと移り変わる。
アイスコーヒーにするべきだったか、なんて一時は己の配慮の無さを悔やんだものの、やけに染み渡る温かな感覚を受けると、あながち間違ったチョイスではなかったかと思えて密やかな安堵の息を漏らしていた。
「ねぇ、秋瀬。初めて会ったときにした話、覚えてるかな?」
どれくらいかのタイミングで彼が突拍子もなく切り出した。初めて会った日……小さく首を傾げるナツメは幾つかの断片を拾い集めてみる。
「お札の話ですか?」
「ふふ、そんな話もしたね」
「じゃあなんですか」
「僕が今思い出したのは弟の話」
ああ、そういえばそうだったか。弟が春樹で自分が冬樹。私は秋瀬ナツメ。ゆえに、ここに彼が居たなら全員合わせて春夏秋冬、とかいう冴えないネタだったな、と思い出す。何某レンジャーというオチにでも持っていきたかったのか?
「僕とは真逆なんだよ、あいつ。磐座家って実は厳格な地主の家系でね、兄弟揃って厳しく躾けられてきたんだ」
「へぇ……」
「なのにあいつときたら好きな女性との結婚を反対されて、挙句に駆け落ちさ」
「大胆ですね!」
正直会ったこともないその人にさほど興味は沸かなかった。大体急にこんな話を持ち出してくる意味もわからない。一体何を言いたいのだ。
それでも時折目を見開いたり、声を大にして相槌を打ってみたり……なんて、柄にもないことを続けていたのは……
「参ったよ。本当はね、弟が実家を継ぐことになっていたんだ。僕が大学でそこそこ昇進していってるから、跡取りは何も長男でなくてもいいだろうと両親は見逃してくれていた。だけど逃げられちゃった。本来の立場に戻ってしまったんだ。弟はもう自由を手に入れた。僕にはとても……真似の出来ないことだ」
私を置いて窓際まで歩いていく全体的に白く儚い後ろ姿。貴方から目を離すなんて、出来ないから。
「僕は枯れてしまった冬も同然」
乾いた笑みなんて零しながら貴方は言う。私に背を向けたまま。
「朗らかな春にはなれない。自由には生きられない。それが僕だけだったらまだいいけれど、そうもいかないんだ。例えばその……結婚相手を決めるのも両親になる。いきなり言ってくると、思う。例えば、例えばだよ? 僕を気に入ってくれた人が居たとしても応えられる保証が無いんだ。だって僕は幸せにしてあげられな……」
「私は……冬が好きです」
そして私は遮った。彼の背中に向かって。
――私は……っ!
どうしようもないくらい喉が詰まって仕方がないから。それでも絞り出して伝えたいから。
「冬樹さん、が……」
「…………!」
「…………っ」
「秋瀬!」
そこまできて私はまた動きを封じられるのだ。慌てた様子でこちらへ引き返した彼が私の両肩をしかと掴んだ。哀しい枯葉色の目で私を覗き込みながら優しく叱る。
「それは駄目だよ、その名で呼んじゃ……」
「自分から名乗ったんじゃないですか!」
彼が駄目、ともう一度口にする前に私は声を張り上げた。なんて無責任なんだ。ずるいんだ。やり場のない苛立ちも、容赦もなく涙腺を攻撃する熱い唸りにも、とてもじゃないけど耐えられそうにない。
「ずるい……ですよ。私から近付くと逃げるなんて」
「ちがっ、それは僕が教師だからで、逃げてなんか……」
「あのときだって私を呼んだくせに。“ナツメ”って呼んでくれたのちゃんと聞こえたんだから! 知ってるんだから!」
「秋、瀬……」
「そんな話を聞いてしまったら尚更認めるしかないじゃないですか。貴方も私も、責任なんて取れない。私の卒業まで待っても無駄だと言いたいんですよね? なんで……今更。それで私が納得するとでも……簡単に遠ざけられるとでも思ったんですか」
小刻みに震えてうつむく今にも泣きそうな顔を強く睨んだ。そんなの無駄だって、もう許さないって。自分勝手なのは痛いくらいにわかっていたけれど。
「わかりました。もうこれが最後でもいいです。最後にしましょう。私ももう耐えられないです」
「…………」
「だから聞かせて下さい。ねぇ、お願い……もう一度私を呼んで。先生としてではなく、貴方の声で」
貴方の気持ちを確かめるまで絶対、離さない。
――冬樹さん……!
あまりにも我を忘れていたせいか。相当な力だというのに痛みすらわからなかった。代わりに痺れた。今やこの全てを包み込んでくれている、ずっと感じたかった気配と、匂いと、冷たさと。
「ナツ……メ……ッ」
すすり泣きに混じる甘さと。
「ごめん、ね。ごめん。ナツメ……好きだよ。好き……大好き……」
吐息と。
言葉なんて大して交わしもしなかったのに、約束なる形だって成していなかったのに、そこから辿る道のりは共に同じだった。
そうだ、今日は七月七日。そういえば……なんて、虚ろな想いを馳せているうちに、もう彼の住むマンションが目前に在って。
「帰らないの?」
って訊く彼の鼻声にかぶりを振って返す。何を今更、と。
「悪い子だね」
何を今更。
ドアを閉ざすと数分としないうちに動き出す。暗がりのままの短い廊下で明かりを灯そうと探る私の手は
「ナツメ」
この身体ごと冷たい壁に押し付けられてしまう。
しばらくは唇だけで触れていた。やがて速度も深さも増して混じり合う音が全てを占める頃、自身の中に夏が生まれた気がした。その季節を模した名ではないというのに。
「どうしよう、ナツメ。もう、多分、止められない」
そんなのは私だって同じだ。
「ねぇ、君……もしかして……」
すぐに察したそれにだって、返す言葉なら決まってる。
「冬樹さんがいいんです」
悪い子、なんて、何度言われたって構わない。迷わずそう思ってしまったこの夜。私は幾つかを知った。
愛の色は赤だと思っていた。そんな漠然とした意識も覆されてしまった今、見出したのは青だ。こんな場所でこんな風に、在るべき場所に辿り着くのも待てず、一枚一枚剥がれては互いばかりを確かめている。星明かりの青みに照らされているありのままの私たちにはこれ以上になく相応しい色に思えた。
そして刻まれる度につのっていく。これは持っていけないんだ。打ち震える程の痛みも痺れも、いずれは消えてしまうんだ。この身体では。
私は知った。いや、思い知ったのだ。
やはり引き返すべきはあのときだった。柔らかな雪の香りに導かれて唇を寄せた。彼の名の方を呼んでしまった、あのとき?
いいや、違う。もっと前だ。戻ろうったってそれじゃあ遅すぎる。欠片ばかりの自制心さえ見失った今になってなお実感できる。
「冬樹……さ、ん……っ」
爪を立てて涙する、今更。口にしたが最後、一線なんてもうとっくに越えてしまっていたんだ。




