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3. 七月



 戸を開け放つとコツコツと軽快な高音が後に続く。さも当然といったふうに白衣を纏い、ヒールの足で颯爽と進みゆく私をソファの上の彼が呆然とした目で追ったのは、思わぬ高熱に倒れ伏した翌日のことだ。



「あ、秋瀬? 熱は……」


「もう大丈夫です」


「三十八度五分もあったじゃないか!」



「それが嘘みたいに下がったんですよ。もう平熱です」



 三十五度七分。ちょっと低いですけどね、と続けて微笑んで見せるも、まだ何か言いたげに唇を戦慄わななかせている。本当にこの人は……何処ぞへため息を流すことで自分なりの切り替えを済ませて顕微鏡の前に着いた。


「秋瀬……」


 か細い声が背後に届くも振り返る気にはなれない。貴方のことだ。言わんとしている考え一つろくに形を成してはいないのだろう、と気だるい苛立ちさえ覚えていたときだ。



「ごめん!!」


 振り返らずとも何故か手に取るようにわかる。大きく、下へ、振りかぶる気配。


「教え子にあんなことするなんて……僕は……っ」


「あんなこと、と言いますと?」


「……っ、その、抱き締める……とか」


「それが何か」


 言わんとしていることがわかる。出来るならばこのままずっと、形を成してなどほしくない。苛立ちの中でじわじわと熱を増す甘い願いに気付いて唇を噛んでいた。だから、と切り出す臆病な声色を受け入れたくなくて下を向いていたのだが。



「今から話してくるよ、学長に。もしものときの為にちゃんと辞表も用意してきた。謝って済まされることじゃないし、覚悟も出来てる! 辞するだけでは足りないと秋瀬が思うなら訴訟にかけられたって」


「そんなことしなくていいです」



 可動式の椅子ごとゆっくり振り返る頃、苛立ちはすでに形を変えていた。呆れ、それから。


「あっ……秋瀬!」


 素早く取り上げて散り散りに千切った。儚い紙吹雪と化した元辞表の中で呆気に取られたその顔を見下ろしている、私の、この感覚を、何と称するべきか。



「心配してくれたんですよね。貴方は、教育者として」


「…………」


「わかってますから」



 押し黙っているその人の隣に着く気にも、いつかみたいに呑気に珈琲を嗜む気にもなれなくて、一旦はその場を去ろうと目論んだ。するとまた身体が小さく傾いた。悪寒に悲鳴を上げる肩を自ら押さえるよりも先に彼が声を張り上げる。


「やっぱり治ってないじゃないか!」


 私の元へ駆け寄ってから少しためらったみたいだ。それでも結局は触れてくる、冷たく大きな手を肩越しに恨めしく睨んだ。



「なら、傍に居て下さい」



 貴方のせいだ。貴方の、せいだ。



「辞めたら許しません」



 きっと私は怒るより酷いことをしてしまった。





 突き動かされるまでの時間はいくらも要さなかった。だってあんな顔をされたのだ。あんな声色を受けたのだ。うごめき浸食していく罪悪感の中で一つの疑問が頭を出す。



 “ナツメ”


 私は何故、これを執拗に求めるのだろう。他の者ならなんのことはないのに、あの声色を通して


 “秋瀬”


 と、呼ばれるのが近頃たまらなく嫌に感じた。何故だろうか。




 酷い八つ当たりをしてしまった翌日は、時間調整をして訪れた。それはこれまでとは逆の意味だ。移り変わった月ごと跨ぐようにして踏み込んだなら意を決し、寂しげなソファの上の人に告げる。



「珈琲を飲みましょう」


「うん……」



 何度見たって紛らわしい。笑ってるんだか、それとも泣いているんだか、そんな顔で縋るように見上げる貴方を私は放っておけない。



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