2. 陽炎
このようなゆゆしき事態になった経緯を説明するとしたら……約一週間ほど遡れば良いだろうか。七月に入ったばかりのある日。
「ナ〜ツメちゃん!」
覚えのある軽快な声で微睡みから引っ張り上げられた。虚ろな視界は曇りきってろくに景色も捉えられないけれど、がらんとした空洞の感覚ですでに講義が終わったことを察した。もはやここ数日のお決まり。ゆえに慣れたものだった。
「居眠りなんて珍しいね。疲れ溜まってるんじゃない? って、あはは! ナツメちゃん眼鏡真っ白だし!」
目撃された頻度は割と少ないのかと、ちょっとばかり安堵する。とりあえずは曇りの正体を教えてくれた彼に感謝申し上げようではないか。
「ありがとう、圭吾くん」
「え、いいっていいって! もちろん教授にも黙っててあげるからさ、ちゃんと休みな? ね?」
更にこの身まで案じてくれるというのか。そんな優しい目をして。荻原圭吾、君の細やかな気配りはまさに紳士と称して然るべき。今はこんなである私だって、是非とも見習いたいところだ。
見渡すまでもなく私たち以外の皆が皆、この場に居ないのだとわかった。眼鏡を外して身体を起こすと振動で机の上の幾つかがバサバサと音を立てて足元まで落ちていく。
「あらら!? もう、本当にどうしちゃったの?」
「すまぬ」
早速拾ってくれようとしゃがみ込んだ彼と同じように屈んだ。共に搔き集めていた途中、ふと向かい側の両手が動きを止めた。
「どいてて、ナツメちゃん。俺がやる」
「何故」
「いいから。そっちにずれて座ってて」
とりあえずは彼の言う通りに落ち着いた。しかし命じられた意味もわからないままだ。自分でぶちまけた私物を人様に拾わせるなど気が引けるのだがな……と、どうにも落ち着かずにいたときだ。
「ちゃんと脚閉じて」
「脚?」
「……そういうの、無防備だよ」
何が? しばらくは疑問だったものの、やがてわかった気がした。言われた通りそっと脚を閉じて、更に斜めに傾ける。そうだ、確かこれこそしとやかな淑女の振る舞い。
「見苦しいものを見せてすまなかった」
「……っ! いや、俺、見てないから! 本当に何も見てないからっ!!」
「それは良かった」
そんな耳まで赤くして力説せずとも君がそう言うのならそうなのだろう。こちら側に居るのはなかなか慣れないけれど、たまにはいいのかも知れない。これも勉強だ、なとど思って密かに笑みを浮かべていた。
一通りを拾い集めた後、送っていくよと言われた。ならば研究室まで、と返した私に、圭吾くんは呆れたような困ったような、何とも不思議な顔を向けた。
あれから磐座准教授とはまともに顔を合わせていない。強いて言うなら講義の際、出来るだけ遠くから見ているくらいのものだ。いや、視界に入ってきてしまう、それだけのこと。
そして今もなお、研究の手を休めている訳でもない。時間帯をずらせばいいだけのことだと、解決策を見出すまでにそれ程時間は要さなかった。それにもし会ってしまったとしても……
――ごめんなさい!!――
私は詫びたのだ。許されるかどうかとかそんな問題ではなく、これ以上に出来ることなど何もありはしない。謝罪はいくつ重ねたって変わらぬ“謝罪”。むしろ積み重ねる程に一枚一枚の薄っぺらさを強調しているような気がしてならない。
そう、薄いなんて、軽いなんて、決して……思われたくは、ない。
それだけは。
ふと、逆立つ悪寒に肩を抱いた。こんなのは久しぶりだと思ったときにはすでに、全身を包む冷感とは反して目頭を中心にたまらない熱が……
「え、ナツメちゃん?」
どうしたの、と聞き終える前にはすでに傾いで、いて。
「ナツメちゃんっ!!」
……ああ、私は今でもこうなのか。始めから独りであったなら何のことはなかったのに。
見えるところに在るのに届かない、触れられない。私は昔からこれが怖くて怖くてたまらなかったんだ。こんな呆気なく倒れ伏すくらい。
完全に気を失った訳ではない。ゆえに、この保健室までどうやって来たのかもうわかっている。狸寝入りを決め込んでいた私の髪をそっと撫でて、つい先程帰っていった彼によるものだろう。
圭吾くんには本当に重ね重ね申し訳ないことをしている。いたたまれない罪悪感に固く瞼を閉じていた。後で戻ると言い残した保健医が出て行ってから半身を起こしてみたのだが、それでもやっぱり頭も気も重くてうつむいたままだった。
しかしそんな状況もすぐに一変する。
――ナツメ……ッ!
勢いよく開け放つ音に混じって届いた、確かに届いた。
漆黒の瞳を大きく大きく見開いていく。声を聞き間違えるはずはない。
一体何処で知ったのだろう。真っ赤に染まった汗だくの顔は怒っているんだか泣いているんだかわからない。何故そんなに必死になってくれるのだろう。訊きたい事はいくつかあった。しかしその中でも何より先に確かめたいことがあったのだ。
「秋瀬……」
「磐座准教授」
だけどもう届かない。この耳を撫でてはくれない。自分から離れておいて我儘なのはわかっていたが、どうしても尋ねてみたくて。
「先生。今……私の」
「秋瀬」
そしてそれすらかなわない。おのずと無念の涙が滲んできた。
初めてだったのに。初めて私の望む名を呼んでくれたのに、何事も無かったように受け流すなんて……
満たされたばかりの願いがすぐに取り上げれたのだ。脱力するのも無理はないだろう。お願いだ、こんなことなら最初から与えないでくれ。お願いだよ。
目の前に居る彼と目を合わせられないまま、ナツメはこれまでのことを思い出した。ポロポロと塩辛い雫を零しながら。
本当は気付いていたよ。私が貴方を避けるようになってからも貴方は変わらず接しようとしてくれていた。すれ違えば挨拶だってしてくれた。教師として当然のことをしたまで、なんだろうけど、顔を伏せててもわかった。あの泣き顔のような笑みを浮かべているのがわかった。
もっと業務的に接すればいいものを貴方は相変わらず私の世話を焼いた。別の准教授がサンドイッチの差し入れを持ってきたことがあったけど、買ったのは貴方なんでしょう? 一緒にお昼を食べることもあったからわかります。いつも同じものを選んでいたから。
第一、ここまで親切にしてくれる教員は他に居ません。柳沼教授なんて私を目の上のたんこぶと思っているんですよ。みんな積極的に関わろうとしない。貴方くらいなんです。
だけどこちらが一歩近付けば貴方は一歩引く。それが今わかってしまった。そうなる予感はしていたけれど……
貴方はいつもそうだ。優しくて臆病な人。
中途半端に与えては奪い、与えては奪い……
怒りとも苛立ちとも言い難い、ひたすらの虚無感。もちろんわかってる。悪いのは私。貴方の前で泣くのだって子どもじみた八つ当たりとなんら変わりない。
膝の上で作った握り拳も力を失っていった。しかし、そんなとき。
――――!
“初めて”はまだ終わっていなかったと知った。白衣の腕の中へ一気に引き込まれたナツメの瞳は更なる潤いを帯びて艶めく。触れたくて仕方のなかった声を聞きながら。
「無理ばっかりして。僕ならいいのに、気にしないのに。本当に悪い子なんだから……!」
「冬樹さん」
「……っ、秋瀬、それは」
そうやってまた取り上げるんですね? こんなに強く抱き締めておきながら、この人は何処まで残酷なのだろう。何処まで私の心を踏みにじれば気が済むのだろう。
いいや、だから悪いのは私だ。私は何処までのめり込むのだろう。何処まで阿呆になれば気が済むのだろう。
「……冬樹、さん」
ぎゅっと唇を噛み締めた後、彼の名だけを呟いた。続きは私の胸の内だけで響いた。
ナツメって呼んでよ、ねぇ?
ああ、嫌だ。一体いつからこんなずるくて甘ったるい女の声色をものにしていたのだろう。こんなのが己の中に在るなんて知らなかった。知りたくなかった。




