八. 愛月徹灯
――気付いたことがあるのだ。
この花園から離れようと、そうでなくては駄目だと、乱暴者のヒキガエルの迎えさえ待たずに自ら飛び出した日から、私は我武者羅に走り続けた。
女の子だったらさぞや……なんて言われた容姿。小さい身体は早生まれゆえか、などと考えてもみたが、同じ月の生まれで私より大きい者など幾らでも居た。ならばせめて誰よりも軽いこの足取りだけは決して休めまいと心に決めてそうしたのだ。
きっと時代の先を行けるのだ。そう思いかけていた私は何と自惚れていたのだろう。どんな俊足でも敵わぬものが在る。時代の変化、時の流れ、そして。
灯火さえ掻き乱す情の嵐。
これが最も、読めないものなのだ。
身体の熱が冷めると反して空気が熱を帯びた。七月上旬。笹も短冊も揃えたが、買い物帰りの私が手にしているものはまた違う。これは夏呼の為のものだ。引き離された天の恋人同士が年に一度の逢瀬を果たす日。それが自身の生まれなのだと彼女は教えてくれた。
「浪漫のある話じゃのう」
あの名を与えたのも運命ではあるまいかと辿り着くなり綻んでしまう。我ながら何と冴えていることよ。はたから見てどれだけだらしない顔をしていようがもうどうでもいいくらいだ。
(ユキには何をやろうか?)
忘れもしないもう一人の夏生まれ。彼は物持ちがいい。凄く大事にする。だからこそもう少し考える時間が欲しかった。
きっと今日も来ているという察しは見事に当たったようだ。大学院の帰りなのだろう、夕暮れで陰った玄関に履き古した大きな靴を見つけると、夏南汰は一層軽快に、足早に、中へと歩みを進めた。
廊下にまで漏れている二人分の声に微笑んだ。何だか賑やかだ。楽しそうだ。もうここまで打ち解けたのかと寸前まで思っていた私は、やはり……何も知らなかったのか。
「変だと思ってるよね? 男なのにって、僕もそう思う」
「あの方は女を愛せる人ですよ」
「知ってる」
それは紛れもなくユキと夏呼の声。今日は日雇いのメイドも居ない。そもそも聞き間違えるはずもないと、ゆっくり近付いた扉にはわずかな隙間があった。
窓際あたりに見慣れた姿が……やはり。
「君の想いだって気付いているつもりだよ。すぐにわかった。だって僕は……ずっと見ていたから」
(夏呼をか?)
「初めて会ったときからなんだ。目覚めてしまった気がしたよ。それからずっとこうなんだ」
(いや、違う?)
多分。共に同じ誰かのことを語っているのは確かだろう。しかし一体誰を指しているのかまるで見当がつかない。私の知っている者なのか興味深いのだがなと、更に耳を寄せたとき。
「春日様、覚えていらっしゃいます? 想いに年月など関係ないと私はそう言いました。貴方に。お伝えしたつもりです」
今度は夏呼が言うのだ。
「貴方はどう受け取られましたか? 愛されている方が勝ち……」
「…………っ!」
「女の方が遥かに有利」
「…………」
ユキは黙ってしまったみたいだ。
「そんな風に聞こえたのなら、今ここで申し上げておきます。それは誤解だと」
「え……?」
「身分こそ違えどこの想いにおいては、貴方を対等に見ていいと思っています。私と貴方は……!」
何だ? 夏呼。何故、そんなに肩を震わせて……
「恋敵というだけですよ!!」
しばらく動くことが出来なかった。声はすっかり鎮まったようだった。いや、もしかすると私には届かなかったのかも知れない。
気がつくとこの身は手入れされた夏の草花が咲き誇る庭に在った。誰も追ってくる気配はない。どうやら私は忍者の如く、足音を潜めてここへ来たようなのだ。
(夏呼とユキが、恋敵?)
それはそれで興味深かったはずだ。相手は誰か、いつからなのか。この手の話は嫌いじゃない。すぐにでも扉を開けて事の真相を突き止めたい衝動に駆られてもおかしくなかったはずだ。
かつての私なら。
だけど今の私はどうだろうか。じんわりと滲み出した藍色にチラチラ生まれゆく星なんかを見上げている、これは……逃げたということなのか?
夏呼が“恋敵”と称した。そのもっと前に彼は
――男なのに――
唇に触れるとあの熱が灯る。
「ユキ……」
そういうことだったのか? それはさぞかし生きづらかっただろう。潜めて黙して、きっと苦しすぎて。
私が君を変えてしまったのか? 応え方もわからない、こんな私が。
やがてまぁるく現れた月に目が眩む頃、夏南汰の頰には星屑が伝った。指先の灯火も掻き消されてしまいそうな満天の夜空の下で寒くもないのに震えてしまった。
一年で最も眩しい季節。夏生まれのあの二人はまた一つ、大人になる。




