七. 沈思黙考
物心ついた頃からだった。歳の離れた兄とその友人たちの語らいに首を突っ込んでは摘み出され、更には
「秋瀬にはこんなかわええ妹がおったのかぁ」
こんなことまで言われて、何とも示した難い感情は一人踵を返す私に度々ベソをかかせた。そこから辿る道のりは決まって同じだった。西の地から越してきて建てたばかりの新築とは言え、歩めばそれなりに軋みも立てた。
そしていくらか行ったところで、ふわりと混じり出すのだ。
あれはお気に入りの紅茶だったのか、はたまた何かの香だったのか。引き戸を開けば花園のような異空間が広がるのだと知った上で、私は求めたのだ。性懲りもなく。
芳しい花弁に柔らかく包まれるとあの一寸程の姫にでもなった気分だった。いつしか私はヒキガエルの登場を願った。それが真の場所に辿り着く一歩ならば、いっそさらってくれないか、なんて。
香りが遠のく度に震えて眠るくらいなら。
「……っていう話なんだ。孤独な娘はあの日出逢った紳士に恋をしてしまった。しかも身分違い。更に彼には幼少の頃からの許嫁がいるときた。二人の乙女は共に同じ者を想っている。さぁ、どうなるだろうか、のう?」
ティーカップを置いた夏南汰は片の口角を悪戯っぽく吊り上げて向かいの二人へ問いかける。
「それはやっぱり、昔から想い続けている許嫁の方が彼をよりわかっているだろう」
「いいえ。想いに年月など関係ありません。その殿方は明らかに! 町娘の方を意識しているように思いますが?」
「どうだろうね?」
「……っ! そうに違いありません」
先日の旅先から持ち帰ったある恋の物語を教えてやったのだが、まさかここまで食い付いてくれるとは。うんうん、と頷く夏南汰の綻んだ頰には次第に色味が広がっていく。
感慨深いとはまさにこのことだ。あんなにぎこちなかった夏呼とユキが今や討論を楽しむ程に打ち解けているなんて。
「良かった」
色々あったけれど、本当に。
良かっ……た……
「え、秋瀬? 顔色が……」
室内に陰が落ちたのは雨雲のせいか。いや、それにしてはやけに暑い。遠のく全て。ユキ、夏呼……何処へ、行く……?
「秋瀬っ!!」
「夏南汰様!!」
暗転の中へ堕ちてどれくらい経った頃か。
「三十八度五分」
体温計を取り上げたユキがやれやれと言わんばかりのため息をこぼす。
「低体温だからな。こたえる訳だ」
「他人事みたいに言わないでよ」
布団に包まりつつ笑みを浮かべる私の赤ら顔をユキは厳しい目で見下ろしていた。しかしどういう訳か、それもやがて形を変えて。
「ごめんね、秋瀬」
どういう訳か詫びるのだ。
「君はあのときも言ってたのにね。寂しいと倒れてしまうって……言ってたのに」
「そんなことは言っていない」
「言ったよ」
「言・っ・て・な・い!」
比喩などではなく本当に、ふん! などと言って顔をそむけた。夏呼と寝床を別にしたから? それで風邪? そんなはずはない。私はもう大人だ。認めてなどやるものか。
「髪切ってないんだから、そういうことだよ、きっと」
「…………っ」
「僕に出来ることなら何でも言って」
――秋瀬。
冷たい感触が頰に当たった。ユキが髪を撫でたのだと知ると胸の奥が更に苦しく締まる。ユキ……って、小さく呼んでしまう。何だい? と顔を寄せる君に、甘えてしまう。
「抱いてくれ」
…………
「…………え?」
「抱いて」
あ…………
「ああああああああ秋瀬ぇッ!?」
椅子をガタガタ鳴らして腰を浮かせるユキに指先で触れようとするも思うように届かない。いや、むしろ遠のいたか? こちらの熱がうつったみたいに真っ赤な顔をした彼は、滅茶苦茶にかぶりを振って更に。
「いやいやいやいや!!」
(嫌、嫌、嫌、嫌?)
そうか、そうだな。私がどうかしていた。少し寂しく思うけれど納得するのは容易だ。
「嫌、か」
この“当たり前”ならわかる。だって君は医者の卵だ。自分が風邪をひいたんじゃ示しがつかないというもの。
「嫌な訳ないだろ!!」
……違うのか?
一体何処で口を滑らせたというのだろう。ぱちん、と音が立つ勢いで口を抑えたユキへと夏南汰は這うようにして寄っていく。ベッドの際まできたところで慌てて支えようと近付いてきたユキを、もう離すまいと上目で見上げて。
「なら頼む」
「あ、秋瀬……っ、でも……」
「出来るだけ強く」
「強く!? なっ、何言ってんの、病人なのに!」
さっきからユキの言っていることが今ひとつよくわからないのは、やはりこの熱のせいだろうか。ともかくもう限界だった。
「ぶちさびいんじゃけ(凄く寒いんだ)、こう、ぎゅーっと」
…………
「はよぉ〜……ユキぃ〜」
「あっ……」
それからだいぶ遅れてだ。汗ばんだままのユキが、いいよ、と言って微笑んだのは。
その夜、私はユキの腕の中で母の夢を見た。懐かしい気配はこの頰を、髪を、額までも触れてくれるのだが、何故だろう。やけに冷たいような気がした。
熱い息をこぼす一点にはただ一度だけ触れてくれた。これも、やはり。
――夏南汰。
甘く囁く声色も何処か寂しげに聞こえた。この夜、私に降り注いだ全ては、まるで密やかに触れて、冷やす……降り始めの粉雪のように。
「嘘みたいに熱が下がったね。良かった」
朝の細い陽射しよりも先に、その声で身体を起こした。夏南汰はもう一度そこへ触れてみる。あんなに冷たかったはずなのに、熱い?
――ユキ。
窓際の彼を呼んだ。どうにも不思議なこの感覚。今、指先で触れている場所に未だ残り続けている熱の正体が知りたかった。
「私に、触ったか?」
知りたかった。しかし、ゆっくりと振り向いた彼はいつもの柔らかい笑みでこう言うのだ。
「何言ってんの。ずっと温めていたじゃない」
漆黒の長い髪、低い背丈。小さな唇。私はあの頃とさほど変わらない。だけどやはり君は変わったと思う。
ユキは何だか、強かになったと思う。




